現代でも「推しアイドル」のブロマイドは、ファンにとってお宝ですが、江戸時代も同様に、人気の遊女や歌舞伎役者の浮世絵を持つことは、庶民の憧れでした。なかでも役者本人の似顔絵を描いて一世を風靡したのが、今回紹介する勝川春章(かつかわしゅんしょう)です。あまり馴染みのない名前かもしれませんが、北斎の浮世絵の師匠であり、写楽の役者絵に影響を与えたといわれる人物です。
浮世絵の創始者、菱川師宣の流れをくむ宮川派に弟子入り
春章が生まれたとされる享保の時代(1716~36)は、戦国の憂き世は遠くなり、享楽的に生きる浮世となって、天下泰平が続いていました。町民たちにも、娯楽にお金を使うゆとりが生まれる中、当時、流行の最先端となって、人気を呼んだのが歌舞伎や遊郭でした。もともと絵画といえば、公家や大名などがお抱え絵師に障壁画や屏風絵などを描かせていた富裕層のものでしたが、絵師たちも庶民の風俗・風習に創作意欲を掻き立てられ、遊女の美人画や役者絵など、風俗画を描くようになりました。寛政年間(1789~1801)に大田南畝(おおたなんぽ)が原本を著した『浮世絵類考』には、
勝川春章、勝川春水門弟、人形町、明和のころの歌舞伎役者似顔絵名人、また勝宮川氏とも。
と書かれています。出自は明らかにはなっていませんが、享保11(1726)年頃に生まれ、江戸の日本橋田所町に住んだとされています。一説には、本名は藤原正輝で、通称は要助。号は春章の他、旭朗井(きょくろうせい)・李林(きりん)・酉爾(ゆうじ)・六々庵(ろくろくあん)などを使用していました。当時の浮世絵は、墨摺りの一枚絵や肉筆画だったため、高価な1点ものでした。これらの美人画を専門に描いたのが、浮世絵の創始者と言われている菱川師宣(ひしかわもろのぶ)※1や歌舞伎役者を描いた鳥居清信(とりいきよのぶ)※2でした。師宣が亡くなると、菱川派の流れを組む宮川長春(みやがわちょうしゅん)※3という美人画を描く絵師が登壇し、人気を得ていきます。この長春の門下であったのが勝川春水(かつかわしゅんすい)※4で、さらにその門弟が春章(長春の孫弟子)でした。
まるで忠臣蔵のよう? 勝川派の曰くつきの誕生ストーリー
寛延3(1750)年、長春が幕府のお抱え絵師であった稲荷橋狩野派(いなりばしかのうは)当主の春賀(しゅんが)に従い、日光東照宮の彩色修復事業の一部を請け負います。しかし、仕上がりが素晴らしいと評判を呼んだにも関わらず、いつまでたっても手間賃が払われません。これに痺れをきらした長春は、春賀の屋敷に出向き、支払いを催促したのです。当時、浮世絵師の身分が低かったこともあり、春賀の門人たちは「生意気だ」と、高齢の長春に暴行を加えたうえ、荒縄で縛り、ゴミ溜めに捨てるという暴挙に出ます。
息子や門人たちにかろうじて命を助けられた長春ですが、彼らの怒りは収まりません。狩野家に乗り込み、春賀らを殺してしまったのです。まるで忠臣蔵のようなお話ですが、絵師への支払いを着服していたことから、稲荷橋狩野家はお家断絶。事件を起こした長春の息子は自害、高弟の一人は伊豆新島に流され、長春自身も一時的に江戸を追放され、2年後に傷の悪化で亡くなってしまいました。江戸の噂になった宮川派の春水たちは、仕方なく勝宮川と画姓を変え、ひっそりと浮世絵師を続けていきます。しかし、画姓を勝川と変えて、勝川派を誕生させたことで、春章の似顔絵人気は高まっていきました。後に多くの浮世絵師を輩出する春章の浮世絵師人生は、このような波乱万丈のスタートだったのでした。
役者の似顔絵を描いて、大ヒット! 新たな役者絵の世界を切り開く
