東海地方でも指折りの観光名所、犬山。
その中心はもちろん国宝・犬山城ですが、この町の特徴は城だけではなく、城下町が江戸当時の町割りのままで現在も残っていることにあります。
実はこの美しい街並み、かつて崩壊の危機にありました。
「ショッピングモールを誘致しよう」「道路を拡幅し、車社会に対応したほうがいい」
そんな意見に「待った!」をかけたのが、この方。
元犬山市長・石田芳弘さん。
犬山を愛し、まちづくりは「国宝犬山城」「城下町」「祭り」の三位一体でなければならないとのポリシーを掲げて街づくりに奔走した石田さんに、犬山の魅力を語ってもらいました。
かつて消えかけた犬山の街並み
「国宝に指定されている城は日本に5つありますが、城下町の町割りが当時のまま残っている町というのは犬山だけなんです」
紅葉が色づき始めた犬山城を見上げつつ、石田さんが教えてくれました。
名鉄犬山駅から徒歩約10分。犬山城に向かって真っ直ぐ続く「本町通り」が、犬山の中心街です。通りの両側には、木造の町家を生かした土産物屋やカフェが並び、「小京都」といった雰囲気があります。コロナ禍ではありましたがこの日も観光客が多く行き交っていました。
「ただね、この道幅だと車はすれ違いにくいでしょ? 車を中心に考えると、この通りは拡幅しないと使いにくいんです」
高度成長期から1980年代にかけて、各地では都市部の人口が急激に増加。郊外にはベッドタウンが造成され、都市部へ通じる主要道路はもちろん、古くからの街並みを残すエリアでも、車の通行のために道を拡幅する工事が全国的に進められました。2000年代からは、郊外型の大型ショッピングモールが各地に相次いで建設されていきます。
「この町にも高層マンションや道路拡幅の話があったんです。建設によって人が来れば財政的に潤うことは分かっていました。ただ、それによって古くから守られてきた犬山の街並みが変わってしまっていいのか。私にはそれが疑問だった」
「古い建物を失った町は、記憶をなくした人生と同じ」
1945年、犬山市で酒屋を営む家系に生まれた石田さんは、大学卒業後に政治家を志し、30代で愛知県議会議員に当選。3期務めた後、48歳で犬山市長に立候補します。
争点に掲げたのはもちろん、犬山の街づくりについて。
石田さんの脳裏には、かつてアメリカのボストンを訪れた時に聞いた、こんな言葉があったといいます。
「古い建物を失った町は、記憶をなくした人生と同じだ」
「新たにつくられた町がダメというわけではない。新しく清潔で、クリーンな町ができるでしょう。ただ、クリーンではあるかもしれないが、おそらくビューティフルではない。イタリアなどを訪ねるとクリーンではないかもしれないが、ビューティフルな街並みがたくさん残っている。犬山をビューティフルな町にしましょうというのが、僕の訴えだった」
自身の考えを地元の人々に地道に訴え続け、見事当選。以降3期12年にわたって市政を率います。まず行ったのは、拡幅工事計画の撤廃と景観条例の制定、そして教育改革(全市博物館構想)でした。
日本最古の様式を残す国宝犬山城
国宝・犬山城は濃尾平野の北端に位置し、背後に木曽川を背負う平山城。室町時代の天文6(1537)年に、織田信長の叔父である織田信康によって創建されました。
姫路城が「白鷺城」と呼ばれるように、愛称を「白帝城」と言い、これは李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝わります。
織田信長亡き後の織田家と徳川家康に対し、羽柴秀吉が挙兵した小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍に寝返った池田恒興が占拠するなど、この地の戦では常に重要な拠点であり続けました。
