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この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(藤原道長)

読み物
Culture
2020.10.30

徳川家康をたった一度も裏切らなかった男「天野康景」。生涯貫き通した仰天の忠義とは?

この記事を書いた人

戦国武将の面白いトコロは、やはり、その生き様だろう。

彼らが、何に重きを置いて生きたのか。その判断は、生まれ持った性格や環境、はたまた人生での出来事などに左右される。

そんな彼らの人生を一言で表すのが「ニックネーム」。なんなら「枕詞」のようなものといった方が、ピンとくるかもしれない。えてして戦国武将には何かしらの呼び名がつくことが多い。

さて、今回の記事の主人公はというと。
まずはそのニックネームから。

その名も「どちへんなし」
この言葉。一体、どこで区切っていいかすら、分からない。

ちなみに、漢字で書けば「何方偏なし、(彼是偏なし)」となる。
そのままの意味で「どちらにも偏らない」、つまりは「公平である」という意味を指す。どうやら、今回の主人公は、その生き様から、「公平な男」というニックネームがついたようだ。

そう聞けば、歴史好きの方であれば、何人かの名前を思い浮かべるだろうか。その中でも、今回の方は筋金入り。なんでも、曲がったコトが大嫌い。そのために、自国の領地から身を引き、藩は廃絶となったのだから。

その名も「天野康景(あまのやすかげ)」。

さてさて、今回はどんな結末が待っているのか。
彼が、どうしても我慢できなかったコトとは?
早速、ご紹介していこう。
(この記事は、「天野康景」、「徳川家康」の名で統一して書かれています)

66歳で初めて1万石の大名に?

「どちへんなし」といわれるだけあって、自分の出世は後回しだったのか。

慶長7(1602)年。
じつは、この年に天野康景は、初めて興国寺藩(静岡県沼津市)1万石の大名となる。当時、康景の年齢はなんと66歳。「遅咲き」の戦国武将である。なんなら、この「康景」という名も、徳川家康の諱(いみな)である1字の「康」を賜ったもの。この年までは「景能(かげよし)」という名であったとか。

もともと、天野氏は、源頼朝に仕えた「天野遠景(とおかげ)」を初代とする。数えて16代目が徳川家(当時は松平家)に仕えており、康景は天野氏18代目。天文6(1537)年に天野景隆(かげたか)の長男として生まれている。

なお、徳川家康は天文11(1542)年生まれ。ちょうど康景の方が5歳年上となる。家康(当時は竹千代)が生まれた際には3人の小姓がつけられたのだが。そのうちの1人が、この5歳の康景であった。なお、今川家に人質とされたときも、のちに駿府(静岡県)へ戻ったときも、天野康景はずっと家康に付き従っていたのである。

小林清親 「教導立志基 卅一〔三十〕徳川竹千代君」「教導立志基」「徳川竹千代君」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

家康が幼少の頃からずっと傍にいた天野康景。
その信頼度は、計り知れない。というのも、徳川家康にはその生涯において、3つの大きな試練が訪れているのだが。そのうちの2つで、天野康景は家康の傍を離れなかったからだ。

1つは、徳川家家臣団が2つに分かれた「三河一向一揆」である。三河(愛知県)にて、一向宗門徒らの一揆が勃発。家康の家臣にも一向宗の信徒が多数いたため、結果的に味方同士で戦う事態に。

例えば、晩年、家康に一番近いといわれた腹心の「本多正信(ほんだまさのぶ)」。彼でさえ、一向宗側に与して家康と戦ったほど。自分の信念を変えることは難しい。特に宗教は、自分の生き方の根幹にかかわるモノ。主君も大事だが、信仰もそう易々と捨てることはできないだろう。

しかし、一方で。
主君の家康のためならと。宗旨替えまでして、家康の下で一向宗門徒と戦った戦国武将も。「家康に過ぎたるもの」といわれた「本多忠勝」その人である。そして、じつは今回取り上げている「天野康景」も、そのうちの1人。一族の中には一向宗側についた者もいたようだが。天野康景は、自分の宗旨を捨ててまで、家康の傍を離れはしなかった。