下積み時代も長く、23歳頃に宮川一門の不運な事件にも巻き込まれた春章でしたが、時代は彼に味方したようです。それまで墨一色だった浮世絵が、多版多色刷りの錦絵となり、急速に進歩していきます。それをいち早く取り入れたのが鈴木春信(すずきはるのぶ)※5 でした。春章もそれに続けと、技術を習得していきます。また、伝統的なお家芸として鳥居派が独占していた歌舞伎の看板や役者絵でしたが、役者の顔や動きが一律的、単調であったため、庶民はそれらを見て、役者の顔を想像するしかありませんでした。そこに宝暦13(1763)年、すい星のごとく現れたのが春章でした。37歳前後のことです。
彼の描く役者絵は、名前がなくともどの役者かわかり、庶民の心をつかんでいったのです。まさに今でいうプロマイドのようなもので、春章が役者の似顔絵という浮世絵の新境地を開くことになりました。これは役者にとっても、自分の人気を高めることのできる商品となっため、春章に依頼が増え、五世市川團十郎や三世瀬川菊之丞といった看板役者を次々と描いてきます。こうして春章は役者絵の第一人者となり、人気絵師の仲間入りを果たしたのでした。
歌舞伎の役者絵について詳しく知りたい方は、この記事をお読みください。
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浮世絵で美人画か歌舞伎の役者絵か見分けるポイント・特徴を解説
新たなジャンルを生み出した春章の相撲絵
もう一つ、春章の人気を不動のものとしたのが、「相撲絵」でした。相撲も歌舞伎同様、両国回向院などで開催されていた勧進相撲などが、庶民の娯楽となっていきます。土俵入りを楽しみにしている庶民にとって、より身近となった力士たちの似顔絵がこれまた大ヒット。天明年間(1781~89)以降、新たな浮世絵のジャンルとして確立されました。現代に使われる相撲絵のまさに原点を生み出したのが春章だといえます。
浮世絵界のスーパースター葛飾北斎が最初に師匠として仰いだ
安永7(1778)年、19歳の葛飾北斎が最初に弟子入りしたのが春章でした。北斎漫画などにも登場する力士の絵は、春章の影響が大きかったようです。勝川派の中でも、めきめきと頭角を表した北斎を春章は可愛がり、画号も勝川春朗(かつかわしゅんろう)として、『吉原細見(よしわらさいけん)』※6 の挿絵でプロデビューさせました。しかし、春章が亡くなると、兄弟弟子たちと折り合いの悪かった北斎は、勝川派を離れて独自の道を歩み始めます。その後、どの流派にも属さなかった北斎にとって、春章との出会いは、彼の浮世絵師人生の中でも大きな出来事だったのではないでしょうか。
絵本や春画、肉筆画も描くなど多彩な能力の持ち主
役者似顔絵の第一人者としての地位を確立した春章ですが、それ以前には、絵本の挿絵なども多数手がけていました。明和7(1770)年に、一筆斎文調(いっぴつさいぶんちょう)※7 と共に描いた「絵本舞台扇」は、1,000部を完売するベストセラーとなります。また、当時の浮世絵師が枕絵、いわゆる春画を描くことを仕事としていましたが、浮世絵では美人画を描かなかった春章も、春画では肉筆で上品な美人画を多数描き、その多彩な筆力には目を見張ります。春好や春英をはじめ、有名な浮世絵師が春章の元から誕生し、弟子たちも多くの素晴らしい浮世絵を残しました。それらがメトロポリタン美術館やボストン美術館に数多く収蔵されています。なぜ、これほどの絵師の名があまり知られることがなかったのか、不思議でしかたありません。時代が彼に追いつけなかったのか、早すぎた天才絵師は、浮世絵の黎明期を疾走し、寛政4(1792)年12月8日、67歳で絵師としての人生を終えたのでした。