時代が変われば、じつに結婚への道のりも様々だ。
リクルートブライダル総研によれば、令和2(2020)年の婚姻者のうち、婚活サービスの利用者は33.1%と過去最高の割合になったとか。ネットの婚活サイト利用者は44.7%に達するとも。
親の勧めや、お見合い婚などが主流だった時代から、自由恋愛の末に辿り着く恋愛婚へ。そして今は、婚活サービスやマッチングアプリなど、これまた新しい形態が、既に選択肢の有力な1つとなっているようだ。
一方で、結婚をツールと捉える考え方も、現実にある。
その代表例が「政略結婚」だ。
経営者一族を担う立場なら、自由恋愛などといってはいられない…。そんなドラマのような展開も、運命に振り回される出会いのようで興味がそそられる。ただ、そんな暢気なコトを言っていられるのも、当事者ではないからこそ。
実際に、意に沿わぬ「政略結婚」をした者たちからすれば、ふざけんなと、怒られるに違いない。本当に、彼らの心の声が聞こえたならば…。
まさか、聞いてみたい?
そんな思いから書き始めたのが、今回の記事である。
じつは、戦国時代も「政略結婚」が非常に多かった。
もちろん、コチラの場合は、しくじれば「死」が待っていることも。夫も妻も共に、「命」を賭けての結婚だったワケである。
今回は、勝手ながら2人の武将を選ばせて頂いた。
彼らの「結婚」に対する思いとは?
それでは、早速、ご紹介していこう。
「武田信繁」の家訓が切なすぎる!
まず、お1人目はコチラの方。
「武田信繁(たけだのぶしげ)」である。
「武田」というからには、武田信玄のあの一族か…と推測されたのではないだろうか。まさしくその通り、信玄と父母を同じくする実弟で、4歳違いといわれている人物だ。
じつは、『名将言行録』には、このような記述がある。
「信虎(のぶとら)は、次男の次郎信繁を愛して晴信を廃嫡しようという気持ちがあった。家臣はこれを察してみな信繁を尊敬し…」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
「晴信」とは、武田信玄のコトである。信玄の父の信虎は、信玄よりも信繁を溺愛していた、なんなら信玄の「嫡男」という立場を廃する気持ちもあったという衝撃的な内容だ。
さて、真実かどうかはさておき、同じような話は、どの家系にでもある。確か…奥州の覇者である「伊達政宗」も、母親が弟の小次郎を溺愛したなんて囁かれていた。ただ、こちらは表向き、政宗が小次郎を手討ちにしたということになっている(諸説あり)。
一方で、武田信繁の場合は、どうやら兄弟同士で敵対するということはなかったようだ。信繁は、信玄の輔佐としても有名で、武田家の副当主格として諸将らをまとめていたとも。川中島の戦いで命を落とすまで、兄を支え武田家の勢力拡大に身を捧げた男だったのである。
じつは、信繁が有名なのは、先ほどの「名輔佐」だけが理由ではない。
他にも、彼の名を有名にするワケがあるのだ。
それがコチラ。
『古典厩(こてんきゅう)より子息長老江異見九十九箇条之事』。
えらく小難しい名前だが、ざっくりと分解すると。
タイトルの中の「古典厩」とは、信繁自身のこと。「子息長老」とは、彼の嫡男の「信豊(のぶとよ)」のことである。
コレ、なんと、彼が息子宛てに遺した「家訓」なのだとか。
いうなれば、息子に伝えたい「先人の知恵」といったところか。
内容はというと、「忠誠を尽くせ」「正直を貫け」「悪口は言うな」など、息子でなくとも、世の人々に教えたいものばかり。なかには「戦が近づけば、家臣の扱いを荒々しくしろ。兵は怒りを抱いて戦うべきものだから」なんてものもある。
ちなみに、この家訓は、中国の兵法書や古典が多く引用されているのが特徴だとか。いかに信繁が兵法書などに精通し、教養人であったかがうかがい知れる。
それでは、お待たせしました。
結婚の話は…? 一体、どこで出てくんだ? と思いながらここまで読み進めて頂いた方。ホントに遅くて申し訳ない。ようやく、今から彼の「結婚観」をご紹介していこう。
まずは、原文から。
「縦(たと)ひ夫婦一緒有りと雖(いえど)も、聊(いささか)も刀を忘れざる事」
(川口素生著『戦国武将 逸話の謎と真相』より一部抜粋)
ふむ…。
えっ?
ええっ?
簡単にいえば、夫婦が一緒にいる時も、刀を忘れてはいけないという内容になる。つまり、夫婦といえども、気を抜くなというニュアンスだろうか。
ここで注目すべきは信繁の妻。と言いたいところだが、残念ながら彼女に関する文献は見当たらなかった。どのような出自で、どのような性格の女性なのかは不明なのだが、信繁は「政略結婚」という事情を考慮して、このような内容を入れたのかもしれない。
それにしても、である。
他家から輿入れしたといっても、結果的に子どもまでできれば、さすがに情も移るだろう。妻に気を許すことができないってのは、いくらなんでもやり過ぎじゃ……。
いやいや、全くやり過ぎではない。
というのも、ここで頭をよぎる人物が1名。いや、2名…いやもっと…。
特に、悲劇的な結末を迎えた、徳川家康の嫡男「信康(のぶやす)」は有名だ。夫である信康の動向に不審を抱いた妻が実父へ報告。実父とは、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長であったから、さあ大変。結果的に武田氏内通の嫌疑がかけられ、家康は嫡男の信康を切腹させたのである(諸説あり)。これこそ、妻がスパイ的な役割を果たした代表例だろう。
もちろん、女性側だってリスクは高い。実家が敵対関係に転じれば、送り返されるのはまだいい方だ。場合によっては名目的ではなく、本当の「人質」となることだってあるのだから。
そういう意味では、夫だけではない。
妻だって、結婚しても気を抜くことはできなかったのだ。
寝所にまで刀を持ち続けた「加藤清正」の真意とは?
