大手菓子メーカー、江崎グリコの看板製品の一つであるキャラメル「グリコ」。素朴で小さなおもちゃのおまけに親しんだ人は、多いと思います。
おまけ付きのお菓子は、昔から他社も販売してきましたが、「グリコ」が特別感を持って人々の記憶にあるのは、単に元祖だからではありません。それは、「グリコ」のおまけの黎明期から長きにわたり、その開発に尽力してきた1人の男がいたからです。
その男の名は、宮本順三。1935年にグリコに入社して“おまけ係”となり、以来約3000種のおまけを生み出しました。彼の生い立ちを知ることは、いきおいグリコのおまけの隠された歴史を知ることになります。その一端をこれから紹介しましょう。
玩具収集にのめりこんだ少年時代
順三が、大阪で産声をあげたのは1915年。空飛ぶ模型飛行機など、童心をくすぐる目新しい玩具が続々と登場した時期と重なります。当時、金属やセルロイドで作られた高級玩具もありましたが、それで遊べたのは一部の裕福な家庭の子どもだけ。大多数は、近所の駄菓子屋にある、簡素を極めたかのようなおもちゃに夢中になりました。
順三は、そうしたおもちゃに親しむだけでなく、絵本や児童文学を読んで、郷土玩具を含む多種多様なおもちゃの魅力に開眼。収集への情熱は、既にこの頃には萌芽します。
長じて中学生になると絵心に目覚め、美術部に入って本格的に絵を描き始めます。将来は画家になりたいと、東京美術学校(現東京藝術大学)を受験。しかし、父親にその道に進むことを反対され、彦根高等商業学校(現滋賀大学)に入学します。もっとも、彦根高商でも美術部を創設するなど、創作活動は続けました。同時並行で、郷土玩具の収集も続行。下宿部屋が玩具で埋まるほどの量になります。
念願かなってグリコに入社
彦根高商も卒業間近になり、順三は就職を考え始めます。就職先としては「自分の趣味と特技を活かせる職業として、どこか有名ブランド会社の広告課か宣伝部と狙いをつけて」いました。
ちょうど、グリコが新卒採用を開始しており、それを知った順三は、まさに自分の天職だと応募します。
学校の求人掲示板に「グリコ」の名を見つけた時は、「あった、これだ!」とばかりに小躍りして、入社試験を受けたのである。面接では、創始者の江崎利一社長をはじめ、最高幹部がキラ星のごとく並んでいるのを前にして、「ぜひ、私を採ってください。グリコのおまけをやらせていただきたい」と懸命に訴えた。(『小さいことはいいことだ―グリコおもちゃデザイナー物語』より)
熱意が通じ、順三は採用通知を受け取ります。1934年12月のことでした。
入社早々に数々のおまけを創作
グリコが創業12年目を迎える1935年、順三はこの若い会社に入社します。それから1ケ月も経たないうちに、広告課おまけ係として配属されました。
それまでの「グリコ」のおまけは、小物玩具問屋から仕入れた紙めんこなど既製品が主。順三は「これはおもちゃの本命ではない」と考えます。代わって、子どもの「感覚」、「情操」、「知能」を発育させるようなものを目指しました。
おまけの開発の段取りとしては、まず、幼稚園や街頭で遊んでいる子たちを相手に嗜好調査をします。その調査結果を参考にしながら、順三がアイデアを練って、構想をラフスケッチに落とし込みます。試作自体は、外部の業者が請け負いました。完成した試作品は、社内外の審査委員会に製品化の可否をはかられます。
入社当初から順三は、くめども尽きぬ泉のごとく、「グリコ」のおまけのアイデアが次々と浮かび、審査を経て具現化していきました。幼い頃から集めていた郷土玩具がヒントになったものも多かったようですが、これにこだわらず様々なおまけを創り出しました。