そんな康景だからこそ。
永禄8(1565)年。三河一向一揆も落ち着き、東三河の吉田城(愛知県豊橋市)も陥落したところで。ようやく、三河統一を果たした家康は、岡崎に「三河奉行」を置くことになる。その1人として抜擢されたのが、天野康景。最年少の29歳であった。

さて、この三河奉行時代につけられたニックネームが「どちへんなきは天野三郎兵衛(康景のこと)」。

どちらかに肩入れするわけでもなく、公平に物事を判断することから、このように呼ばれたという。

天野康景が貫く正義とは?

その後も家康の信任は厚く、多くの大役を任せられることに。
それは、決して派手ではない。華々しい武功を上げる、有名になるというワケではないのだが。信頼できる者しか務まらない役どころを、大事な節目で家康より任されている。

家康の人生の三大危機のもう1つが、天正10(1582)年の「本能寺の変」である。
織田信長は自刃し、ちょうど堺にいた徳川家康は慌てて岡崎城(愛知県)を目指すのだが。なんせ、供の者が少ない。そのうえ、謀反を起こした明智光秀の軍勢と落ち武者狩りの危険がダブルパンチ。決死の覚悟で帰城した「神君伊賀越え」。ここでも天野康景は、家康の鎧を預かって、後から有象無象を追い散らして続いたという。

慶長5(1600)年、家康が上杉討伐に向かう際には、康景を大坂城西の丸の城代に抜擢。その同年9月の「関ヶ原の戦い」でも江戸城西の丸の留守居を務めている。城を任せるというコトは、敵方からどのような申し出を受けても康景は屈しないという自信があってのこと。

家康には、彼が絶対裏切らないという確信があった。その無条件の信頼がひしひしと伝わってくる。

月岡芳年 「本朝智仁英勇鑑」「一」「徳川内大臣家康公」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

それなのに、である。
「関ヶ原の戦い」も徳川家康率いる東軍が勝利し、天野康景のこれまでの苦労もようやく報われるというところで。

慶長7(1602)年にめでたく1万石を与えられ、興国寺城主となった、その5年後。
慶長12(1607)年に事件は起こる。

『徳川実記』によると、どうやら、天野康景が保管していた竹や材木が夜ごと盗まれる事件が起きたようだ。そのため、康景は足軽を置いて、盗まれないように見張りをさせていた。そこへ、案の定、盗みに入る者が。

足軽はなんとか材木を守らねばと、奮闘するのだが。盗人が大勢であったため、やむなく刀を抜いて斬り付けたというのである。だが、事はそう簡単には終わらなかった。

なんと、その盗人が代官に訴えたのである。
それも、盗みに入ったコトを棚に上げて「天野康景の足軽と口論になり斬られた」と申し出たのである。

いやいやいやいや。悪いのは盗みに入った奴だろうと。
そりゃ、斬り付けられたのは自業自得と言いたいところだが。

当時、運悪く2つの事実が、足軽を窮地に追い込むことに。

1つは、慶長8(1603)年に制定されたある1つの決まりごとである。
それが「諸国郷村掟(しょこくごうそんおきて)」。
その内容に、天領(幕府の直轄領)の百姓を殺傷することを禁じたものが含まれている。

そして、もう1つの運の悪さは。
その盗人らは、富士郡原田村の村人たちであったというのである。この場所、じつは天領地であった。

この2つを当てはめれば、こうなる。盗人は天領の百姓。そして、経緯はどうあれ、天野康景の足軽は、この天領の百姓を斬り付けた。つまり、足軽は掟を破ったことになるのである。

