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2020.12.08

実際の陣営地はどこだった?信長が整備した木曽川沿い「承久の乱古戦場」を巡り検証してみた

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幕府と朝廷が武力で争った承久の乱。その最初の武力衝突となった場所が、愛知県と岐阜県の県境にある木曽川です。

朝廷軍は軍勢を岐阜県側の8~12か所に分散して陣を張りました。しかしその陣営地はどこなのか、正確な場所ははっきりしません。それどころか木曽川は過去に何度も洪水があり、川の流れがコロコロ変わりました。現在の形になったのは、戦国時代中期に織田信長が整備したからです。

承久の乱当時の木曽川がどこを流れていたのか、ハッキリとここですという資料は残っていません。ただ、現在よりも岐阜県側にあったのではと推測されています。地名として残っている場合もありますが、正確にこことは言えないのが現状です。

けれども、「渡し」がそこあったというヒントは、実はあります。それが「常夜灯」と「神社」です。常夜灯は文字通り、一晩中灯を灯している大きな灯篭です。川や海では灯台の役目もしました。そして川を渡る時の安全を祈る神社も不可欠です。

実は木曽川沿いの地域は、周辺の人しか行かないような駐在の神主がいない小さな神社でも、大きくて立派な常夜灯があります。これは地元の人に言うと驚かれるのですが、他の地域では大きな常夜灯は大きな神社にしかありません。つまり昔、この神社は川沿いにあったのでは? と考えました。(もちろん確証はありません)

私の身長を超えるほどの大きな常夜灯!

というわけで、承久の乱の陣営を、当時の文献に書かれている地名と、現在の地名と照らし合わせ、現地を巡るフィールドワーク(という名の妄想トリップ)を行いました! ママチャリで!!

陣営の名前と現在の地名

承久の乱について書かれた史料はとても少なく、特に戦そのものについては『吾妻鏡』と『承久記』に依ることがほとんどです。そこで2つの文献から木曽川沿いの戦いの陣営地をピックアップしました。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

というわけで、上流の方から見てみましょう。

阿井渡/川合渡(岐阜県美濃加茂市川合町)

まず、木曽川沿いの戦場で、一番上流に当たるのが、この飛騨川と木曽川の合流地点に当たる岐阜県美濃加茂(みのかも)市にある川合町(かわいちょう)だと推定されます。朝廷軍からは「阿井渡(あいの わたし)」幕府軍からは「河合渡(かわいの わたし)」と呼ばれていました。現在は「川合の渡し」という表記で知られています。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

川の合流地を三角形に結ぶ渡し船で、昭和51(1976)年に川合大橋ができるまで、県営の渡し船として存在していました。現在そのことを伝える案内板が立っているのが、川合のムクノキと呼ばれる史跡です。美濃加茂市内で最も大きいといわれる巨樹ですが、現在は空洞化して枯れてしまっているようです。

承久の乱では陣営はあったようですが、戦場になっていなく、最も激戦区とされていた隣の大井戸渡(おおいどの わたし)の陣営と合流して戦ったようです。

大井戸渡(岐阜県美濃加茂市太田本町)

大井戸渡は、木曽川沿いの戦いの中でも最初に戦闘となった陣営で、激しい合戦が繰り広げられました。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

中濃大橋の袂には、『虚空蔵堂(こくうぞうどう)と承久の乱古戦場跡』という案内板が立っています。

虚空蔵堂とは、江戸時代にあった宿場町「太田宿」の、江戸に向かう出口にあったお堂で、当時から旅人の信仰を集めていました。虚空蔵は明けの明星(明け方に見える金星)の化身である菩薩で知恵を司っています。

古戦場跡はちょっとした広場となっていて、美濃加茂市出身の文豪、坪内逍遥が幼少期に遊んだ場所としても知られています。

そして対岸にある岐阜県可児(かに)市土田(どた)には、ここに大井戸渡があった事を示す碑があります。

したたかさはご先祖譲り? 武田信玄の先祖が戦った大井戸渡

実は幕府軍は準備期間が短く、考える間もなく勢いで従軍してしまった人も多くいました。その一人が、武田信玄の先祖である武田信光(のぶみつ)です。

『承久記』によると木曽川の戦いが始まる前、武田信光は同僚の小笠原長清(おがさわら ながきよ)と本当にこのまま幕府軍につくべきか、それとも朝廷軍につくべきか悩んでいました。

「このまま傍観して、勝ちそうな方につこうか」と話し合っていた所、幕府軍の大将のひとり、北条時房(ほうじょう ときふさ)が二人に文を出しました。

「大井戸と河合を渡って戦ったら、領地を六か国差し上げますよ」

二人は「ならば幕府方で戦おう」と大井戸に向かいました。合理的な判断といいますか。ちゃっかりしていると言いますか……。こういう所が、内乱の多かった鎌倉時代を生き残り、有名な戦国大名となった由縁かもしれないですね。

ちなみにこの六か国の中には甲斐や信濃があります。甲斐の虎・武田信玄は、承久の乱から始まったともいえるでしょう!

