なんら変わらぬフツーの石段である。
こう言っちゃなんだが、正直、どこにでもあるような石段だ。
だが、この石段を間近で見れば。
そして、その意外な来歴を知れば。
自ずと目が離せなくなる。
訪れたのは、長崎駅より徒歩15分ほどの場所にある「長崎歴史文化博物館」。
はて。
一体、どうして。
長崎歴史文化博物館の「石段」に、そこまで目を奪われているのか。
「ここ! ここまでです!」
案内していただいた学芸員の方の声が飛ぶ。
「実寸の石段はここまで。この下が今、駐車場になってるんで、実際より1.5mぐらい建物を嵩上げしているような状況なんですよ。本来の(石段の)高さは色が違うところまでです」
確かに、石段の色が違う。
上から数えて4段目までは白いが、そこから下の石段は黒い。遠目から見れば、尚更だ。
彼が指し示した石段を見て、また1つため息が漏れる。
(※2025年3月まで一部工事中ですが、内部の見学は可能です)
じつは、あまり知られていないのだが。
コチラの長崎歴史文化博物館、なんでも江戸時代から近代にかけての海外交流に関する資料が充実しているとか。
それだけではない。
なんと、歴史的建造物の一部が原寸大で復元されているというのである。
その建造物とは……。
江戸時代の幕府組織の1つ「長崎奉行」。
天領(幕府の直轄地)の長崎に置かれ、行政のみならず、裁判所、警察、そして貿易の統括までも担っていたスーパーな役職だ。その執務が実際行われた「長崎奉行所立山役所」が復元されているのである。
先ほどご紹介した石段の一部は、発掘調査で実際に発見された石段である。学芸員の方に教えていただいた通り、上から数えて4段、その下の黒い部分の石段が350年ほど前に実在した石段だ。そんな実際の遺構を使用しての復元というワケである。
ということで。
今回の記事のテーマは、コチラの「長崎奉行所」である。
役割や機能はもちろん、その復元の経緯、そして現代に甦った「長崎奉行所立山役所」も併せてご紹介する。
それでは早速、あなたの知らない「長崎奉行所」の世界へとお連れしよう。
※本記事の写真はすべて長崎歴史文化博物館の許可を得て撮影しています
「長崎奉行所立山役所」が復元されるまで
「元々、ここには美術館と博物館が一緒になった施設(旧長崎県立美術博物館)があったわけですが、それぞれ独立して美術館と博物館を造るということになって。その歴史の部門(博物館)をこの場所に建てると。それが現在の長崎歴史文化博物館です。ここに『長崎奉行所』があったっていうのは、以前から分かっていました」
こう話すのは、長崎歴史文化博物館の学芸員、吉田信也氏だ。
そもそも長崎奉行所の前身ができたのは、意外にも江戸時代前のこと。豊臣秀吉が未だ天下人だった時代である。
文禄元(1592)年、秀吉より任命された寺澤廣高(てらさわひろたか)が家臣を派遣し、本博多町(もとはかたまち、現在の万才町)に設置したのが始まりだ。
その後、寛永10(1633)年、長崎奉行による抜荷(ぬけに、密貿易)が発覚。以降、長崎奉行は原則2人体制(もしくは複数人の体制)へと変更。同時に執務に当たることができるよう、奉行所内に2つの役所が設置された。当時の両役所は隣接し、それぞれ「東役所」「西役所」と呼ばれていたという。
ただ、同年、火災により2つの役所が焼失。
長崎港を一望できる外浦町(ほかうらまち、現在の江戸町)に再建されるも、その30年後。寛文3(1663)年の「寛文の大火」でまたもや焼失。今度は敷地を拡大して再建された。ちなみにコチラの場所は、移転前の長崎県庁があったところである(長崎県庁跡地)。
その後、寛文11(1671)年。
何度も焼失の憂き目に遭った経験をいかし、類焼防止のために「東役所」の場所を変えることに。その場所こそ、現在の長崎歴史文化博物館の建つこの地である。延宝元(1673)年に完成した役所は、「立山」という地名から「長崎奉行所立山役所」と呼ばれるようになったという。
