菊は、秋を代表する花の一つ。最近は、1年中菊の花が売られていますが、秋が旬の花です。秋には各地で「菊まつり」が行われ、菊人形が作られて飾られることもあります。
菊人形と呼ばれる菊細工が作られるようになったのは、江戸時代から。江戸の人々が菊見(きくみ)に出かけた様子は、浮世絵にも描かれています。
旧暦9月は、別名「菊見月」
旧暦の9月は、「菊見月」と呼ばれます。「菊の花を見て楽しむ月」という意味です。
旧暦9月9日は、五節句の一つである「重陽(ちょうよう)の節句」で、菊が咲く季節に行われることから「菊の節句」とも呼ばれます。平安時代には、宮中で「菊の宴」とよばれる観菊の宴が行われ、厄除けや不老長寿を願って菊の花を浸した菊酒(きくざけ)を飲む習慣がありました。
新暦では、1か月遅れの10月頃からが菊の花の見頃になるでしょうか?
平安時代の雅な「菊合」の遊び
華やかな花弁と高い香りを持つ菊は、平安時代の始めの延暦年間(782~806年)頃に中国から渡来したと言われています。
平安時代には、左右に分かれて、持ち寄った菊の美しさを競う「菊合(きくあわせ)」と呼ばれる遊びが宮中などで行われていました。
宇多天皇の御代(みよ)に催された「菊合」の時に、菅原道真(すがわらのみちざね)が吹上の浜の模型に菊が植えてあったものを詠んだ歌が『古今和歌集』に収録されています。
秋風の吹きあげにたてる白菊は花かあらぬか波の寄するか(272)
(吹上の浜はその名に背かず、秋風がふきまくっているが、そこに立っている白菊は本当の花なのか、いやそうではないのか、それとも寄せては返す白波が花に見えるのだろうか。)出典:『日本古典文学全集 11 古今和歌集』 小学館
園芸ブームで、菊の種類も豊富に!
日本で菊が広く栽培されるようになったのは江戸時代に入ってから。
江戸時代前期から菊の栽培熱が高まります。菊の品種改良も行われ、種類も豊富になります。庶民の間でも「菊合わせ」「菊大会」と呼ばれる品評会が各地で行なわれ、栽培方法などを案内するガイドブックが出版されたりします。人気の品種は、高額で取引されました。
正徳3(1713)年に刊行された江戸時代中期の園芸家・霽月堂丈竹(せいげつどうじょうちく)による『後の花』には、現在も栽培されている菊の花形が載っているのだとか。
江戸時代中期になると園芸ブームが起こり、珍しい植物や花への関心が高くなります。菊のほか、椿、ツツジ、万年青(おもと)、朝顔など、様々な種類の植物が園芸品として人気になりました。
鉢の植物は長屋でも飾ることができることから、庶民に親しまれてきました。縁日には植木屋が露店を出したり、植木売りが天秤台に乗せて売り歩いたりしていたので、江戸の人々は気軽に園芸を楽しんでいたのです!
100種類の菊が同時に咲く「百種接分菊」
菊の品種改良が進むと、美しい花を咲かせるだけでは飽き足らず、更なるチャレンジをします。
絵に描かれた菊は、浅草・花やしきの見世物小屋で披露された「百種接分菊(ひゃくしゅつぎわけぎく)」です。このみごとな菊の作品は、染井村の植木屋・今右衛門(いまえもん)によって作られたもの。菊の根元の茎をよく見ると、太さ約2~3寸(6~9㎝)の1本の茎を土台に、100種類の菊を接ぎ木して花を咲かせたことがわかります。
美しい菊の花を咲かせるためには充分な栄養と日光が欠かせず、「菊は肥料食い」と言われるほどでした。接ぎの技術はもちろん、100種類もの菊を同時に開花させることは、現代の技術でも至難の業。当時の江戸の植木職人が、驚くべき技術を持っていたことがわかります。
そして、一つひとつの菊には、「高砂(たかさご)」「宝船」「天の岩戸」「大江山」「砂金袋」「雪山」「薄化粧」などの名前の書いた短冊がぶら下がっています。名前は、縁起物や地名のほか、遊び心のあるものも。当時は、品種改良によって新種の花を作り出すと、ご褒美としてその花の名付け親になることができたのだとか。
「百種接分菊」は、技術力の高さと迫力から多くの見物人が集まっています。絵からは人々の熱気が伝わってくるだけではなく、江戸っ子たちの花に対する探究心と鑑賞眼が伺えます。
そんな中、右端に一人、背を向けて熱心に何かを見ている男性がいるのがわかりますか?
