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2022.08.04

徳川四天王・榊原康政とは?生涯かけて家康を信奉した男を3分で解説

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一生、この人についていきたいと思える上司に出会えるってすごいことですよね。徳川四天王の一人、榊原康政(さかきばらやすまさ)にとって、徳川家康とはまさにそんな存在でした。

大河ドラマ『どうする家康』では、杉野遥亮(すぎのようすけ)が演じます。若くして立身出世を遂げた康政同様、杉野遥亮もこのドラマで大ブレイクの予感です。クールで寂しげな目元が印象的な彼は、康政役にぴったり! そんな康政の人物像に迫ります。

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徳川家康に見いだされ、武士の道に

康政は、1548(天文17)年、松平家の家臣、三河国(愛知県)上野城主・酒井忠尚(さかいただなお)に仕えた榊原長政(さかきばらながまさ)の次男として、上野城で生まれ、幼名を小平太と称しました。家康と康政は、1560(永禄3)年、家康が桶狭間の戦いで兵糧を入れた大高城から撤収した際に、立ち寄った大樹寺で出会います。

この時、康政は13歳とまだ若く、利発な雰囲気と整った容姿が評判の将来を有望された少年でした。家康は、一目見て気に入り、家康の小姓※となったと伝えられています。

※武将の身近に付き、雑用などを請け負う職種
何か光るものがあったんですね!この出会いは、ドラマチック!

初陣を勝利で飾り、家康の康の字を与えられる

桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ちとられると、家康は今川家の人質から解放され、岡崎城へ戻ります。そして西三河を平定し、勢力を広めていきました。しかし、松平家に反感を抱いていた土豪、農民、一向門徒たちによって引き起こされた1563(永禄6)年~1564(永禄7)年の三河一向一揆により、窮地に立たされます。

この時、造反する家臣が多い中、康政は家康側につき、上野の合戦で初陣を飾ります。ここでの活躍が認められ、家康の一字を賜わり、康政と名乗るようになりました。このことからも、家康にとって、康政は期待の星であり、身内に近い存在だったといえます。

家康は、辛い時期に支えてくれて、有り難いと思ったのでしょう。

戦乱の三河国に生まれた康政は、武士となる運命を背負っていた

衰退の一途をたどる今川家を尻目に、家康は三河統一へと突き進みます。1564(永禄7)年には、今川家が居城していた東三河の吉田城を攻め落とします。この時、旗頭を務めた酒井忠次(さかいただつぐ)の下、本多忠勝(ほんだただかつ)や鳥居元忠(とりいもとただ)らとともに、康政も旗本の先手役として活躍しました。

1570(元亀元)年の姉川の戦いでは、本多広孝(ほんだひろたか)とともに奮戦して朝倉勢を破り、1573年1月(元亀3年12月)の遠江(とおとうみ)での三方ヶ原の戦では、大敗するも、先鋒部隊として奮戦します。武田信玄の死後、武田勝頼(たけだかつより)率いる武田軍が、長篠城を取り返すために三河・遠江に出兵した時も、康政は遠州森郷で敵勢を打ち砕きます。1580(天正8)年の高天神城攻めにも参戦し、翌年、高天神城を陥落。こうして、数々の武功を上げた康政は、徳川軍の中心的人物へとのし上がっていきました。

ひるむことなく突き進む勇者!頼りになる存在ですね!

康政の運命を大きく変えた小牧・長久手の戦い

1582(天正10)年に起きた本能寺の変で、織田信長が自害後、明智光秀の攻撃を恐れた家康は、三河国へ命からがら逃げ帰ります。この家康の「伊賀越」に付き添っていた一人が、康政だといわれています。

これを機に、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は天下統一に向けて大きく動き出します。対抗した信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)は、家康と同盟を結び、1584(天正12)年に小牧・長久手の戦いを起こし、熾烈な争いを繰り広げました。この時に秀吉を挑発するような大胆な行動に出たのが康政です。低い身分から引き立ててくれた主君・信長の息子や家臣を倒すなど、秀吉は反逆者であり、天罰が下るといった内容の御触れを出したのです。そんな度胸のある策士の康政は、結果、秀吉にも認められていきます。

秀吉は、敵ながらあっぱれと思ったんだ!

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あの豊臣秀吉が激怒して懸賞金をかけた男!徳川四天王・榊原康政の「無」の境地とは?

関ヶ原の戦い後、勇退。天命を全うする

1590(天正18)年に秀吉が北条氏政(ほうじょううじまさ)、氏直(うじなお)を攻撃し、滅亡させた小田原征伐では、先鋒を命じられた家康に従い、康政も武功をあげます。その報酬として、康政は館林(群馬県)に10万石を賜わりました。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をあげ、江戸幕府を開きます。しかし、この頃になると、武功派である康政らと本多正信(ほんだまさのぶ)・正純(まさずみ)らの家康の側近である官僚派の対立が激化していきます。康政は、時代の移り変わりを感じ取り、自ら退く形となりました。

引き際も美しい!戦国武将に、こんな人もいたのですね。大河ドラマでは、どんな風に描かれるのかな?

1606(慶長11)年、康政は隠居した静かな生活の中、59歳でこの世を去りました。戦乱の世に生まれ、徳川家康に見いだされ、忠心を捧げた康政の一生は、まっすぐに伸びた大木のようでした。その清々しい生きざまは徳川四天王の中でも武勇と知将に優れた人物として語られています。

関連人物

徳川家康
・徳川四天王 酒井忠次
・徳川四天王 榊原康政
・徳川四天王 井伊直政
・徳川四天王 本多忠勝

アイキャッチ画像:森田亀太郎模写『榊原康政像(摸本)』出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

参考文献
デジタル版『日本大百科全書』
デジタル版『世界大百科事典』
デジタル版『国史大辞典』

▼子ども一緒に学ぶのにおすすめです!
戦国武将物語 徳川四天王 (講談社青い鳥文庫)

書いた人

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめ、有名な戦国武将が、愛知県をはじめ東海エリアから多数輩出されていることから、歴史の入り口は東海にあり!と勝手に燃えているにわか歴女。思い込みと圧が強いことから、高木編集長より「圧女くろりん」と命名される。しかし本人は、まじめに「目指せ!歴女への道」をスローガンに「歴女くろりん」と改名できるよう日々、精進中。

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幼少期より祖父と共に大河ドラマを見て育つ。毎回、感情移入しすぎるので、最終回と共にロスがひどいのが悩み。『どうする家康』を盛り上げるべく、くろりんと共に、トッキー&くろりんを結成。