立山役所の規模は3278.5坪。その敷地面積はおよそ1万㎡である。
西役所と比較すると約2倍の面積を持ち、非常に広い。
また、西役所は以降も幾度か火災に遭っているが、立山役所は資料で見る限り火事に見舞われたことはないという。
そんな立山役所だが、内部は「公邸エリア」と「私邸エリア」の2つに大きく分けることができる。
歴代の長崎奉行は仕事場であるコチラの役所に住んでいた。そのため、必然的に「私邸エリア」が存在することになるのである。
今回、復元されているのは立山役所の「公邸エリア」の部分である。
ちなみに、私邸エリアに当たる部分は、屋内展示室となっている。
ここでは、発掘出土品や奉行に関する書状、犯科帳など、約2ヵ月毎に内容を入れ替えて展示されている。
「発掘調査は急ピッチで行われ、平成14(2002)年から平成16(2004)年の間で調査して。もう平成17(2005)年には当館が開館していますから。(発掘調査の期間は)約3年ですね」と吉田氏。
長崎奉行所立山役所に関する文献資料はあったのだが、なんせ主だった遺構は残っていない。そこで、3年をかけて大規模な発掘調査が行われた。
その範囲は、立山役所跡を中心に隣の炉粕町(ろかすまち)まで広げられたという。
こうして発見されたのが、冒頭でご紹介したあの石段だ。
なんといっても、当時の石段がそのまま発見された功績は非常に大きいといえるだろう。というのも、残っている絵図面や古写真など資料とつき合わせれば、その建物の実寸が計算できるからだ。
実際の作業はというと。
平面図から立面図に書き起こし、さらに模型化まで行われた。高精度な距離測定が可能なステレオカメラで撮影し、その画像と重ね、実際の長さを割り出したという。残された絵図類や文献、古写真のみならず、今回の発掘調査で発見された遺構や出土品などから、丁寧に時代考証を進め、復元作業を行ったのである。
なお、長崎歴史文化博物館内には、こうした地道な発掘調査により出土した様々な品が展示されている。
中国景徳鎮産の西洋食器や、伊万里焼の食器、ドイツのライン地方で作られた焼き物やオランダ産のワインボトル。
これらの出土品から、当時の長崎が非常に国際色豊かな都市だったことが分かる。
他にも、注目すべき出土品がある。「瓦」だ。
文献によると、長崎奉行所立山役所の正門及び長屋の建材は,改築中であった熊本県天草の「富岡城」のものが利用されたとある。そして、発掘調査で実際に発見された瓦は、まさに文献通り。富岡城の瓦と一致したのである。文献の正しさが証明されたといえるだろう。
また、出土品の中には、神社関連のものもある。
展示室入口付近に設置された竿石(さおいし)。石灯籠(いしとうろう)の柱となる部分である。
よく見ると、確かに「奉獻 石灯籠」という文字が見える。
レプリカだろうと思っていたが、聞けば本物の出土品だという。
「お稲荷さんがあったので、石灯籠の一部が、こうやっていっぱい出てきてるわけですね。『松平図書頭(まつだいらずしょのかみ)家中』とか。家中は家臣一同という感じで。『遠山左衛門尉(とおやまさえもんのじょう)家中』とか。この人はあの遠山の金さんのお父さんですね」
多くの長崎奉行らが、この長崎の地に派遣された。
石灯籠1つとっても、彼らの痕跡をたどることができる。
そんな長崎奉行所立山役所だが、その終焉はあっけないものであった。
大政奉還(江戸幕府15代将軍徳川慶喜の政権返上)がなされた翌年のこと。「鳥羽伏見の戦い」が始まってその数日後。慶応4(1868)年1月15日未明である。最後の長崎奉行である「河津伊豆守佑邦(かわづいずのかみすけくに)」が異国船で江戸に引き揚げたのを最後に、立山役所はその役割を失うことになる。
