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2020.07.19

友達だと思ってたのに……。最期の最期で明智光秀を見捨てた二人の「盟友」

この記事を書いた人

「本当の友人かどうかは、自分がピンチの時に助けてくれるどうかかで分かる」とはよく言ったものです。そして、大河ドラマ『麒麟がくる』で活躍する明智光秀も、この言葉を強く実感したであろう人物の一人でした。

彼が本能寺の変で主君・織田信長を討ったものの、そのわずか13日後に羽柴秀吉によって攻め滅ぼされたことは有名です(三日天下、という言葉の語源であるとも言われます)。しかし、その裏で光秀は細川藤孝(ほそかわふじたか)と筒井順慶(つついじゅんけい)という二人の「盟友」に援軍を要請したものの、どちらの人物も戦場に現れなかったことをご存じでしょうか。

現代に伝わる史料でも親しげに交流していたことがわかる彼らは、いったいなぜ最期の最期に光秀を見捨てたのでしょうか。その裏には、現代にも通じる「同僚との友人づきあいの難しさ」が隠されていたのです。

光秀一番の盟友だった細川藤孝

大河ドラマ『麒麟がくる』で眞島秀和さん演じる細川藤孝が、光秀と親しげに交流しているシーンは記憶に新しいかもしれません。これは実際の歴史でも似たような関係性であったと考えられ、藤孝と光秀は盟友であったと説明されることが多いです。

そんな藤孝は、天文3(1534)年に京都で生まれ、前半生を足利将軍家に仕えて活躍しました。しかしながら、当時は将軍の力が地に落ちており、京都では三好長慶(みよしながよし)を中心とする三好党が政治の実権を握っていたのです。

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藤孝は当時仕えていた将軍・足利義輝(あしかがよしてる)をなんとかして復権させようと尽力しますが、三好党の勢力は強大でありなかなか野望を実現させることはできません。将軍とその家臣はついに京都からも落ち延びなければならなくなり、近江で我慢の時を過ごしていたシーンは『麒麟がくる』でも放送されていました。

やがて長慶との和睦を通じて京都に舞い戻った一同。しかし、永禄8(1565)年に勃発した永禄の変によって義輝は殺害され、藤孝は次期将軍候補である義輝の弟・覚慶(かくけい:後の足利義昭)を支持して上洛を試みます。彼らは朝倉氏のもとに赴いて上洛への支援を乞い、その際に朝倉氏のもとで牢人生活を送っていた光秀に出会ったのではないかと考えられています。

幕府の面々と意気投合した光秀は、その頃から幕臣としても行動するようになりました。朝倉氏は上洛に対して後ろ向きな姿勢を見せていたのですが、尾張の戦国大名・織田信長が義昭を支援する動きを見せます。

織田信長像

ここで信長との交渉役と上洛の手伝いをしたのが藤孝と光秀であり、やがて彼らは幕臣でありながら信長の家臣という性格も帯びるようになりました。ちなみに、光秀が確かな歴史上の史料に初登場するのもこの時期で、藤孝らとともに連歌会をしているさまが現代に伝わっています。

信長の支持を得て将軍の座に就いた義昭ですが、やがて二人は政治的な対立を避けられなくなりました。この際、藤孝と光秀はともに将軍家を見限って信長の家臣となり、以後も同僚として親交を深めていきます。

その証拠に、光秀の娘である明智玉は、藤孝の嫡男・細川忠興(ほそかわただおき)と結婚して細川ガラシャという名で知られるようになりました。言うまでもなく藤孝と光秀は親族となっており、親しげな姿は信長に仕えても変わらなかったようです。

部下と上司以上の関係に思える筒井順慶

一方、同じく光秀を見限ることになる筒井順慶は、藤孝のような同僚というよりは「上司と部下」に近い関係だったのではないかと思われます。天文18(1549)年に大和国で誕生した順慶は、筒井家の当主として活動しました。

筒井順慶(『太平記英雄伝』)

しかし、彼らは松永久秀(まつながひさひで)の攻勢によって追い込まれていき、大和での実権を失っていきます。

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苦境に追い込まれた順慶。ところが、先にも触れた永禄の変勃発により三好・松永の勢力は混乱状態に陥り、久秀と決別した三好三人衆と通じてねばり強く抵抗します。結果として大和から久秀を追い落とすことに成功し、信長の介入や三好三人衆の敵対、久秀の大和再支配などにも負けず、むしろ義昭と結びつくことで大和での戦いを続けました。

さらに、久秀と通じた義昭を信長が追放したことで、大和における順慶はいっそう優位な立場を築きました。こうして久秀は信長への降伏を余儀なくされ、危機を回避した順慶も信長への服従を表明。ここで順慶はすでに織田家中で出世していた光秀の与力(実質的には部下)となり、以後二人は数多の戦場をともに渡り歩いていくことになります。

