後醍醐天皇といえば、多くの方が「倒幕に失敗して島流しにされた天皇」と敗北者のように思われるでしょう。しかし、最終的には鎌倉幕府を倒して復権することに成功している強かな人物だといわれています。何故倒幕を成功させることができたのでしょうか? その秘訣を、後醍醐天皇の知略に長けた2つのエピソードから探って行きます。
そもそも天皇になるはずの人物ではなかった!?
後醍醐天皇は後宇多天皇(ごうだてんのう)の2番目の皇子として誕生しました。そのため、本来ならば後醍醐天皇は即位しないはずの皇子だったのです。
しかし、兄である後二条天皇(ごにじょうてんのう)が急逝したことにより、その代わりとして後醍醐天皇が即位しました。このとき、後宇多上皇はそのうちに、後二条天皇の実子である邦良親王(くによししんのう)を皇位に就かせるつもりでいたのです。後醍醐天皇が即位したとはいえ、実権は院政を敷く後宇多上皇が握っていました。
つまり、後醍醐天皇はいわゆる中継ぎに過ぎなかったのです。しかし、驚くべきことに後醍醐天皇は即位後に父である後宇多天皇に圧力をかけ、即位から3年後に院政を停止させることに成功します。
また当時政権を握っていた鎌倉幕府も後醍醐天皇の地位を脅かす存在だったことから、倒幕の準備を始めました。
倒幕は「宴会」から始まった
宴会で「今日は無礼講だ」と言うことがありますよね。無礼講とは身分の上下を取り払い、礼儀作法無しに催されることですので、多少の不敬は許されます。
後醍醐天皇もその文化を利用して倒幕前に無礼講の「宴会」を開催しました。
宴では賑やかで楽しげな歌や舞が行われる中、わざと幕府の悪評や批判が話題にされ、それらに対する武将たちの反応を確認して、ともに倒幕をするにあたって信頼に値する人物を密かに物色していたとされています。
傍から見ればただの楽しげな酒宴。しかしその実は倒幕を企てるための準備で、倒幕のメンバー選抜が水面下で行われていました。幕府に倒幕を悟られないようにかつ、信頼できる仲間を探す方法としてとても有効だったでしょう。
しかし、「正中(しょうちゅう)の変」と呼ばれるこの出来事は参加者の一人である土岐頼員(ときよりかず)が幕府に密告して発覚したといわれます。
それでも、後醍醐天皇は「ただ酒宴を催しただけ」だったため、何のお咎めも受けずに済みました。幕府に知られてしまってもなお、自身にとっては逃げ道のある作戦だったようですね。
もっとも最近では、後醍醐天皇が倒幕の相談をしたというのは冤罪だったという説も出ています。
再び暗躍する策士と、要となった忠臣たちの存在
一説によると、後醍醐天皇には伊賀兼光を介して出会った忠臣がいました。その忠臣は河内赤坂城の戦いで敗れはしたものの、たった500の軍勢で30万の幕府軍に立ち向かい、奇策によって幕府を苦しめました。
後醍醐天皇がのちに足利尊氏と手を組むことができたのも、その忠臣がいたからだと言われています。
それがかの楠木正成(くすのきまさしげ)です。
楠木正成がたった500の軍で幕府30万の軍勢を苦しめた話や、足利尊氏が後醍醐天皇の味方についたという話が武将たちの間に広まりました。これにより、後醍醐天皇の2度の失敗によって無謀だと思われていた倒幕が、他でもない後醍醐天皇の手によって現実味を帯びていきます。
さらに、当時朝廷にとっても天皇を決定する際には幕府の意向を確認しなければならなかったことから、鎌倉幕府は目の上のたんこぶともいえる存在でした。また蒙古襲来後、命を賭して戦った武士たちも幕府からろくな恩賞がもらえなかったことから、同様に不満を募らせており、世の中全体が倒幕の趨勢にあったことも後醍醐天皇を後押しする要因となりました。このような事情から、各地では後醍醐天皇の味方をする者が増えていったのです。
ちなみにこのとき後醍醐天皇は隠岐に流されていていましたが、名和長年の手を借りて隠岐から脱出します。
名和長年も楠木正成同様、後醍醐天皇の復権後に記録所や武者所などの役人を務めました。さらに、名和長年は代々中原氏が世襲してきた東市正にも任命されています。このことから、名和長年もまた、後醍醐天皇によって心を掌握され、味方についたのではないかと推測できます。
心の裡に刃を隠し持つ策士の謀略
後醍醐天皇は長年続いていた院政を廃止させて自身が天皇に即位し続けたことから、心の強さを感じさせる人物であるとともに、策略蠢く「宴会」を催して信用に値する人物の品定めをするなど非常に強かな人物だったように思えます。
また鎌倉幕府に対する不満が世の中に溜まっていたことも倒幕の機会と見ていたのかもしれません。
世の潮流を読み、自身と忠臣たちの力を合わせて倒幕を実現した後醍醐天皇の謀略には現代人も学ぶところが数多くあるでしょう。
仲間たちを集め、権力に立ち向かう姿はまさに人々が求める理想の人物像の一つかもしれません。
アイキャッチ:国立国会図書館より
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