関ヶ原の戦いでは西軍の拠点となるなど、戦国期から江戸期にかけていくつもの争いを経験しますが、奇跡的にも天守が燃え落ちたりすることがなかったため、天守閣には現存する日本最古の様式が残されています。
北を背にして南を向く犬山城の天守閣からは、正面に濃尾平野を一望しつつ、木曽川の流れを真上から見下ろすようにして眺めることができます。この非常に稀な地形によって、戦国時代には戦略上重要な拠点となり、さらには「奇跡的」に落城の難を逃れることができたのかもしれません。
「木曽川は濃尾平野の母なる川であり、生命の源。飛騨の急峻な山々から注ぎ込む荒々しい流れが、この犬山城の地点でゆったりとした流れに相貌をチェンジする。クラシック音楽で言えば、アレグロからアンダンテにテンポを変えるような地点ですね」
この美しい城を中心に、江戸時代以降は初代城主・成瀬正成公に始まる成瀬家の治世のもと、城下の整備が行われ、祭りなどの文化も発展していきます。
祭りの中に「隠されている」文化
「まちづくりはモノがあればそれで完成、ではない。コトが必要なんです」。
犬山城がそびえる山の中腹には、地域の人々に「針綱(はりつな)さん」と慕われる針綱神社があります。
この神社の祭礼が、毎年4月に行われる「犬山祭」。
寛永12(1635)年から続くこの祭りは、3層の車山(やま)13輌が城下町に繰り出し、笛や太鼓に合わせてからくり人形を披露します。
夜には、各車山に365個もの提灯が灯され、桜並木の城下町を練り歩きます。
祭りは国の重要無形民俗文化財と同時にユネスコ無形文化遺産登録でもあります。祭礼日には、例年2日間で約50万人の観光客が集まります。
「日本のどの町にも、神社や仏閣はあります。そうした場所では、人は誰でも自然と帽子をぬいで、手を合わせ、拝をする。身が美しくなるというか、躾(しつけ)とでもいうべきものが、そこにはあると思うんです。日本の祭りは本来、土地の神様に豊作を祈ったり、感謝を申し上げるために奉納するもの。自然への畏敬や感謝が、祭りの中にはある。言い換えれば、その地域の精神が祭りの中に集約されていると僕は思う」
そして石田さんは、こう言葉を継ぎます。
「だから、城と城下町だけあれば『まち』ができるわけじゃない。それを慕い、愛する人々の存在があってこそ、まちは存在するのです」
城と、城下町と、祭り。この3つが三位一体になってこそ「犬山は犬山たり得る」。平成18(2006)年に市長を退任後、現在は「犬山祭保存会」の会長を務める石田さんはそう言葉に力を込めます。
現在では、犬山市内の小学校で犬山祭に関連した邦楽を学ぶ機会も設けられるようになりました。
町は、生きている。
かつてシャッター通りになりかけた犬山の城下町は今、多くの人でにぎわいます。レンタル着物で着付けをする女性たちや、人力車に乗る観光客も。
「誰もいない町で、わざわざ着物を着て歩こうと思わないし、近代的な都会の真ん中で着ようとも思わないでしょ? 大勢の人が行き交い、町に情緒があるからこそ、着物を着て歩きたいと思える。そうすれば人力車で商売を始めようという人も出てくるし、飲食店も増える。城下町の再生は、新しい文化とファッションを生みました。ショッピングモールは50年後もあるかどうか分からないけれど、犬山の文化は400年以上守り継がれてきた。この歴史のリメイクが、遠回りかもしれないが、町の経済のためにもなると信じています」
石田さんは「町は生き物」だと言います。
町にも「生」があり「死」がある。街並みが個性を失い、住民が故郷への愛を忘れ、まちづくりへの情熱をなくしたとき、まちは「死」に向かうのかもしれません。
大きな街であれ小さな町であれ、そこに暮らす人々がまちを愛し、さまざまな形で関わろうとする限り、まちは生き続ける——。まちづくりは「愛ナクバ立タズ」。そう言い切る石田さんの言葉と犬山の美しい街並みに、まちづくりの本質とわがまちを愛することの大切さを教えてもらったような気がします。
(写真=安藤智郎)