そして、同じ場所で「立山役所」として復元されるまで。
暫し時間を要することになるのである。
オールインワン機能を持つ長崎奉行所
さて、ここまで「長崎奉行所」の変遷の話をしてきたが。
今更ながら。
そもそも「長崎奉行」とはなんぞやと疑問を持たれた方もいるだろう。
先ほど軽く触れたが、「長崎奉行」とは役職の名前だ。
じつに江戸幕府は、幕府直轄地のうち重要な地域に中央からの官僚を配置した。これらを総じて「遠国奉行(おんごくぶぎょう)」という。例えば、佐渡の金山の監督には「佐渡奉行」、奈良の寺社の監督には「奈良奉行」、伊勢神宮周辺には「山田奉行」など。そして「長崎奉行」もその1つ。組織図の中では、江戸幕府の「老中(常置された機関の中では最高職で、政務一切を統括する)」に属することになる。
そんな「長崎奉行」について調べると。
まず驚いたのが、歴代の人数だ。
数えれば、なんと127代にもなるというではないか(諸説あり、長崎歴史文化博物館の展示による)。
江戸幕府の将軍でさえ、わずか15代。それなのに、長崎奉行は桁が1つ多いのだ。
ただ、コチラの数字は、初代長崎奉行を誰にするか、その数え方で前後する。どうやら江戸幕府以前も含めれば、この数字に近い人数になるようだ。
いやいや、それにしても127代って。かなり多くないか。
「長崎奉行は時期によって人数が違うんですけども。大体2人同時、3人、4人が一緒になってたりとか、色々あって。まあ、相撲の行司とか、横綱もそうだけど。何代って数えるのはあくまでも就任した順番で、同時に2人いる時期もありますよね。そういう感じです」と吉田氏。
なるほど。2人、3人と長崎奉行が同時に就任するのであれば、納得である。
それでも「長崎奉行」を順次追っていく作業は大変だ。まさしくライター泣かせとはこのこと。任期もまちまちで一定ではないし、複数人の体制の場合、長崎在勤と江戸在府に分かれたりもするので、とにかくややこしい。なお、年代によって一概には言えないが、一般的には長崎在勤と江戸在府の長崎奉行はそれぞれ毎年9月に長崎で交代していたようだ。
長崎奉行の多くは、旗本(将軍直属の家臣団で、知行高が1万石未満)、それも将軍に謁見できる「御目見(おめみえ)」が許された上級旗本から選任された。だが、江戸時代後期になると、実力による登用も行われていたようだ。実際、石高の少ない小身の旗本からも選任されている。
任期は平均して4~5年。最長は15年。逆に最短は7日。「最後の函館奉行」と称される杉浦勝静(杉浦梅潭、ばいたん)が最短の長崎奉行という記録がある。
ちなみに、就任当初の年齢もバラバラだ。
様々な役職を経験して長崎奉行となる場合も、逆に若くしてという場合もあるとか。年齢不詳の人たちを除くと、40代が一番多いという。長崎文化歴史博物館の展示によると、20代は2人、70代は1人。どうにも幅がありすぎる。
「名誉職っていう言い方はちょっと違うんですけど、エリートコースの一部とは言えますね」と吉田氏。
それもそうだろう。
長崎奉行に就任する前後の役職をみると、前職は「目付(めつけ、旗本や御家人の監察)」が一番多い。後職についてはそれほど特徴はないが、なかには「大目付」や「江戸町奉行」など大出世した人もいたという。
さらに、である。
本田貞勝著『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を探す旅』には、非常に気になる一文がある。
「長崎奉行になれば儲かって一生暮らしていける、という話は最早長崎の伝説となっている」
(本田貞勝著『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を探す旅』より一部抜粋)
長崎奉行が儲かるって?
