18世紀終盤の天明・寛政期は、江戸時代のなかでも最も混乱に満ちた時期でした。
この間に、10年近くに及んだ天明の飢饉があり、餓死者や流民が140万人に達しました。さらに浅間山が大噴火して死者2万人。そして天明の大火が起きて、京都は丸焼けとなりました。1787年5月には、米価高騰に憤った江戸の民衆数千人が、多数の商家を襲撃する天明の打ちこわしが勃発します。
このような状態ですから、食い詰めた農民・町民の中には、盗みで生計を立てる者も現れます。特に江戸は、地方から来た離農者の一部が盗賊と化し、さながら無法都市の様相を呈していました。これに対し、治安を司る町奉行所では対処しきれず、ときには町人に夜間外出禁止令を出すありさまです。
『鬼平犯科帳』主人公のモデルとなった実在の人物
こんなカオスな江戸市中に、さっそうと登場したのが火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川平蔵です。
火付盗賊改方とは、盗賊や放火犯といった凶悪犯を取り締まる専門組織。打ちこわしの鎮圧に活躍した平蔵は、その翌年(1788年)から火付盗賊改方の頭を任じられていました。
その役にあった9年の間に、解決した難事件は記録に残るものだけでも200件以上。歴代の火付盗賊改方の中でも、群を抜く実績を残した人物です。
ところで、「平蔵」といえば、「鬼の平蔵」。「鬼の平蔵」といえば、『鬼平犯科帳』を思い出す人が多いのではないでしょうか?
小説家の池波正太郎が、1967年から月刊『オール讀物』に長期連載した『鬼平犯科帳』は、文庫版が3千万部を超える一大ベストセラーに。後にテレビドラマ、劇画、アニメになるなど一世を風靡しました。
原作の『鬼平犯科帳』は、史実に脚色を加えたフィクションです。では、実在の長谷川平蔵はどういった人物で、どのような実績を挙げたのでしょうか? 今回は、「鬼平」の実像にせまります。
「何者でもない」頃に大物宣言
長谷川平蔵が産声を上げたのは1745年。幼名は銕三郎(てつさぶろう)。長じて宣以(のぶため)となりました(平蔵は通称ですが、以下通称を用います)。父親は、旗本の長谷川宣雄。御書院番に始まり、小十人(こじゅうにん)の頭へと、武官のキャリアを順当に出世し、火付盗賊改方そして京都西町奉行にまで昇りつめた人物です。しかし、京都西町奉行所に転任してわずか8か月で病死。このとき共に京都にいた平蔵は28歳。既に妻子のいる身でした。
長谷川家の家督相続人であるという以外、ぱっとした立場になかった平蔵ですが、父の逝去に伴って江戸に戻る際、見送りに出た奉行所の役人にこう言い放っています。
各々がた、真面目に勤務に励んでください。後年、長谷川平蔵といえば、当世の英傑と世に言われていることでしょう。用向きがあって参府したら、必ず立ち寄ってください。
これを聞いた人たちは、大言を吐く人物だと印象をもったことでしょう。平蔵も、後でしまったと思ったかもしれません。江戸に戻っても、亡き父の威光で大きな役職をつけられる……ということもなく、1年近くが過ぎます。
天明の打ちこわしでの活躍で火付盗賊改方へ
1774年4月、そんな平蔵にも西の丸御書院番という役が巡ってきました。江戸城の警護や将軍が外出する際の護衛をになう大事な役目です。平蔵は粛々と精勤し、頭角を現していきます。四十路を迎えた1786年には、部署のトップである御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に就任しています。
冒頭で触れた、天明の打ちこわしが起こったのはこの頃です。暴徒とした大群衆に、町奉行所はなすすべがなく、幕府は直属の軍隊ともいうべき御先手組に出動を要請します。動員されたのは平蔵を含む精鋭約400人。彼らは市中に散って、目にあまる乱暴狼藉を働く者らを次々と捕縛しました。なかでも平蔵の活躍ぶりは「眼をみはるばかり」だったそうです。
