みなさんは「隠れキリシタン」と聞いて、日本のどの場所が思い浮かぶでしょうか? やはり、世界文化遺産にも登録された長崎の国宝・大浦天主堂や、島原の乱の戦地となった天草地方が浮かぶ人が多いのではないかと思います。
でも考えてみれば、江戸時代に禁教令が敷かれる以前、宣教師たちは日本全国で布教をしていたわけで、カトリック中央協議会のサイトによれば、フランシスコ・ザビエルの渡来以降、日本では、
「イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会等の会員がインド・フィリピン等から相次いで来日し、各地に教会、修道院、学校、病院等を設置して熱心に宣教に当ったので、1614(慶長19)年の統計によれば、聖職者150名、信徒数65万を超え、信徒の中には公卿2家及び大名55名があった」(カトリック中央協議会より引用)
とされており、禁教令以前、カトリック信徒は長崎以外にも日本のさまざまな場所で祈りを捧げていました。
その後、彼らを待ち受けていた筆舌に尽くしがたい苦難は、遠藤周作の名作『沈黙』や、近年では同作をもとにマーティン・スコセッシが監督し話題となった『沈黙 -サイレンス-』(2016)でも仔細に描かれています。
そしてそのような信仰者にとっての悲劇も、長崎だけでなく日本各地で巻き起こっていたのでした。
ここでは、まさにそうした苦難の中を生きた一人のキリシタンをご紹介します。
名を「後藤寿庵(ごとうじゅあん)」といったその侍は、仙台藩士であり、東北の人々と信仰のために生きた男でした。
仙台藩に突如現れたキリシタン侍
生まれた年、場所、本名、亡くなった年までまったく不明––––。
後藤寿庵についてはっきりと分かっていることは、彼が武士であったこと。そして、キリシタンであったこと。それ以外は、非常に多くの「謎」に包まれた人物です。
それでも、彼が伝説などではなく、確かに実在した人物であることは疑いの余地がありません。
なぜなら、広大な原野であった現在の岩手県奥州市水沢の地に水を引き、荒れた土地を人々とともに耕し、領民の生活の礎を築いた人物として、彼の成した功績はいまも形として残っているからです。
ではなぜ、彼がキリシタンだったとわかるのか。それは、ローマ法王庁に名前が記録されているから。彼はローマ法王庁の記録に残る日本人として、当時最高の地位にある人物でもあったといいます。
そんな寿庵が初めて歴史の舞台に表れるのは、慶長年間(1596−1615年)のこと。伊達政宗への謁見が記録に残っています。
石井彪他著『東北の民間信仰』(1973年、明玄書房)に寿庵についての記述がありました。
「少年、青年の時代の消息は不明であるが、長崎の五島に十数年間滞在中、キリスト教の洗礼を受け、外人宣教師によって欧州文化の知識を得ていた。その後姓を後藤(五島の名にちなむ)と名乗って仙台に現れ、ある人によって藩主伊達政宗に紹介された」
伊達政宗は、仙台に突如現れたキリシタン武士を厚遇します。ヨーロッパと交易する野望を抱いていた政宗は、引見した寿庵に西洋の事情を聞き、領内でのキリスト教の布教を認め、奥州水沢の地に知行千二百石を与えて赴任させました。
その後、寿庵は政宗に従い、大坂冬の陣、夏の陣にも従軍しています。
寿庵が名付けた「神の福音をもたらす地」
寿庵が拝領した岩手県南部の地には北上川へと注ぎ込む清流・胆沢川が東西に流れ、その流域に広がる「胆沢扇状地」は、日本最大級の扇状地でもあります。
この平野は当時「見分けの地」と呼ばれ、砂漠のように荒涼とした原野でした。農業用水が不足して作物はたびたび枯れ、そのたびに農民たちは貧困にあえいでいました。
赴任した寿庵は、この地を「神の福音をもたらす地」として「福原(ふくわら)」と名付け、農民たちの救済に自ら乗り出します。
まず行ったのは川から水を引くための検地。寿庵自ら実測し、胆沢川からの引水が可能と判断して、農民たちとともに工事に着手します。この用水によって、水不足が解消されるだけでなく、広大な荒れ地に広く灌水することができる、つまりより多くの地を耕すことができるとあって、この用水は地域の人々の希望でもありました。
奥州にキリスト教を広める
工事の一方で、寿庵は自らはもとより、外国人宣教師を招いてキリスト教の布教に励みます。福原には教会堂が建築され、寿庵の館の東側には、東西五町三十間(約600メートル)の小路が続き、両側を屋敷割して家臣を住まわせます。教会堂は小路の中ほどにありました。
寿庵廟には
「羅馬法王ぱうろ五世ノ下セル罪障全赦ノ教書ニ対シ奥羽二州ノ信徒ヲ代表シテ奉答文ヲ呈セルコトアリ」
と記され、バチカンとの厚いつながりも維持していたことが伺えます。
福原にはこの教会を中心に民家が立ち並ぶようになり、「福原小路」という集落ができました。
この小路に居を構えていた寿庵の家老・後藤隼人信業の武家屋敷跡は、明治になって塩竈小学校福原教場(現在の水沢市立水沢南小学校)として使われるようになるなど、寿庵が築いた町は後々まで人々の生活の礎となりました。