一体、長崎奉行のサラリーはどのくらいだったのか。
先ほどご紹介した書籍を参考にすると、長崎奉行の場合、標準の石高は1000石。それに加えて寛永16(1639)年であれば、役料として2人体制で米2000俵、3、4人体制で米3000俵の支給があったとか。ただ、年代によって役料は大きく変わり、例えば嘉永元(1848)年頃には、役料が米4400俵となっていたりもする。
さらに、役料以外の諸々の収入源も見逃せない。
彼らには、唐や阿蘭陀(オランダ)の人たちが輸入した物品を原価で買い上げる特権があった。確かに、これを転売すれば荒稼ぎできるだろう。他にも唐や阿蘭陀の船からの礼物、九州各藩からの付け届けなど、全員とは言わないが役料以外の特権にオイシイ思いをした長崎奉行も多かったと予測できる。現代の貨幣に換算するのは難しいが、役料や諸々の特権を合せると優に1億円は超えるだろう。
ただ、そんなうまい話には裏がある。
じつに、長崎奉行の任務は過酷。
一般的には、長崎の貿易、外交、司法、警察、町方行政、経理、地役人人事など。その業務は多岐にわたる。加えて、幕府が禁教令や鎖国政策を打ち出してからは、キリシタンの取締まり、異国船警備、抜荷(密貿易)の取締り、さらには西国大名への指揮監察権も強化された。サラリーと同等、もしくはそれ以上に多くの重要な任務が課され、「長崎」という地の特殊性ゆえに、その重要度が増していったのである。
そんな重要な職務を全うできず、なかには自責により切腹した長崎奉行も。
一概に「役得」とは言い切れない、複雑な状況もあったようだ。
復元された「長崎奉行所立山役所」をいざ公開
さて、ここからは、ようやくの本題である。
「長崎奉行所立山役所」の建物について話を進めよう。
当時の立山役所は、大きく5つのエリアに分けられていた。
役所入口。こちらは冒頭でもご紹介した通りだが、のちほど再度触れることにする。
そして執務を行う「公邸エリア」と、長崎奉行の住居となる「私邸エリア」。
当時は、長崎奉行の家臣らおよそ10名、その他併せて総勢50名ほどが勤務していたという。
さらには、付帯施設として、長屋や土蔵、井戸などがあったとか。なかでも、宗門蔵(しゅうもんぐら)には、取り締まりにより没収された数々のキリシタン関連品が収納されていたという。他にも、2箇所の稲荷社、馬術の練習をする馬場なども置かれていたようだ。
それでは、いよいよ復元された「長崎奉行所立山役所」の内部をチラッとご紹介しよう。
あえて予告編程度で。
もちろん、詳細まで踏み込むことはしない。実際に足を運んでいただきたいからだ。
まずは、公邸エリアの内部から。
「正面玄関自体は、よほど高位の方が来ないと使わない。普段は閉めてるみたいな感じですよね。それは藩邸の場合でも同じです」と吉田氏。
入ってすぐ左手、玄関からは正面の位置に大きな床の間が見える。
文献では、当時、コチラの床の間には大筒(大砲のこと)が飾られていたとされている。
立山役所全体の照明は落とされ、内部は非常に薄暗い。
画像では明るく感じるだろうが、それは画像調整を行っているからである。当時は恐らく行灯(あんどん)で灯りを取っていただろうし、かなり日中の天気が左右していたはずだ。当時を思えば、まさしくそれがリアルな状況だろう。
天井は意外に高く、風通しは良さそうだ。その反面、真冬は厳しい寒さに耐え忍ぶ必要がある。実際、私も分厚いコートを着ていたが、足元の底冷えにはかなり参った。あえて当時と変わらない環境づくりが徹底されており、タイムスリップしたような気分が味わえる。
面会の控室となる「使者之間」を抜けて左に折れると、メインの「対面所」が見えてきた。
対面所は、長崎奉行とオランダ商館長(カピタン)との謁見や、船で運ばれた貿易品を実際の記録とつき合わせて調べる「大改め」などが行われた部屋である。
ちなみに、当時の絵図や文献を参考に、襖(ふすま)は7枚貼り合わせた「七重貼り」で、その模様まで再現されているというから恐れ入る。
なお、コチラの対面室だが、「大改め」の様子が再現されている。当時は、まさに様々な異国の品がこうして並べられていたのだろう。正直、圧倒される。
長崎奉行がどれほど重要な職務を担っていたかを改めて実感することができる。
次に、対面所の右手、縁側の方にあるのが「お白洲(しらす)」だ。
現在でいうところの裁判を行う「法廷」である。
縁側や塀、砂利敷など、コチラもやはり当時の絵図を参考に正確に復元されているという。