万華鏡・合わせ鏡・着せ替え人形・キューピーなど女の子用のおまけやドイツ製組立玩具のデルタ―・ビルダーをミニサイズ化し、木片を集めて組み合わせて家や森を作るようにした。キビガラとマッチ軸を組み合わせたものや、ヘギ(菓子箱や折り箱の)屋さんもおまけ作りに動員した。セロファン製の魚は、こすった手の平に乗せ、頭があがると吉、尾の場合は凶という具合に占うもので、熱帯魚、海藻(水中花)、小鳥の籠などもあった。(『小さいことはいいことだ―グリコおもちゃデザイナー物語』より)
さらに、ヒットしたテーマの一つに、光学レンズものがあります。ガラス製の両面凹凸レンズをセルロイドの枠にはめこんだ虫メガネを皮切りに、バリエーション豊かに展開。戦後に作った、射出成型による枠とレンズが一体化したプラスチックの虫メガネは、大阪府庁から優秀考案賞を受賞するほどの出来栄えでした。
戦争の激化でおまけの製造が不可能に
入社2年目にして、「吾社ノ最モ重要視スルオマケ二関シ一新機軸」を開いたと、江崎利一社長から感謝状が授与されるほど、順三はおまけの分野で大きな貢献を成し遂げます。
しかし、日中戦争をきっかけに、日本は戦時体制へと一気に突き進み、その影響がグリコにも、順三にも重くのしかかり始めます。順三が一番重宝したアンチモニー合金は、小銃弾として集められ、アルミなどの金属類もすべて入手できなくなり、セルロイドも燃えやすく危険と禁止されました。
使えるのは、紙、木、セロファン、キビガラなどくらいに減るなか、順三は工夫と努力で乗り切ろうとします。
1939年、広告課の次長に任命された順三は、中国大陸の土を踏み、天津グリコ工場へと赴任します。ここではアンチモニーなどの素材が調達可能で、「おまけを作りたい一心で、材料を求めての旅であった」そうです。
とはいえ、中国との戦争は激化する一方で、1941年にはアメリカとの戦争も始まって、日本本土で配給される「グリコ」は、箱は紙の地のままの白、おまけは無しという状況に。戦時統制から免れていた天津だけが、おまけ付きの「グリコ」を居留民や現地招集兵向けに提供していました。
ついには、砂糖などのキャラメルの原料も不足して、「グリコ」が生産不可能となります。会社は存続のために、軍の要請に従い、航空機部品の製造と機体の補修をする「江崎航空機材」社へと転換。既に広告課は解散しており、用度課に配属されていた順三は、「もはやグリコにおける使命も終わった」と考え、慰留されるも辞職します。家族を呼びよせ、天津で事業を興し、この地に永住するつもりでした。
戦争が終わっておまけが復活
戦局の悪化そして敗戦が、順三の第二の人生への道を打ち砕きます。戦争も末期の1945年4月、順三のもとに招集令状が届き、一兵卒として出征します。中国の現地民から部隊の食料を調達するという比較的安全な任務でしたが、ソ連が参戦すると決死の切り込み隊へ。しかし、順三は右足の傷がひどく化膿して、医務班に残るよう命令されます。そして、終戦。天津の銀行にあった預金は、新円発行に伴い紙くずと化し、順三一家は無一文に近い状態で、本土へと復員しました。
故郷で待っていたのは、焼け野原。グリコ本社工場も爆撃で灰燼に帰していましたが、自宅は戦災を免れていました。家族を路頭に迷わせるわけにはいかないと、再起を期して必死に働く日々が続きます。
自活のめどがついた頃、ゼロからの再出発に奮闘する江崎誠一副社長が訪ねてきました。そこで、グリコに復職してくれるよう誘われますが、辞退します。家業であったセルロイドの事業が軌道に乗ってきたからですが、順三は、おまけや広告宣伝の方面で協力は惜しまないと伝えます。こうして、おまけの達人が復活。戦闘機といった戦争を連想させるものは姿を消し、働く乗り物や動物など平和的なおまけが、続々と生み出されていきました。
時代とともに変化していくおまけ
戦後の焼け野原から復興を果たし、日本は高度経済成長を謳歌するようになりました。そのピークの一つ、岩戸景気真っ只中の1959年は、全国的に労働争議が勃発した年でした。
