「似てきたな……」
きっと、男はそう呟いたに違いない。
だからこそ、男は一気に剃った。何の迷いもためらいもなく。自分の顔に刃を当てたのである。
そのツルリとした顔で江戸幕府に出仕した際は、周囲に大層驚かれたのだとか。というのも、現代とは異なり、当時は、男たるもの「髭(ヒゲ)」を生やしているのが一般的。顎に頬にと、うっすらでも、わんさかでも、こんもりでも。あってしかるべき「髭(ヒゲ)社会」なのである。
それが、一切合切、男の顔からは剃り落とされていた。
なぜか?
理由は至ってシンプル。
髭(ヒゲ)を蓄えた姿が、あるお方にそっくりだったから。
そのお方とは、誰もが知っている江戸幕府を築いた「神君」。あの徳川家康である。
そして、髭(ヒゲ)を剃ったこの男こそ、今回の記事の主人公。晩年に、江戸幕府初の大老職に抜擢された「土井利勝(どいとしかつ)」。
徳川家三代。
家康、秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)と、幕府の礎を盤石にした3人に仕え、「家光の懐刀(ふところがたな)」ともいわれた男。3人から重用される理由は、一体何だったのか。
そこまで徳川家の将軍らを惹きつける魅力。今回は、その知られざる素顔を伝えていこう。
波乱万丈といわれた出生の秘密
さて、先ほどの髭(ヒゲ)の話だが、疑問が1つ。
剃らなければならないほどに、どうして土井利勝は主君である徳川家康に似ていたのか。じつは、この謎は、彼の生い立ちと大いに関係する。
幕府の最高職にまで昇りつめた土井利勝だが、その出自ははっきりしていない。父親候補は3名。そのうちの1名が、あの「徳川家康」である。いわゆる「家康の御落胤(ごらくいん)」説である。
御落胤とは、一般的に、身分の高い男が正妻以外の女にひそかに生ませた子を意味する。「おとしだね」との呼び名も。このような噂は、別段珍しくない。どの戦国武将にも囁かれるモノである。
ただ、利勝の場合、単なる噂とは片付けられない事情が。というのも、まことしやかに囁かれたこの噂、徳川家の公式記録である『徳川実記』にも記されているからだ。
つまり、この「御落胤説」が正しければ、土井利勝は、徳川家康が誰かに産ませた子ということになる。そりゃ、親子ならば当然。二人が似ているのも納得である。
一方、他にも父親候補の方が。
その1人が「水野信元(みずののぶもと)」。家康の実母である「於大の方(おだいのかた)」の異母兄。つまり、家康からすれば叔父にあたる間柄だ。土井利勝はその末子だというから、利勝と徳川家康は従兄弟にあたる。
つまり、こちらの場合も二人には似ている要素があるというコト。ちなみに、この水野信元。当初は織田信長と良好な関係であったのだが。武田勝頼との内通を疑われ失脚。信長の命により、なんと、家康に滅ぼされてしまう。
この際に、家康は遺児である利勝を不憫に思い、徳川家家臣の土井利昌(どいとしまさ)と養子縁組をさせた。そのため「土井」姓となっているのである。どちらにしろ血縁であることに変わりはないのだから、家康と外見が似ていても、なんら不思議はない。
もちろん、これで終わらせないのが、土井利勝の第3の父親候補である。じつにややこしいのだが。『寛永諸家系図伝』では、養父とされていた「土井利昌」こそが、実父だというのである。
三者が入り乱れるから、余計に土井利勝の出自はこんがらがる事態に。しかし、それでも、である。特殊なバックグラウンドを背負いつつ。なぜか利勝は出世街道まっしぐら。幼少時より家康に仕え、鷹狩りにはお供を命じられるほどだったという。
30歳もの年が離れた家康の寵愛ぶりに、御落胤ではとの疑いを抱かれるのも仕方あるまい。