彼が見ているのは、菊の番付のようです。番付とは、相撲の力士の序列一覧表の形式を使って、飲食店や名所、事柄などを順序づけて並べたもの。ランキングが好きな人も多かったようで、様々な番付が作られました。
江戸の植木屋が作り出した菊人形
江戸時代後期になると、菊づくりがさらにさかんになりますが、その担い手は染井(そめい/現・東京都豊島区巣鴨・駒込付近の旧地名)の植木屋でした。染井には植木屋が多く、大名屋敷や寺社の庭園の手入れを請け負ったり、庭園に植える樹木などを栽培していました。染井の植木屋たちは、庭先にいろいろな珍しい植物を植えて、行楽客を集めるようになります。特に、秋の菊の時期が賑わったと言われています。
その後、菊の展示は、染井から大塚、雑司が谷、高田あたりにまで広がり、一日では回りきれないほどに!
絵の女子は、染井の菊見物から帰宅したばかりのようです。庭先から縁側に上がって帯を解き、懐に入れていた懐紙や手鏡を抜いて、ほっと一息ついた様子です。後ろには、ほどいた大柄な格子模様の帯が無造作に置かれていますが、帯が重くてきつかったのでしょうか?
江戸の道は舗装されていなかったので、すぐに土埃で足元が汚れてしまいます。そのまま座敷に上がると畳が汚れるので、帰宅した時や他家を訪問した時は、玄関先で足を洗う習慣がありました。縁側の下には足すすぎの水が入った桶が見え、手ぬぐいで足を拭いているので、長い距離を歩いて汚れた足を洗い終えたところのようです。
コマ絵に描かれているのは、背丈の揃った花を整列して植える「花壇作り」で、花持ちをよくするため三方を囲み、屋根には市松模様の明かり障子が置かれています。
「菊細工」「造り物」などと呼ばれる菊人形の見世物も、江戸時代後期の文化年間(1804~1818年)に染井の植木屋が始めたものです。その後、両国などでも行われるようになりました。
茶屋の菊見の席を描いた浮世絵です。庭には、菊の花で作られたド派手な帆掛船が飾られています。
江戸の菊見は、どこがおすすめ?
菊見は、江戸に暮らす人々の楽しみの一つでした。
文政10年(1827)に刊行された『江戸名所花暦』は、江戸のレジャーガイドブックです。著者は、江戸時代後期の戯作者(げさくしゃ)・岡山鳥(おかさんちょう)で、長谷川雪旦(はせがわせったん)が挿絵を描いています。この本では、四季折々の花鳥風月を計43項目に分類し、それぞれの名所の解説、由来などがあるほか、道順をわかりやすく案内。江戸の人々は、この本を参考に、季節の花を見に出かけました。
『江戸名所花暦』の「秋之部」に「菊」の項目があり、巣鴨と雑司が谷が紹介されています。
巣鴨
巣鴨は植木屋が多い土地でした。
巣鴨には植木屋所々にあり。文化のはじめころ、菊にて作り物を工夫せしなり。植木屋ならでも作りたるなり。
文化年間(1804~1817年)の初め頃、植木屋では獅子の子落し、布袋(ほてい)の唐子遊び、汐汲の人形、九尾の狐などの歌舞伎や浮世絵でもおなじみの名場面を、様々な菊の花と葉で作り上げました。これらを菊の作り物を庭に置き、一般にも開放。多くの人々が見物に訪れました。
雑司が谷
雑司が谷でも、鬼子母神(きしもじん)の境内や料理屋の奥庭、茶店・植木屋などが菊を栽培して菊の作り物をつくりました。
鬼子母神では、10月には御会式(おえしき)が行われます。御会式は、もともと日蓮聖人の忌日の法会で、たくさんの人々が一緒になって供養のお練りをします。10月8日から御会式が始まると、参詣の人々で雑司が谷の菊見もたいそう賑わった、とあります。
今が旬! 菊の花を楽しもう!
菊は、仏事の花というイメージがありますが、もともとは高貴さと長寿の象徴。最近は「これが菊なの?」と思うような華やかなものからかわいらしいものまで、色とりどりの様々な菊があります。
この秋は、菊の美しさをもう一度見直して、楽しんでみてはいかがでしょうか?
菊=仏花というイメージは最近のもののよう。江戸時代のようにもっと菊を楽しみたいですね♡
主な参考文献
- ・『日本大百科全書』 小学館 「菊」の項など
- ・『浮世絵の解剖図鑑』 牧野健太郎著 エクスナレッジ 2020年9月
- ・『絵解き「江戸名所百人美女」:江戸美人の粋な暮らし』 山田順子著 淡交社 2016年2月
- ・『江戸名所花暦(江戸名勝図会 第4)』 有朋堂書店 1927年