順三の会社も、激しい労働争議に巻き込まれます。取引先とのトラブルもあって、ついには1年に及ぶ事業所閉鎖に直面。
「おまけ作りもこれでお終いか」と絶望的になっていた順三に、江崎社長は再びおまけを作るようすすめます。
社長の激励で再起を誓った順三は、セルロイドに代わって普及し始めたプラスチックを素材におまけ作りに専念します。
自動車・オートバイ・消防車・機関車・飛行機などの乗り物、女の子が喜ぶ家庭用品のままごと類など、電化時代の影響はおまけにも表れ、洗濯機・冷蔵庫・テレビの「三種の神器」も人気のおまけとなった。(『小さいことはいいことだ―グリコおもちゃデザイナー物語』より)
1980年代に入ると、ファミコンに代表されるように、子どもの遊びやおもちゃの世界が大きく変わり出します。この頃に順三は、おもちゃの開発を長男に任せて、自分は不動産経営に徹するようになります。
順三は、時間的な余力を得たことで、世界を旅しながらもう1つの天職の絵描きに打ち込みました。絵のテーマとしては各国の祭りが多く、にぎやかに喜び騒ぐ大勢の人々が描かれているのが特徴です。フランスのサロン・ドートンヌ展などに出品・受賞した作品の大半は、民族博物館、図書館、病院など公共施設に寄贈しました。
晩年の夢はおもちゃの博物館の設立
晩年の順三には、夢がありました。それは、「おもちゃ館を創って、世界のおもちゃと人形などのコレクションを子ども達に見てほしい」というもの。
自宅の隣地にそうした私設博物館を建設するという青写真は、バブル経済の崩壊とともに白紙になってしまいます。これでめげることなく、1998年に大阪セルロイド会館(大阪市東成区大今里)の空いていた3階を活用して、小規模ながらもおもちゃ館をスタートします。
館の名称は「豆玩舎ZUNZO(おまけやズンゾ)」。ZUNZOは、順三のペンネームです。この小さな博物館は、マスコミに取り上げられ、遠方からも来館者があるなど、オープン当初からにぎわいを見せ、夢をかなえた順三はとても満足でした。
2002年、豆玩舎ZUNZOは、自宅から近く長年暮らした地元の東大阪市へと移転します。この頃に奥さんが亡くなり、深い喪失感にとらわれていた順三にとって、ボランティアスタッフの若い人たちを誘って一緒に食事をするのが楽しみでした。
その2年後、肺炎がもとで永眠。病床での最後の言葉は、「おまけやにいきたい」だったそうです。
現在の豆玩舎ZUNZOは、NPO法人おまけ文化の会の支援のもと、グリコのおまけをはじめ、旅先で入手した郷土玩具や民族人形など、順三が生涯をかけて収集した品々が展示されています。また、おもちゃ作り教室など、子どもから大人まで楽しめるワークショップも随時開催されています。機会があれば訪れて、順三のおまけ人生の足跡を垣間見ることをおすすめします。
宮本順三記念館 豆玩舎ZUNZO
住所:大阪府東大阪市下小阪5-1-21山三エイトビ3F
電話:06-6725-2545
開館時間:10:00~17:00
休館日:日・月曜日(臨時休館日有・要確認)
観覧料(一般):500円(団体20名以上20%割引、障害者20%割引)
公式サイト:https://www.omakeyazunzo.com/
※入館には電話またはメール(omake@cream.plala.or.jp)による事前予約が必要。
参考・引用図書
『小さいことはいいことだ―グリコおもちゃデザイナー物語』(樋口須賀子/アットワークス)
『ぼくは豆玩』(宮本順三/いんてる社)
※文中の写真は、宮本順三記念館 豆玩舎ZUNZOにて撮影したもの、あるいは同館より提供されたものです。
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