鵜沼渡(岐阜県各務原市鵜沼南町)

岐阜県各務原(かかみがはら)市の鵜沼(うぬま)愛知県犬山市を結んでいた渡船です。はっきりとした場所はわかっていませんが、犬山橋のあたりだろうといわれています。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

斎藤道三 VS 毛利元就!?

『吾妻鏡』によると鵜沼渡では朝廷軍に斎藤親頼(さいとう ちかより)がいました。美濃国守護代の斎藤氏初代です。大河ドラマ『麒麟がくる』で注目を浴びた斎藤道三は、この斎藤氏から名前を継ぎました。

そして対岸の幕府軍にいたのは毛利季光(もうり すえみつ)。こちらも人気の高い戦国大名、毛利元就の先祖です。

群雄割拠の戦国時代に活躍した大大名の先祖たちが、相まみえて戦った承久の乱。「美濃のマムシ」VS「稀代の謀将」……の先祖の対決なんて、ちょっとワクワクしてきますね!

地元民から見た承久の乱

合戦の様子が描かれているのは『承久記』ですが、地元民が読むと首をかしげる表現があるのだとか。

鵜沼を任されていた朝廷側の大将・神地頼経(かみち? よりつね)は川を下ってくる騎馬を見て「あれは敵か味方か」と尋ねました。

この川を下って来るのは幕府軍なのですが、地元の人によれば「川を下るなんて不自然だ」というのです。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

こちらは大井戸~鵜沼の衛星写真ですが、この区間の木曽川は山と山の間にあるグネグネとした渓谷を流れています。ここは川も深く、流れも急で、木曽川下りの難所と言われているそうです。水道局のサイトによれば、平均水深は3.4m。水量は1秒間に約400tも流れます。

見た目はこんなに穏やかなのに……

いくら道なき道を進む坂東武者とその馬といえど、ちょっと考えられませんね。地元の人の見解では「承久記の作者はここら辺の土地勘がなかったのでしょう」との事でしたが……。

個人的には、大井戸で川を渡った幕府軍が、山を越えて来るもの有り得るんじゃないかなぁ、と思います。坂東武者はトレッキングコースぐらいなら馬で駆ける事ができるイメージが、なんとなくあります。

板橋(岐阜県各務原市小伊木町)

板橋は正確な位置はわかりませんが、各務原市小伊木町(こいぎちょう)あたりだと言われています。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

謎の人物「三浦さん」の墓

小伊木町にある正法寺(しょうほうじ)には、地元の人から「三浦さんの墓」と呼ばれる古い五輪塔群があります。

伝承では「承久の乱で亡くなった三浦大介平六の墓」と言われていますが……。承久の乱で亡くなった三浦と言えば、三浦胤義(たねよし)が思い浮かびますが、彼は平九郎です。

そして三浦介平六は胤義の兄・義村(よしむら)ですが、彼は幕府軍側で戦っていて、承久の乱後20年近く生きています。

さらに「三浦大介」といえば、三浦義明の通称でもあります。しかし、彼が亡くなったのは源平合戦の頃で、承久の乱の40年も前のことです。

そもそも、伊木と三浦一族には、現存する文献上は特に繋がりが見出せません。何故、ここに「承久の乱で亡くなった三浦さん」がいるのかわかりませんが、もしかしたら三浦胤義かその郎党が、ここで何か地元民に親切にして、その死を惜しんだ人がいたのかもしれませんね。(*個人の妄想です)

池瀬(岐阜県各務原市小伊木町)

ここから、場所が更に曖昧になっていきます。なぜかというと、承久の乱当時の川の流れが、ここらへんから曖昧になっているからです。

池瀬は吾妻鏡にも登場しているので、重要なポイントだったのでしょう。対岸には山那(やまな)渡があったと言われています。山那渡の場所も曖昧なのですが、大字の地名として残っている場所からして、愛知県丹羽(にわ)郡扶桑(ふそう)町の山那のどこかであることが考えられます。池瀬はその対岸にあるとすれば「伊木山」のあたりだろうと考えました。

伊木山は戦国時代には城があったのですが、それ以前の事は分かっていません。しかし見晴らしは良さそうで、陣を張るにはうってつけだったと思われます。

火御子(岐阜県各務原市鵜沼朝日町)

そして火御子(ひのみこ?)はどこの事だかサッパリです。けれど、「火」が「日」のことだとすると……各務原市内では「鵜沼朝日町」という地名があります。

日の御子=朝日。なんとなく繋がりそうな気がする!!(*個人の感覚です)そして地図とにらめっこして……見つけました。それっぽい場所が。それが「大伊木山西古墳」です。

現在は盛り土が度重なる洪水で流されてしまったようですが、元々は円墳のようです。古墳の上で戦なんて、ちょっと罰当たりな感じがしますけど、それは文化財という概念がある現代人だからこその感覚。見晴らしの良いちょっとした高台ならば……陣を張っていてもきっと不思議ではないと思います!

