こわぁ~い奥さまがたに尻に敷かれている男性、世の中にたくさんいるはず。山の神、なんて呼んだりもしますし、いつの世も女性は強いものです。
戦国時代、そんな強い女性が、あの勇猛果敢な加藤清正をひるませた、というエピソードが残されています。いったいどんな人だったのでしょう? 鬼神のような強さだった? 周囲は頭が上がらなかった? それとも……。
名が体を表さない姫!?
豊後大友家の名将・立花道雪(たちばな どうせつ)の娘、誾千代(ぎんちよ)。この姫が今回の主人公です。
道雪が56歳の時、一人娘(※異説もあり)として生まれた誾千代は、父から嫡子の扱いを受け、幼い頃から城主教育を施されました。
慎み深く、和やかで人の話に耳を傾ける子になるよう、と、肥前の僧侶、増吟(ぞうぎん)によって名付けられましたが、「誾」の字に込められた「穏やか、和やか」という願いとは裏腹に、なかなか気性が激しかったといいます。
道雪には男子がおらず、誾千代は7歳の時に立花城はじめ、後継者の相続する一切を譲り受けます。戦国時代には異例の、女性城主の誕生でした。
自ら鉄砲隊を指揮!?
主家である大友氏が衰退しはじめると、誾千代は侍女らを集めて武術の訓練を行います。一説に、誾千代は生涯のうちに女性鉄砲隊を組織していたこともあったといいます。
鉄砲隊のエピソードは史実かどうか定かではないようですが、そんな話が伝わるほど、誾千代は勇ましい姫だったのですね。
夫の言いなりになんかならない!
やがて13歳になった誾千代は、高橋紹運(たかはし じょううん)の長男で15歳の統虎(むねとら)、後の宗茂(むねしげ)を婿養子に迎えます。宗茂は後に名将と讃えられ、棚倉藩(現在の福島県)藩主および柳河藩(現在の福岡県)の初代藩主となった戦国武将ですが、誾千代と宗茂は頻繫に衝突していたといわれます。生来の性格に加え、城主は自分である、との自負が誾千代にはあったのではないでしょうか。
父譲りの気性の激しさを持つ誾千代と、幼少期から物怖じしない豪胆な性格の宗茂、この幼馴染のぶつかり合いは激しかったらしく、2人は後に別居することになります(跡継ぎのためか、宗茂が側室を持ったのが原因ともいわれる)。
誾千代がいるから、通るのやめよう……
関ヶ原の合戦は美濃の関ヶ原だけでなく、全国で東軍方と西軍方の戦いが起こりました。立花宗茂は西軍についたため、宗茂や誾千代の拠点・筑後柳川に、東軍方の加藤清正・黒田如水・鍋島勝茂らが攻め寄せます。
清正が宗茂に柳川城開城の説得にきたとき、立花領へ向かう街道には江之浦街道と瀬高街道の2つの街道がありました。清正はどちらを進むべきか家臣に尋ねます。
家臣は、「江之浦街道を進むと、渡るのが難しい川と誾千代が陣を張る宮永館があり、誾千代は非常に領民から慕われているので、もしこちらに進軍するとなれば、みなが攻め寄せてくるでしょう」と答えました。
これを聞いた清正は、誾千代を避けて瀬高街道を進むことにしたのでした。
なお、誾千代は鍋島が海から攻め寄せることを予測して、あらかじめ土地の百姓らに南の浦を守らせたため、鍋島は軍船での襲撃ができなくなった、また、清正の軍勢を威嚇して迂回させた、ともいわれています。
戦う戦国の女性たち
戦う女性、というと、大河ドラマ『八重の桜』の主人公、新島八重(にいじまやえ)や中野竹子(なかのたけこ)が思い浮かんだのですが、戦国時代には誾千代のほかにも、自ら武器をとって戦場に赴いた女性が数人いたそうです。この時代の女性のイメージが、今までとちょっと変わって見えてきました。
戦国時代の男女は、実は意外にも対等に近かったのだとか。戦場に赴く役割は基本的に男性のものですが、女性もいざとなったら武器をとって戦ったのですね。
戦国時代の疑問を解説!ゲームキャラのように女性も本当に戦っていたの?歴史のプロに聞いてみた!
アイキャッチ画像:勝川春章『Onoe Tamizo as a Samurai Woman』、メトロポリタン美術館より
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