打ちこわしの鎮定後、平蔵はその功が認められ、火付盗賊改方に抜擢されます。ちなみに政界では、賄賂政治の元凶であった田沼意次が失脚し、松平定信が老中首座に就任しています。何か新しい時代の到来を予感させる出来事でした。
大盗賊を次々と捕らえる
亡き父も任じた火付盗賊改方を拝命した平蔵は、今まで以上に職務に邁進しました。第4代将軍家綱の代にもうけられた火付盗賊改方の頭になった者は、幕末までの間に約200人に及びます。在任中に1人でも大盗賊を召し取られれば大手柄というところを、平蔵だけが何人もの重罪人を捕まえています。
例えば真刀(神稲)徳次郎。数十人を率い東北から関東を荒らしまわった盗賊で、移動の際は「御用」と書いた提灯を持つなど、いかにも公儀御用の者たちであるかのように装い、関所をフリーパス。そうして数百の村々で強盗を働きました。平蔵と部下は、徳次郎の隠れ家を突き止めて逮捕。本当の意味で「御用」となったわけです。民衆は拍手喝采し、平蔵の名が知れ渡りました。
「御用」のカモフラージュで犯行を重ねた盗賊がもう1人いました。その名は葵小僧。徳川家の家紋である葵の御紋付きの大名駕籠を走らせたことから、ついた通り名です。その行列があまりに本物らしく、誰も怪しまないなか、ひとり平蔵だけが独特の嗅覚で正体を察知。捕らえて、獄門送りにしています。
通常、盗賊の捕縛にあたっては、平蔵は部下の与力・同心たちを送り込みますが、例外もあります。例えば播磨屋吉右衛門の一件。吉右衛門は、北町奉行所のもとで働く岡っ引きでした。しかしてその実態は、裏社会の者どもを掌握する大悪人。奉行所は手を出せず、代わりに火付盗賊改方から与力・同心を召し取りに向かわせるも、なかなかしっぽをつかめません。
業を煮やした平蔵は、単身播磨屋に出向き、こう呼びかけました。
少々うけたまわりたきことがある。ちょっとこれへ出られよ。
吉右衛門は、まさか火付盗賊改方の頭が、直々に逮捕しにきたとは考えもしなかったのでしょう。逆に何か甘い汁が吸えるとでも思ったのか、のこのこ出てきたところを捕らえられました。
こうした快挙を積み重ね、世間の平蔵に対する評判は、とても色よいものとなりました。
夫婦喧嘩の仲裁までも
平蔵は、大捕物ばかりに注力しただけでなく、細かい犯罪の捜査にもよく関わりました。
例えば——―
無宿者の嘉七は、川越から江戸に出稼ぎに来たと偽って、飲食店で知り合った大工の長兵衛の長屋に泊まり込みます。長兵衛が仕事に出かけた日中、暇つぶしに押し入れを開けると、錠のかかったつづらがありました。
もしや金目のものでもしまってあるのか……
つい出来心で錠をこわして中を見ると、なんのことはない、蚊帳や布団綿といった日用品でした。
元に戻そうにも、錠をこわしてしまっては、それも無理。毒を食らわば皿までとばかりに、大風呂敷に包んで質入れしました。
嘉七は、質屋で得た2両ほどの金をすぐに使い果たしてしまい、空腹で行き倒れになるよりはと、地元の関東郡代伊奈陣屋へ自首します。
たまたまそこに、平蔵配下の同心が盗賊の捜査で来ており、嘉七はその一味ではないかと疑って、平蔵の役宅へと護送されてきました。
調べてみれば盗賊とは無関係と判明しますが、釈放するわけにもいきません。錠前破りは、『御定書百箇条』によれば死罪です。盗んだ中身はたいしたものではないといえ、杓子定規に法律を適用すれば、嘉七は首が飛ぶ運命にありました。
嘉七を仮牢に送った後、平蔵は思案します。
錠をこじあけたからといって、死罪はちと酷すぎる……
平蔵は、評定所へ伺いを立てます。
伺い書を審議した評定所は、平蔵の思惑も汲み、死罪ではなく「入れ墨の上、重敲(じゅうたたき)き」(重敲きとは鞭打ち100回の意味)と温情のある判決を下しました。
江戸庶民の平蔵の評価に、「長谷川さまの裁きは、手っ取り早く、いちいち合点がいく。それに人情裁きがいいねえ」というのがありました。平蔵も、その評価は聞き知っており、吟味の際は常にそのことを意識していたようです。