領民との絆を引き裂いた禁教令
博愛の精神で人々に接し、民衆とともに生きようとした領主・後藤寿庵。水沢での日々は、慶長17年(1612年)及び翌年に江戸幕府から出された禁教令によって終わりを告げます。
前掲書によれば、伊達政宗はキリシタン禁制が布達された当初は禁令を放置していました。しかし、徳川家光の代になって禁制が強化されるといよいよ対応を迫られることになり、仙台藩からは寿庵の名指しで逮捕令が出されます。
その時の様子を、寿庵廟の記録はこのように伝えます。
「幕府のキリシタン弾圧が迫るに及び、政宗の内意を受けた水沢城主石母田大膳は、その夫人ともども寿庵に棄教をすすめたが「正宗公の恩義は千万忝(かたじけ)ないが、デウス(神)の恩ははるかに広大であり、御意に従いかねる」といって拒否し、元和九年福原における最後の耶蘇降誕祭を終えて従族十余名を帯同し、家や名誉を捨てて自ら追放という茨の道を選び、南部に逃れたと伝えられている」(引用者註:耶蘇降誕祭はクリスマスのこと)
政宗は幕府における立場からも、寿庵に直接棄教を勧めることはできなかったのでしょう。それでも、寿庵をなんとかして救ってやりたい。家族ぐるみの親交があったのであろう石母田大膳は妻とともに寿庵のもとを訪れ、親心にも似た政宗公の切なる思いを、おそらく何度も説いて聞かせたはずです。
きっと寿庵も、主君の思いは痛いほどわかっていた。
「千万忝ない」
その言葉からは、寿庵の痛切な苦しみが伝わります。
それでも「デウスの恩ははるかに広大」と言い切り、自らが与えた所領を捨てて旅立っていった寿庵を、政宗はどのような思いで見送ったのでしょうか。
主君に対して言い放った「御意に従いかねる」との言葉に、まさに信仰に命を捧げた一人の男の生き様があるように思えるのです。
いまも愛され続ける寿庵
寿庵が姿を消した後、彼が人々とともに掘り進めた用水は、その意志を継いだ地元の農民たちと領地を引き継いだ領主によって、数年の歳月の後完成を見ます。
以来、400年以上経った現在でもこの堰は「寿庵堰」と呼ばれ、水沢の地に胆沢川の水を運んでいます。
秋も終わりに近づいた11月、寿庵の屋敷があった奥州市水沢地区を初めて訪れてみました。
「福原農村公園」として整備された寿庵の屋敷跡は、きれいに手入れがされ、そして「寿庵廟」は公園の奥に静かに佇んでいました。
昭和6(1931)年に建設された寿庵の廟は、キリシタンであった彼をたたえるように、キリスト教建築の趣があり、ポルトガル語と日本語で彼の人生を後世の人々に説明しています。
さびれた、といった状態では決してなく、節目節目に建てられたさまざまな記念碑などから、寿庵が地元の人々に長く感謝と尊敬の念を持って敬愛されていることが分かります。
本当に誰も知らなかったのか
この寿庵の生涯を、私は宮城県多賀城市立図書館で偶然手にした1冊の本で知りました。そのときから、そして実際に彼の屋敷跡を訪れてみてからも、感じている疑問があります。
「なぜ没年まで不詳なのだろうか」
生年の不詳はめずらしいことではありません。それでも、歴史に名を残した人物の没年まで不詳というのは、あまり見かけることではないように思います。
逃亡したのだから、没年は分からない。もちろんその通りです。しかし、記録には逃れる際、寿庵には十余人の帯同者がいたとあります。また、真偽は不明のようですが、後に南部藩内(現在の青森県南部町など)で捕縛された者の中に、寿庵の教えを受けたものがいたらしいという話も残っています。
江戸初期の東北奥地のこととはいえ十数人のキリシタンの集団が、一度も捕まることもなく、あるいは身分を偽り続けて、あるいは他のどのような人間とも一切関わることなく暮らしていくことなどできるでしょうか。
千石を超える元領主ならば、せめて死後にでも、どこでどのような最期を迎えたのかくらい誰かが伝え聞いていても不思議ではないように感じるのです。
仙台藩から逮捕令が出された際、政宗は「捕吏を派遣して福原の寿庵宅を包囲させたが、一部逃げ途を明けて攻撃の形をとった」(前掲書)といいます。そして、「隠れていた信者たちは寿庵を導き逃亡させた」(同)そうです。
以下はまったく根拠のない私見ですが、仙台藩は寿庵の行方をあえて深くは追わなかったのではないでしょうか。あるいはその後の消息も、ごく一部の人間は知っていたかもしれない。
しかし、表向きには「一切不明」とした。そのようにして、寿庵を「もはや存在しない人」とすることが、唯一彼に生きる道を残し与える方法だった。
そしてそれが、政宗の「内意」だった––––。
いや、今に及んでよそ者がそうまで勘ぐるのはあまりに手前勝手、横槍というものでしょう。
いまはただ、後藤寿庵という一人の信仰者がいかに民衆を愛し、どれほどこの土地の人々に愛されてきたのかに、静かに思いを馳せたいと思います。
(All photo by Tomoro Ando)