戦国一、波乱万丈の人生を生きた女性。
そう問われれば、誰の名前を思い出すだろうか。
戦国時代は一寸先も闇。
どのような人生が待ち受けているか、分かったものではない。そういう意味では、当時の女性全員が、波乱万丈といってもおかしくはないだろう。なかなか1つになど、絞り切れるものでもない。
そんななかで、今回、ご紹介する女性はというと。
じつは、比較的、名の知れた……というタイプではない。どちらかというと、ひっそりと、だが、懸命に生きた証を残した方。
その生き様を知ってしまうと。
ひょっとしたら、この方が一番波乱万丈なのではと思ってしまう、そんな女性である。
名は「大福御前」。
「おふくごぜん」と読む。鉢形城(はちがたじょう)の城主である北条氏邦(うじくに)の正室だ。そんな彼女を、嵐のような出来事が次々に襲う。
今回は、そんな「大福御前」の起伏激しい人生をご紹介。
彼女が選択した「最期」とは、一体何だったのか。
降りかかる悲劇の連続、そして秀吉の小田原攻め
まずもって悲劇は重なるもの。そう思わずにはいられない人生である。
そもそも、今回の主人公である大福御前が生まれた藤田家は、元をたどれば鎌倉武士の一族。現在の埼玉県大里郡寄居町(よりいまち)の辺りが、ちょうど源頼朝(よりとも)に安堵された領土であったとか。この先祖代々の土地を250年もの間、守ってきた名家が藤田一族である。
父は藤田康邦(やすくに)、母は西福御前(さいふくごぜん)。康邦は天神山城(てんじんやまじょう、埼玉県秩父郡)の城主で、この2人の間に生まれたのが大福御前である。
さて、ちょうどその頃。
近隣には、小田原城(神奈川県小田原市)を居城とする北条家が領土拡大の真っ最中。結果からいえば、北条氏の選択は、姻戚関係を結んで有力な一族を取り込むことであった。早速、北条氏康(うじやす)の四男(諸説あり)である氏邦(うじくに)を、藤田家に養子に出す。
この藤田家の養子となった氏邦こそが、大福御前の夫。
つまり、藤田康邦は、のちに娘とこの氏邦を結婚させたのである。
これにより、養父の藤田康邦は、家督を譲り、近くに城を築いて隠棲。花園城や天神山城を氏邦に与えたのである。その後、天文24(1555)年に康邦は病死、母の西福御前も数年後に逝去する。
大福御前からすれば、夫が「藤田氏邦」となって家督を継ぎ、藤田家も安泰だと思ったことだろう。
しかし、である。
夫の氏邦は、天神城を離れることを決断。「鉢形城(埼玉県大里郡)」を整備し入城することに。この鉢形城は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上にあった。つまり、天然の要害をなしており、敵方からすれば、攻略することが難しい城でもあったのだ。
一方で、北条氏側からしても、鉢形城は北関東支配の拠点として重要な場所。甲斐(山梨県)や信濃(長野県)からの侵攻への備えとして、重要な役割を果たすことができる。
永禄12(1569)年、そんな鉢形城へ2人は移る。
さらに、である。
この藤田氏邦、あっさりと名前までも「北条」の氏に戻してしまう。以降は、「北条氏邦」として、北条家のために戦うのであった。
それだけではない。
一説には、北条氏邦は、沼田城代となった大福御前の実弟の「用土重連(ようどしげつら)」を毒殺(諸説あり)。このこともあって、同じく実弟である藤田信吉は、武田勝頼へと寝返り、北条氏と敵対関係となる。
こうなっては、どうしようもない。夫は紛れもない北条氏の一族。そんな夫に弟を殺され、もう1人の弟とも敵対関係に。これが真実であれば、大福御前は、どれほど心を痛めただろう。特に、自分の実家である「藤田家」がないがしろにされるのは、いたたまれなかったに違いない。
そんな心労が続く中で。
一息つく間もないまま、天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めが始まる。
じつは、天下は既に、豊臣秀吉が握っていたのだが。未だ、名門一族の誇りを捨てきれない北条氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)父子は、秀吉の上洛要求を拒否。氏政の弟で、外交に長けた穏健派の北条氏規(うじのり)を交渉役として上洛させていた。
氏規は翌年の上洛を約束するのだが。それでも、北条氏側では、意見がまとまらず。ちなみに、北条氏邦は主戦派。豊臣秀吉に対する徹底抗戦を主張していたようである。
そんな状況下で、秀吉が裁定した沼田領争いに、再度火がつく。北条氏側が真田領の名胡桃城(なぐるみじょう、群馬県利根郡)を奪取。これに秀吉も激怒。一気に大軍を派兵したのが、この小田原攻めである。
鉢形城には、北条氏邦が籠城。このとき、大福御前も共に城にいたとされている。彼らを包囲するのは、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの錚々たる面々。加えて、家康軍からは、あの本多忠勝も参戦。なお、大福御前の実弟である藤田信吉も包囲網の一員として含まれていたという。
北条氏邦は、なんとか1ヶ月余り籠城するのだが。
さすがに歴史上有名な戦国武将らが一同に包囲するとなっては、思うように打って出られず。兵力差でもかなうワケがない。次第に食料や弾薬が尽き始めていく。この状況に、氏邦は先に大福御前らを逃がしてから、開城を決断する。
同年6月14日。城兵の助命を条件に開城。
氏邦は、小田原城を開城した氏直と共に、高野山(和歌山県)へ。その後は、前田家預かりの身となり、一度も戻ることができなかったという。前田利家より1,000石を与えられ、残りの生涯を七尾(石川県)で過ごす。
慶長2(1597)年8月8日死去。
北条氏邦の亡骸は、死してようやく、藤田氏の菩提寺である正龍寺(埼玉県寄居町)へと戻ることができたのである。
鉢形城脱出のあとに何が起こったのか?