また、こんな逸話も。
平蔵が市中を巡回しているおり、とある長屋から、凄まじい剣幕の罵り合いが聞こえてきます。近隣の者に尋ねると、いつもの夫婦喧嘩とのこと。
平蔵は喧嘩の仲裁を買って出て、二人をおとなしくさせました。
その後も通りかかると、
どうだ。相変わらず派手にやっておるか
と声をかけるので、夫婦はすっかり諍いをする気も失せ、自然と元の鞘に収まったとか。
無宿対策として人足寄場を設立
平蔵の、いまひとつの業績として人足寄場の設立がありました。
これは、江戸に横溢する無宿者を収容し、手に職をつけさせ、犯罪予備軍からの脱却を目指す施設でした。老中松平定信の無宿対策案の要請に応えてのものです。
平蔵による人足寄場の建議は受け入れられ、石川大隅守の屋敷裏と佃島の間の干潟を埋め立てて造成されました。
1790年2月、最初の収容者が人足寄場に送られました。無宿や軽罪の者145人です。ここでの収容期間は3年。左官、鍛冶、紙漉きなど仕事を選ばせ、日々そのスキルを磨いてもらいます。成果物に対しては、原材料費などの経費を差し引いての売上金を支給しました。こうして得たお金が10貫文(かんもん)まで貯まれば、3年未満でも出所できるというルールがありました。10貫文は、現在の貨幣価値に換算すれば25万円ほどです。
定信の経済感覚の乏しさのせいか、幕府から人足寄場に投じられた運営資金は微々たるものでした。しかし、平蔵は私財をなげうってここを維持しました。彼には、無宿であっても自活できるようになれば、犯罪に手を染めることはないという信条がありました。
人足寄場は幕末まで存続し、明治時代に入ると石川島監獄に姿を変え、今はそれもなくなって超高層ビル街となっています。
宿願の栄進はかなわず
平蔵は9年間も火付盗賊改方の任にあたりましたが、これほど長い在任期間は異例のことです。それだけ重宝されたということもありますが、普通であれば数年で町奉行や遠国奉行に栄進となるはずです。平蔵も、それを強く望んでいました。
実際、北町奉行への役替えの話が、幕閣で議論されたことがあります。しかし、異論が出て風向きが変わり、大坂東町奉行の小田切直年に決まります。では、空席になった大坂東町奉行に滑り込むかと期待されましたが、これも流れました。
こうした話は一度や二度ではなかったようです。そのたびに立ち消えになるのは、平蔵を強く推す人がいなかったからです。もし定信が推挙すれば、一発で望みがかなったでしょう。彼は、人足寄場を設立した平蔵の仕事ぶりを、評価していたはずですから。しかし、田沼意次のやり方に染まった人間という、あらぬ疑念を完全に消し去ることはなかったようです。
北町奉行の件が流れた件では、平蔵は心底落胆しました。「おれも力がぬけはてた…酒ばかりを呑み死ぬであろう」という記録が残っているくらいですから、その心情はいかばかりかと察せられます。にもかかわらず、平蔵は本来の職務にそれまで以上に励みます。人足寄場の兼務を解かれ、火付盗賊改方専任となった年には、奉行所へ提出した罪人の「御仕置伺い」は26件でしたが、翌年には47件、翌々年には75件にまで増えました。
1795年4月、平蔵は不明の病に倒れました。時の将軍家斉から将軍家秘蔵の薬が届けられますが、その甲斐なく5月10日に逝去します。享年50歳。江戸の凶悪犯罪撲滅のために身を捧げた男のあっけない幕切れでしたが、その功績と魅力は『鬼平犯科帳』として現代人の心をもとらえて離さないものとなっています。
主要参考文献
『鬼平・長谷川平蔵の生涯』(重松一義著/新人物往来社)
『長谷川平蔵―その生涯と人足寄場』(滝川政次郎著/中央公論社)
『長谷川平蔵仕置帳』(今川徳三著/中央公論新社)
『「火附盗賊改」の正体―幕府と盗賊の三百年戦争』(丹野顯著/集英社)
『武士の評判記』(山本博文/新人物往来社