さらに、いえば。
申し出を受けた代官は幕府へと取り次いでしまう。
こうして幕府は、将軍徳川家康様の民を傷つけた「足軽を差し出せ」ということに。

「家康公肖像」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

もちろん、天野康景は拒絶。
いくら天領の民だからとて、盗人は盗人である。盗みを防止するために斬り付けた足軽が処罰されるなど道理が通らない。ただ、職務を全うしただけなのに、不合理も甚だしい。どちへんなしの天野康景。こればかりは、どうしようもない。自分の家臣である足軽を差し出すことなどできないと、一歩も譲らず。

最終的に、この事件は徳川家康の知るところに。
幼少の頃よりずっと傍にいたあの天野康景。家康には、その性格も行動パターンも全てお見通し。もし、自分の家臣が悪ければ、康景はそのまま差し出すはずだと家康は考えたのだろう。そこで、側近の本多正純(ほんだまさずみ)に、本件の調査を命じるのであった。

ただ、本多正純はというと。
自己の判断で、幕府の権威を守ることを優先したというのである。「私」の忠儀ではなく、「公」の忠儀を尽くせと。

その結果、正純は、掟に反するとして、天野康景に「足軽を差し出せ」と、再度催促したのである。
なお、これに対して。一説には、激怒した天野康景が自国の領地を捨てて出奔。そのため、興国寺藩は「改易(かいえき)」となったともいわれている。

しかし、じつは、天野康景が選んだのは。
自ら身を引くという選択肢であった。

まずもって足軽を見捨てることはできない。
盗人が天領の民だと知る由もない。そんな手立てすらないのだ。天領の民は、紛れもなく盗みを働いていた。その盗みを阻止せよと命じたのは、なんといっても自分である。それを知らぬふりして、幕府に差し出すことなどできない。

一方で、徳川家康に歯向かうこともできない。結果的には将軍の民である人々を傷つけたのである。やはり、自分の正義を貫きたくても、主君である家康と真っ向から対峙はできなかったのだろう。

こうして、天野康景は。
相模の西念寺(神奈川県南足柄市)に蟄居(ちっきょ)。
いうなれば、自分の意志で、寺から出ずに謹慎の身としたのである。この父の姿に同調したのが、嫡男の「康宗(やすむね)」。父子共にこの地に留まることに。

その後、天野景康は、自国に戻ることもなかった。
66歳にして1万石を拝領したその5年後。天野康景の興国寺藩は、廃絶となったのである。

最後に。
天野康景は、義を貫いたまま、西念寺で逝去。
慶長18(1613)年2月24日。享年77。

じつのところ、徳川家康からは、何度も自国に戻るようにと。これ以上は咎めないといわれていたのだとか。しかし、そのまま蟄居した地で、最期を迎えることになった。

天野康景は、どのような思いを抱いて、西念寺で過ごしていたのだろうか。

彼の一生を振り返れば。
本当に、見事なまでに。最後まで徳川家康を裏切ることはなかった。

じつは、天正14(1586)年に、天野康景はある一団を預けられている。
それが、甲賀忍者83騎。
甲賀忍者の統率を任され、一時は組織の頭領になっていたという過去も。家康からすれば、そんな異能の集団を康景の手元に置いてもなお、信頼の置ける人物であったということか。

最後まで、「どちへんなし」を貫いた男。

いや、果たしてそうだろうか。
正義を貫くのであれば、主君の徳川家康に、異を唱えることもできたはず。しかし、そのような抗議もせずに、あえて身を引いた。

そうだとすれば。
天野康景は、「どちへんなし」ではないのかも。

いつでも、どんな時でも。
彼は「徳川家康寄り」。

いうなれば、天野康景は「家康偏(いえやすへん)」の男なのかもしれない。

参考文献
『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団』 山下昌也著 株式会社学研パブリッシング 2011年11月
『徳川四天王』東由士編 株式会社英和出版社 2014年7月
『戦国武将50通の手紙』 加来耕三著 株式会社双葉社 1993年
『改易・転封の不思議と謎』 山本博文著 実業之日本社 2019年9月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。