こうしてみると、かつての木曽川は県道98号線沿いにながれていたのかも?(国土地理院ウェブサイトをもとに作成)

大豆戸(岐阜県各務原市前渡東町)

承久記では『大豆戸』、吾妻鏡では『摩免戸』と表記され、どちらも『まめど』と読みます。この場所のことは、こちらの日本で唯一の承久の乱イベント! 岐阜県各務原市「承久の乱合戦供養祭」で供養塔の謎を探るに詳しく紹介されています。

朝廷軍、鎌倉軍、双方の総大将が睨み合った場所で、前渡不動山(まえどふどうさん)には承久の乱の木曽川で散った戦死者が弔われています。

陣を張っていたのは、山の上とされていますが、別の説ではその近くの「神明神社(しんめいじんじゃ)」であるとされています。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

食渡(岐阜県羽島郡岐南町上印食/下印食)

食渡(じきの わたし)は、地名からして、羽島(はしま)郡の上印食(かみいんじき)、あるいは下印食(しもいんじき)と思われます。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

現在の木曽川とはずいぶん離れてますが、かつてはこのあたりに川が流れていたのかもしれません。

上印食にある「生島(いくしま)神社」の縁起には『境内は高台となっている』『かつては大きな川が前にあった』『後ろにも大きな川が流れていて、尾張国と美濃国の境となっていた。現在は小川になってしまったが、境川とよばれている』とあります。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

陣を張るにはぴったりじゃないでしょうか。

高桑/(岐阜県岐阜市柳津町高桑)

高桑(たかくわ)は現在も地名として残っています。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

ゴルフ場の近くには「高桑城址」があります。鎌倉時代初期から戦国時代までここに城があり織田信長の手によって落城し、現在は土塁が一部残っています。承久の乱当時は、広大な敷地を持つ城だったそうで、ここが拠点となった可能性は高いでしょう。

高桑氏の一族の者と見られる人物も、『承久記』に登場します。高桑次郎という人物で、朝廷軍の武士として大井戸渡にいました。しかし鎌倉軍の攻撃を受けて、承久の乱最初の戦死者となりました。

墨俣/(岐阜県大垣市墨俣町下宿)

墨俣(すのまた)といえば、豊臣秀吉が一夜にして作ったという伝承がある「墨俣一夜城」が有名ですが、一夜城から南に1㎞ほど行ったところに「源平墨俣古戦場」があります。源平合戦と承久の乱の時間経過は40年ほどなので、川の流れや陣を張った場所も近いのではないかと考えられます。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

これは源平合戦の時に、頼朝の異母弟にして義経の同母兄の源義円(ぎえん)が、平家と戦った戦場です。治承5(1181)年、頼朝の命により叔父の行家(ゆきいえ)の援軍として参戦しましたが、行家は負け、義円も討ち取られてしまいました。

義円を供養するために作られたのが「義円地蔵」です。古戦場跡は義円公園として整備され、地元の人々の憩いの場となっています。

墨俣にまつわる親子の不思議な符合

源平合戦の墨俣の戦いに義円軍側として参加し、討死した中に尾張の山田重満という武士がいました。その丁度40年後にあたる、承久3(1221)年の承久の乱で、朝廷軍としてここを守っていたのが、重満の息子である山田重忠です。

承久の乱の木曽川の戦いでは、朝廷軍は敗走するのですが、父が討ち取られた墨俣を任されていた重忠は何を思っていたのでしょう。きっと「墨俣では絶対に死ねない」と踏ん張っていたのではないでしょうか。

朝廷軍は敗走して京へ戻りますが、山田重忠は杭瀬川で幕府軍の足止めをして激しく戦いました。

市脇/(岐阜県羽島市下中町市之枝)

実は承久の乱の木曽川沿いの陣営で、最も謎な場所が、一番下流にある市脇(いちわき)です。『承久記』によると、ここに配置された朝廷軍の大将は、怖気づいて陣を張る前に逃走したという経緯があるので、伝承も残らなかったのかもしれません。

地名の近さから、岐阜県羽島(はしま)市の市之枝(いちのえ)ではないかと推測されています。

国土地理院ウェブサイトをもとに作成

市之枝には櫟江(いちえ)神社があります。創建年は不明ですが平安時代中期に、平将門を討ち取った藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)の鏃(やじり)と伝わる石が祀られています。

藤原秀郷は将門を討ち取って、京へ帰る途中に櫟江神社に立ち寄ったとされているので、少なくとも平安中期頃は京都へ向かう道があったのでしょう。

完走した感想

私はこれらの陣跡(と思しき場所)をレンタサイクル(ママチャリ)で回ってきました! もちろん一日ではなく何日かに分けてですが……。体力に自信があるなら、一日で走破は可能だと思います!

木曽川沿いの地域はアップダウンもほとんどなく、サイクリングに最適でした! 夏になると日差しが強く、気温も高くなる地域ですが、川の近くは風もあり、とても涼しくて気持ちよかったです。

令和3(2021)年は承久の乱800周年、そして令和4(2022)年には鎌倉初期を舞台にした大河ドラマ『鎌倉殿』の13人があります。もし興味があったら、この記事を元に承久の乱に思いを馳せてみてください!

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。

この記事に合いの手する人

大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。