さて。
一足先に鉢形城を脱出したとされる大福御前だが。うまく逃げ切れたのかというと、そうでもない。じつは、このあとの彼女の足取りが不明となるのである。
彼女のお墓は正龍寺にあり、その近くに「大福御前自刃の地」という石碑もある。ただ、大福御前に関する確定的な記録があまりない。
さらに、地元に伝わる「大福御前のその後」の話も、1つではない。その経緯や顛末が分かれているのである。
そのうちの1つ。
そもそも脱出する際に身投げしたとする説がある。鉢形城跡の近くに、少し出っ張った石があるのだとか。地元ではこの場所で身投げしたといいわれているという。
一方で、無事に鉢形城から脱出して、正龍寺で剃髪して尼となったとする説もある。こちらが、一般的によく知れ渡っている内容である。
ただ、じつは、もう1つ。
知られざる苦労の連続に見舞われる説がある。今回は、あえてこちらをご紹介しよう。
鉢形城を無事に脱出した大福御前は、以前に居城していた「天神山城」を目指す。先祖伝来の文書や宝物などを持っていたからか。その道中で、なんと、落武者を狙う山賊に襲われてしまうのである。
家臣らも必至。なんとか主君の正室を守らねばと奮戦するのだが。50人もの山賊相手に力及ばず。大福御前は身ぐるみ奪われ、奥州の久乃村へ売りとばされてしまうのである。
もう、想像を絶するくらいの人生の振れ幅である。
今まで城主であった女性が、身売りとは。あまりにも過酷な人生ではないか。
こうして、一時期、大福御前は行方不明に。
さらわれ売られてしまっては、探すことも難しい。ただでさえ、秀吉の小田原攻めの最中である。すぐに追っ手を差し向わせることなどできないだろう。
しかし、である。
このまま、行方知れずかと思いきや。
月日が経ったある日のこと。偶然にも、奥州へ馬の仕入れに来ていた秩父の商人たち。
「あれは、もしや……?」
かつての城主の奥方の面影がある女性を見て。彼らは、その女性が、あの行方知れずの「大福御前」だと、確信するのである。
なんとか、その女性にコンタクトするも。やはり、その人こそ、あの行方知れずの大福御前だったという。彼女は、商人らに手紙を託し、夫・氏邦の旧臣に渡してもらう手筈を整える。
ようやく旧臣らは、大福御前の手紙を読んで、奥方様の生存を知ることに。かつての主君である氏邦は、前田家預かりの身。そこで、旧臣らは自ら奥州へと出向き、大福御前を救出するのである。
そして身を寄せた先がというと、先ほどの「正龍寺」。
ここにきて、大福御前は夫・氏邦の生存を初めて知ったとか。ただ、再会することも難しく。結果的に、正龍寺で尼となる道を選ぶのである。
剃髪し、彼女は「宋栄尼(そうえいに)」と名乗ったという。
こちらの説も、最後は尼となるのだが、その経緯は苦難の連続。何しろ、口伝のみなので、確定的ではない。ただ、1ついえるのは、どの説をとっても、戦国時代の荒波に翻弄されたというコトだろう。
最後に。
大福御前は、このまま正龍寺にて余生を過ごしたのか。
否。
彼女の人生は、突然に終わる。
それも、自分で終了させたのである。
もともと正龍寺にて、戦で亡くなった者たちを弔うことを選んだ大福御前。じつは、それ以外にも、彼女には生きる目的があった。それが、かわいい我が子の安泰を願うコト。
大福御前と氏邦の間には、3人の子がいたが、長男は早世し、次男は仏門へ。三男の「光福丸(こうふくまる)」だけが、大福御前の希望であった。
そんな三男の将来を願って、一説には、大福御前は願掛けをしたとも。毎日読経し、ただひたすら、子の幸せを願っていたという。
そして、ようやく満願の1,000日目。
願掛けも終わったところで、大福御前は何を思ったのだろうか。生きる目的がついえたのか。それとも、我が命をかけて願掛けをしていたのだろうか。
髪が伸びたからと、剃刀を借りて。
身を綺麗にしてから、仏前に座り。剃刀でのどを突いて、自刃。
文禄2(1592)年5月10日。享年53(諸説あり)。
理由は不明。予想外の最期であった。
彼女の人生は、波乱万丈などと、一言では言い表せない。何度も絶望に突き落とされたように思う。それでも、生き延びたのは、様々な思いがあったからだろう。その1つが、大事な我が子への思いだ。1,000日とは、大体2年9か月ほどの期間だ。ただひたすら願った思いが報われるかも確認しないまま。既に、この世に未練はなかったのかもしれない。
振り返れば、ジェットコースターのように、急な展開であっという間に過ぎ去ってしまう人生だった。
せめて、一時でも。
彼女が幸せだったと思える瞬間があったことを祈りたい。
参考文献
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
『戦国を生きた姫君たち』 火坂雅志著 株式会社角川 2015年9月
『戦国武将50通の手紙』 加来耕三著 株式会社双葉社 1993年