それだけではない。天正7(1579)年、7歳となった利勝は、家康の三男・秀忠に仕えることに。当初、米200俵を与えられ、その後は秀忠の側近として頭角を現し、あっという間に加増の連続。
慶長7(1602)年に1万石。慶長20(1615)年の「大坂夏の陣」ののちには、6万5000石に加増。寛永10(1633)年には、下総国古河藩(茨城県古河市)へ転封。最終的には16万石と大出世。
なんなら、慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」では、徳川秀忠は大遅参。家康に大目玉を食らうのだが。この秀忠に付き添っていた土井利勝は、逆に500石加増。なんでと目を疑う破格の待遇である。
こんな調子で。土井利勝の出生の裏には「家康の御落胤説」が付きまとう。そして、それは時が経過するほど、真実味を帯びるのであった。
2代秀忠に隠居撤回を進言するその度胸
誤解を与えてしまいそうだが。大出世の裏側には、もちろん、土井利勝の有能さがあることは言うまでもない。
そして、何より、彼は非常に気配りの行き届く人であった。
家臣らに注意をする際も、ただ上から叱りつけるようなことはしない。真正面というよりは、真横からアプローチするようなタイプである。
例えば、2代将軍秀忠は大のタバコ嫌い。嫌煙家だったことは有名だ。これを受けて、江戸城も全面禁煙となる。ただ、そうは言っても、すぐに止められないのが人間というもの。
いくら全面禁煙となっても、隠れる場所はある。
こうして、仕事を終えて一服する武士たち。そこに、あの土井利勝が登場。まあ、体育館の裏辺りでふかしているところを、校長に見つかったような感じだろうか。
大いに慌てふためく武士の皆さん。だって、相手は老中である。2代将軍秀忠の「ベストオブ側近」なのだ。どのような処分となるのか。戦々恐々するも、とにかく隠せるものは隠せと、混乱の極み。
そこを、土井利勝は。
「まあまあ」となだめて。さっさと襖を閉めてと。なんなら、横に座ってきたのである。
冷や汗をかき、困り果てた武士たちに、利勝は暢気に「わしにも欲しい」とタバコをねだる。こうして、土井利勝も武士らに混ざってタバコをふかすことに。
そして、去り際。
「珍しいモノを有難い」と言葉をかけて。今日はわしも同罪だと。しかし、これからはもう止めるようにと諭したという。
最後の言葉が極めつけ。
「上様がことのほかお嫌いなのでな」
落語のような見事なラストである。
江戸城では、これ以降、城内での喫煙はなくなったという。なんとも、憎い注意の仕方である。
そんな心配りの達人である土井利勝だが。
必要あらば、2代将軍秀忠にだって諫言するほどの度胸持ち。
じつは、秀忠も早めに将軍職を譲り、「大御所(おおごしょ)」として実権を握ろうと考えていたことがある。ちょうど徳川家康が行ったような政治体制を望んでいたというワケだ。そこで、秀忠は早々と隠居生活を宣言するのだが。
これを伝えられた家臣のうち、井伊直孝(いいなおたか)だけが不安な様相に。というのも、彼には財政面での懸念があったからだ。その表情を見て、土井利勝が事情を聞くと。どうやら、大阪の陣で諸大名らの懐事情は芳しくないという。それなのに、このタイミングで隠居となると、大名らは祝い金などでさらに困窮するのではないかと。
この事情に納得した土井利勝は、なんと2代将軍秀忠に隠居撤回を迫る。
どんなにこちらの選択肢がよいと思っていても、相手は将軍である。主君である。なかなか言い出しづらいものであろう。しかし、利勝は物怖じせずに、事情を説明して撤回を進言したのである。
非常に実直な人柄が分かる逸話である。
ちなみに、秀忠も土井利勝が言うのだからと、隠居を撤回したのだとか。
重用された理由は…塩梅が分かるから?
