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2024.03.27

花魁道中とは? 豪華絢爛な“疑似結婚式”が見せた、一夜の夢

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江戸時代、幕府公認として誕生した遊郭、吉原。ここは、江戸一番の享楽地であり、江戸文化にも大きな影響を与えました。その中心となるのが遊女です。一説には2000人~3000人もの遊女が、抱えられていたと言われています。この遊女の中でも美しさと知性を兼ね備えたのが「花魁(おいらん)」と呼ばれる上級遊女でした。そんな花魁たちの行った「花魁道中(おいらんどうちゅう)」について紹介します。

今でいえばテーマパークのパレード? 豪華絢爛な花魁道中

借金を抱え、苦界と呼ばれる閉ざされた世界で、ひと際華やかな光を浴びるのが、花魁が吉原を練り歩く「花魁道中」です。

これは花魁が新造(しんぞう)※1や禿(かむろ)※2、番頭や遣手(やりて)※3を従え、大行列をなして、客の待つ引手茶屋※4と妓楼を往復する習わしのようなものでした。

『古代江戸繪集』国立国会デジタルコレクションより
※1 禿を卒業した少女。まだ客はとらず、姉遊女から接客を学ぶ。※2 幼くして遊郭に売られた女の子。※3 妓楼で遊女を管理する監督役。※4 酒や食事を楽しみながら、お目当ての遊女を紹介してもらい、妓楼へと案内してもらう場所。高級遊女は引手茶屋を通さないと受け入れてもらえなかった。
当時の男性にとって憧れの場所だった吉原。でも気軽に行けた訳ではなくて、独自のルールや、間に立つ人も色々いたようです

性のエンターテインメント、吉原の遊郭。男性が遊女と遊ぶとき直接店に行かないメリットとは?

一世一代の疑似結婚式?

現代であればトップスターのような花魁を連れて、妓楼へと向かう様は男性にとって、一世一代の大イベントでもあり、結婚式のようでもありました。これが噂となり、一目この花魁の姿を見たいと、町民たちが吉原見物に訪れるようになります。

『吾妻源氏雪月花ノ内』豊国 国立国会デジタルコレクションより
さぞかし夢のような豪華さだったことでしょうね!でも、こんな花魁道中ができるのは、選ばれたわずかな遊女だけだったようで……。

花魁道中を踏める遊女はほんのひと握り。吉原版出世コースに乗るにはアレとコレが重要!

宝暦期(1751~1764)には、特定の日に行うパレードのようなものとなり、仲の町のメインストリートを絢爛豪華な衣装と派手なパフォーマンスで吉原を練り歩く「花魁ショー」のような興行へと移り変わっていきました。

江戸文化の華として、文学や舞台にも描かれた花魁道中

花魁が髪にたくさんの飾りをつけ、煌びやかな衣装を重ね、三枚歯の塗り下駄、外八文字(そとはちもんじ)と呼ばれる内から外へ足を開く歩く姿は、吉原特有の文化を生み出し、小説や映画、舞台などでも描かれるようになります。また、3月1日には、桜を植え、大きな木の下に山吹を添え、垣根をめぐらすなど、壮大な演出が行われ、桜舞い散る中、美しい花魁との競演を楽しみました。儚く散る桜は、まさに一夜の夢である吉原の姿を映し出していたのではないでしょうか。

二代目歌川広重「東都三十六景 吉原仲之町」 国立国会図書館デジタルコレクション
人をアッと言わせるような、様々な仕掛けも行っていたようです。夢の世界を演出していたのですね!


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参考文献:図説 吉原事典 永井義男著 朝日新聞出版、日本国語大辞典(小学館)、日本大百科全書(小学館)

アイキャッチ画像:吉原中之町桜の日(吉原中之町桜の門日)「江戸名所」シリーズより 歌川広重 シカゴ美術館より 

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旅行業から編集プロダクションへ転職。その後フリーランスとなり、旅、カルチャー、食などをフィールドに。最近では家庭菜園と城巡りにはまっている。寅さんのように旅をしながら生きられたら最高だと思う、根っからの自由人。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。