さて、お次はコチラの方。
豊臣秀吉の子飼い衆の1人、「加藤清正」である。
幼少より豊臣秀吉に仕え、「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」では、七本槍の一人として数えられることに。のちに、肥後(熊本県)半国を与えられ、朝鮮出兵の際には、大いに奮戦し武名をあげたのだが。石田三成ら講和派と相容れず、秀吉より一時蟄居(ちっきょ、謹慎処分のようなもの)が言い渡されることに。
この遺恨もあって、秀吉の死後、慶長5(1600)年の「関ケ原の戦い」では、東軍の徳川方に属して参戦。江戸幕府の礎を築いた家康より肥後国54万石を与えられる。こうして清正は、日本三大名城の1つである「熊本城」を築城し(時期は諸説あり)、城下町の形成に寄与したのである。
そんな清正については、これまでの記事で色々と書いてきたのだが…。
そういえば、「妻」についての記事はないな…なんて気付いてしまったのだ。いつも、何故だか男ばかり。清正と家臣の絆アツアツのエピソードだったり、秀吉らぶの清正の気持ちだったり…。異性との逸話がないのはなんでだ! というコトで、今回の「妻談義」では、コチラの方を選んだ次第である。
そもそも、清正の妻って、一体、誰なんだ? というところから。
そりゃ、正室やら側室やら、たくさんいるだろうが。『名将言行録』には、「清正の妻は家康の養女であった」という記述がある。
確認すると…確かに、いた。
清正の正室(継室とも)だ。
「水野忠重(ただしげ)」の娘で、徳川家康の養女となり清正と結婚。慶長6(1601)年には男の子を授かることに。これが、のちの2代熊本藩主となる「忠広(ただひろ)」である。清正の死後は剃髪し「清浄院」として、徳川家との橋渡しに尽力し、加藤家を支えた女性だ。
家康の養女との結婚ともなれば、気を遣って当然か。
その様子を『名将言行録』より、抜粋しよう。
「清正は奥に入ってもつねに用心して、ちょっとの間も刀を放さず膝の元に置いていたので、みなそれを不審に思っていた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
まあ、そりゃそうだろうな。不審に思って当然だ。
刀を膝元に置く夫って…。考えただけで、落ち着かんがな。妻だけでなく、周囲の者も気が張り詰めるだろうに。
そこで、とばかりに、「五条の局」という老女が、なんと清正に直接訊いたというのである。まあ、職場代表みたいな形で、主君を直撃したというワケだ。
「表にいらっしゃるときにこそお腰の物も必要でしょうが、奥にお入りになったときは、なんのご用心も要らぬことですのに、このようなお気づかいはどういうわけでしょうか」
(同上より一部抜粋)
さすが、年の功。
この回りくどい…いや、素晴らしい婉曲表現で質問。
まあ、直訳すれば「腰のもん、いらんやろ」てなワケだ。
さて、一体、ここで清正は、何と答えたのか。
「清正は笑って『女の知ったことではない。表ではわが身に代わり、命に代わってくれる家来がたくさんおり、昼夜怠りなく守護する者がいるから、たとい裸体でいたとしても、それほど恥をかくことはあるまい。ところが奥は女ばかりだから、このように用心するわけだ』といわれた。このことを伝え聞いた士どもは、主の厚い信頼をありがたいことだと思った」
(同上より一部抜粋)
ふむ…。
えっ?
ええっ?
またもや、肩透かし?
というより、結局は、妻に気を許せないからではない。ただ、自分を守ってくれる者がいないからという理由で、刀を離せないワケで。
いや、それよりも。
私が非常に気になるのは、そもそもこの逸話が「妻談義」じゃないというコトだ。
家臣に対して「お前たちがいないとな」みたいな感じ。で、その家臣たちは、主君から信頼されているんだと心が満たされ感激する。
コレって、やっぱり、清正と家臣との絆の話になってない?
なんだよ、清正。
落ち着くところは、やっぱり男ばかりの話になるのか…。
私の恨み節が締めの言葉となった「清正の妻談義」であった。
最後に。
清正が刀を離さない理由を知って、ふと、思った。
じつは、武田信繁の家訓も、同じ理由だとしたら…。
全く話が違ってくるのではないか。
妻に気を許すな…ではなく、
誰にも頼らず自分の身をしっかり守れ…的な感じ?
「妻」からか、「外敵」からか。
どちらにせよ、自分の身は自分で守る。
いつの時代も、これが「鉄則」なのである。
参考文献
『現代語訳徳川実紀 家康公伝5』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2012年2月
『戦国武将 逸話の謎と真相』 川口素生著 株式会社学習研究社 2007年8月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月など