2代将軍秀忠からも絶大な信頼を寄せられていた土井利勝。続く3代将軍家光からも同様。側近となって諸大名から幕府へと取り次ぐ仲介的な役割を担うことに。
晩年は、中風を患ったこともあり、老中(ろうじゅう)から退く決意をするのだが。もちろん家光は許さず。利勝は遺留され、さらには江戸幕府初の大老(たいろう)職へと抜擢。この「大老」とは常置の役職ではなく、必要に応じて老中の上に置かれるもの。こうして、政務を総轄する最高職へと昇りつめるのである。
そんな大役を仰せつかった土井利勝。
そこまで、重用された理由は何だったのか。その答えのヒントとなる逸話がある。
ある日のこと。
大老となった土井利勝を訪ねた男がひとり。寛永10(1633)年、老中に就任した「堀田正盛(ほったまさもり)」である。
彼は、若年寄(わかどしより)に属する「目付(めつけ)」の人選に悩んでいた。どのような人物を選べばよいか、土井利勝に相談に来たというのである。
この「目付」とは、旗本や御家人を監察する役割を担っている職位である。どのような人物がといわれても、そんなストレートな質問はなかなか難しいと思うのだが。それでも、やはり風格が違うとでもいうか。さすが、大老となる御仁である。堀田正盛の問いに対して、言い得て妙な答えが繰り出される。
土井利勝がいうには。
まず、招待先で馳走が出されたときをイメージしろというワケである。
さあ、これから椀を頂こう。そんな時である。
「わざわざ『その汁には蠅が入っています』やら『この膾(なます)には蚊が入っています』と言われると、害にはならぬがうるさいと感じるもの。かといって、砒素や毒虫を入れられた食べ物をわざと見逃す人間は論外。害にならぬことを言わず、重要なことには油断なく。これが目付の人柄ですな」
(左文字右京著『日本の大名・旗本のしびれる逸話』より一部抜粋)
なるほど。
ふむふむと頷くような答えである。これは、現代でも通用する名答だといえよう。いや、まさに、この人物こそが土井利勝本人ともいえる。
諸藩からの取次は、様々な水面下での調整が必要となる。幕府の中でも根回しを行わねばならないことも。事前にどのような手続きとなるかを把握して、先方に的確に指示する。非常に重要な役目である。
うるさ過ぎず、大事なことは漏らさずに。こちらが言わなくても、ちょうどよい塩梅(あんばい)が分かる。そんな人物が土井利勝であった。だからこそ、3人の将軍は重用し、彼らにとってなくてはならない人物となりえたのだろう。
そんな利勝も年には勝てず。
寛永21(1644)年。土井利勝死去。享年72。
これほど惜しまれることも珍しい。そんな生涯の幕の下ろし方であった。
最後に。
冒頭の話で締めくくろう。
土井利勝が徳川家康の子かどうかなど、もちろん分からない。ただ、利勝自身が、家康に似ていると言われるのを、非常に嫌ったという。
確かに「親の七光り」と見られるのは歯がゆいだろう。最近では、あえて血縁関係を出さない、そんな芸能人も増えてきた。無名から這い上がった輝かしい結果も実力ゆえのこと。それを、逆に「七光り」で霞ませるなどしたくないのだろう。そういう意味で、利勝も「家康似」をとことん嫌がったのだろうか。
なお、この髭(ヒゲ)剃りには後日談がある。
髭(ヒゲ)まで手放して、「家康似」から遠ざかろうとした土井利勝。しかし、彼の家臣らはそんな気持ちなど露知らず。
「土井様が剃られたのに……」
日本特有の空気を読む気質は、既にこの時分から育まれていたのだろうか。土井様に髭(ヒゲ)がないにもかかわらず、まさか下位の自分たちが生やすだなんてと、いらぬ配慮を勝手に行った結果。なぜか、皆が一様に剃ったというオチ。
こうして、武将から髭(ヒゲ)がなくなったのだとか。
些細な事にまで目を配り、痒い所にも手が届くような人物だった。その後ろ姿は、確実に下位の者にも受け継がれたといえる。
いや、正面の髭(ヒゲ)がない部分も、か。
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参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『徳川四天王』東由士編 株式会社英和出版社 2014年7月
別冊宝島『新説 戦国時代』 山本博文監 株式会社宝島社 2017年8月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月