ここだけ見ると二人は単なる上司と部下ですが、一説には信長の命令で光秀の四男が順慶の養子になったともいわれており、仮に事実であれば二人は親族であったということになります。また、信長への服従を仲介したのも光秀とされ、他にも光秀の娘が順慶の養子と結婚したという説があるなど、単なる上司と部下以上の付き合いがあったのかもしれません。光秀は家臣に優しく評判も良かったという見解もあるので、二人が親しくしていても不思議はないと個人的には思います。

二人はどうして、どのように光秀を見限ったのか

天正10(1582)年の6月2日、光秀は突如として信長を裏切り、皆さんご存じの「本能寺の変」を引き起こします。

結果として首尾よく信長を討ち取った光秀は、自身の政治基盤を構築しつつ、来たる秀吉との戦いに備えて味方集めを開始しました。彼は多くの人物に自軍へ付くよう要請を出したと思われますが、その中でも「こいつはオレの味方をしてくれるだろう」と思っていたのが藤孝と順慶だったのです。上で見てきたように二人は確かに光秀と親しげに交流しており、「盟友」といっても差し支えないからでしょう。

しかし、結論から言えば二人は光秀を見限り、彼に敵対する秀吉の味方となりました。

豊臣秀吉像

いったいなぜ、二人は光秀を見限ったのでしょうか。

まず、最も光秀と親しかったと思われる藤孝は、興味深いことに即断即決で光秀を見限ることにしました。藤孝・忠興親子は謀反の事実を知るや否や信長に哀悼の意を示すべく髪を切り、態度で光秀を拒絶します。これに大慌てしたのは光秀。6月9日には彼らに向けて「二人が髪を切ったというのは腹立たしい。もともと二人には摂津国を任せるつもりだったが、出陣してくれれば若狭国も任せようと思う。信長を討ったのは忠興の将来を思ってのことであり、支配が安定してくれば私は引退する」と、彼らを責めているんだか懇願しているんだか分からないグチャグチャの書状を出しています。光秀の心情を思うと、少し心が痛くなってきますね…。

藤孝は自身が引退し、「敵の娘」であるガラシャを幽閉してまで徹底的に光秀を拒みました。なぜ藤孝がここまでしたかといえば、やはり光秀軍につくことによる勝算が乏しかったことが原因ではないかと言われています。また、興味深い見解として「光秀が藤孝に感じている友情ほど、藤孝は光秀を評価していなかった」という意見もあります。藤孝はもともと将軍に仕える格式高い生まれなのに対し、光秀は片田舎・美濃の国衆出身に過ぎません。だからこそ、光秀が情に訴えても効果がなかったのかもしれません。そんな彼に乗っかって謀反人の汚名を背負うという選択肢など、初めから眼中になかったのではないでしょうか。

一方、順慶は迷っていました。彼自身、どちらの味方に付くかを決めかねていたようで、当時の記録などからも彼の迷いがよく伝わってきます。実際、順慶はいったん兵を率いて出撃しましたが、翌日にそれを引っ込めているほど。「オレはどうすればいいんだろう」そんな声が聞こえてくるようです。しかし、最終的に順慶は秀吉の味方をすることにしました。その決め手となったのは秀吉の動向が近畿にも伝わってきたこととされ、俗にいう「中国大返し」が成功すれば秀吉が有利になるという判断があったのでしょう。

すでに藤孝を欠いて絶望的な戦況になっているところにこの動き。光秀はもはや焦りを隠せなくなります。6月10日に彼は洞ヶ峠(ほらがとうげ)という場所に着陣し、家臣の藤田伝五(ふじたでんご)を通じて順慶を説得。軍を率いて出てきたという点からすると、武力で順慶を脅そうという意図もあったのかもしれません。ところが、順慶は光秀の誘いをキッパリと断り、光秀軍はやむなく撤退していきました(この際、順慶が洞ヶ峠で日和見をしたとして、態度をハッキリさせないことを「洞ヶ峠を決め込む」と言うようになりました。しかし実際に洞ヶ峠へやってきたのは光秀であり、順慶はそもそも洞ヶ峠に着陣していないとされます)

こうして彼らに見限られた光秀は、山崎の戦いにて秀吉に大敗してその生涯を終えました。個人的な意見を述べれば、光秀は彼らとの友情を「カン違い」していたのではないかと思わずにはいられません。「ビジネス上の付き合いだが、困ったときは助けてくれる」というように。しかし、彼らにしてみれば光秀との関係は「損得の概念を超えたもの」ではなく、それゆえに光秀を見限ったのではないでしょうか。

友情というのは難しいもので、自分が相手に思いを抱いていたとして、相手もそうとは限らないのです。とくに仕事上の付き合いとなればなおさらで、私たちも肝に銘じなければならない教えだと思いました。

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♬ 世界中の誰よりきっと – 中山美穂

【参考文献】
小和田哲男『明智光秀・秀満』ミネルヴァ書房、2019年
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』筑摩書房、2019年
諏訪勝則『明智光秀の生涯』吉川弘文館、2019年
春名徹『細川三代―幽斎・三斎・忠利』藤原書店、2010年
金松誠『筒井順慶』戎光祥出版、2019年

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?