当時の判例集である「犯科帳(はんかちょう)」を予め読んでいたからか、様々な事件がこの場所で裁かれていたのだと思うと、なんとも不思議な感覚を覚える。一般的に有名なのは「シーボルト事件」だろう。帰国の際に日本地図等の禁制品を持ち出そうとしたドイツ人医師のシーボルト。最終的には国外追放となった、あの「シーボルト事件」も、この長崎奉行所立山役所のお白洲で裁かれたとされている。
対面所を抜けてさらに奥に進むと、こじんまりとした部屋がある。
「書院」、いわゆる応接間である。
なんでも長崎奉行の元へと挨拶に来た藩主などを接待する部屋だったという。
なるほど。
応接間というだけあって、ちょっとゴージャスだ。
真っ黒な釘隠しも、この部屋だけは金で囲われた造りとなっており、高級感が醸し出されている。
なお、正確性を追求し、池に張り出した厠(かわや、便所)、そして便器までも当時の様子を再現したそうだ。
お次は、靴を履いて立山役所の外へ。
それにしても、つくづく整備された良い施設である。
屋根付きの回廊で天候に左右されず、ゆっくりと見学できるのも非常に有難い。
最後に残しておいた、マストな見学場所。
それが、立山役所の顔となる「正門」である。
じつは、正門はあまり使用されなかったようだ。
公式な訪問などの際に限定して使用され、通常は専ら西側にある通用門を使っていたという。
その正門に続く石段は、冒頭でご紹介した通りである。
表面が風化し凹凸のある石段は、当時のホンモノの石段。一方、表面がツルッとして綺麗な石段は復元工事で新しく投入されたモノである。
それにしても、感慨深い。
なんせ長崎という土地柄、外国との窓口となることも多かった。文化元(1804)年にロシア使節レザノフが日本との通商を求め長崎港に入港した際に、この長崎奉行所立山役所で面会。レザノフ一行はコチラの正門を通過している。
レザノフに全く思い入れはないのだが、彼が踏みしめた石段が甦り、同じ場所に立っているというだけで、思わずため息がでる。歴史を肌で感じるとは、こういうコトを言うのだろう。同じ風景を見ていたであろう、そんな愉快な想像をしてしまう。
他にも、発掘調査により様々な事実が判明している。
正門の石段の東側に大きな木の切り株が発見された。どうやら、当時は用水池があり、クスノキがあったとか。復元にあたってもその場所付近に木を植えている。
出土した石垣も、そのまま使用。
追加で積み上げられた石とは、一目瞭然。かなり色合いが違う。
「お城の石垣とかもそうなんですけど、横長の平たい石ですね。こういった形の石は天端(てんば)の石って言って、石垣の一番上に使うんですね」と吉田氏。
石垣を観察すると。
確かに、4つ並んだ平たい石が別の石と区別できる。つまり、その高さが本来の石垣の高さなのだろう。復元に際しては、正門の下に駐車場スペースを確保したため、その分、全体が1.5mほど嵩上げされているのだとか。
こうして、復元された「長崎奉行立山役所」全体を回って取材が終了した。
駆け足でご紹介したが、とにかく復元された立山役所の見どころは満載。
見学の際は、遺構を探すという見方も面白いだろう。
今回は予告編ということだが。
やはりご自身の目で、耳で。そして、心で。
復元された「長崎奉行所立山役所」を丸ごと感じていただきたい。
取材後記
じつは、令和7(2025)年の11月でちょうど20周年を迎えるという「長崎歴史文化博物館」。今年が節目の年である。
「実際に博物館なのか観光施設なのかって、設立した当初も色々あったんですけど。やっぱりせっかく復元整備したんだから、より多くの方に来てもらいたいですね」
こう語るのは、広報・企画グループリーダーの松尾純也氏だ。
10年ほど前、大河ドラマで坂本龍馬を取り上げた年は、年間でおよそ100万人の来館者がいたという。だが、近年はそこまで伸びることもあまりない。
正直、驚いた。
これほどの施設である。長崎に来られる観光客はもちろん、歴史や建築に興味のある方など、様々なジャンルに刺さると思っていた。
「1回ですね。映画のロケハンが来たことあるんですけど、その当時は(施設が)まだ新しかったんですよね。古さを出すために色々やっていいかって。いや、ちょっと……みたいなところがありまして。でも、あの映画でここが出てれば、もっとね、色んな人に、長崎には奉行所が復元されたところがあるって知られたかもしれないですけど」と松尾氏。
そんな憂いを帯びた表情を見て、確かにと力強く頷いた。
細部にまでこだわった立山役所。その完成度は予想を遥かに超えている。どうせなら1人でも多くの人に見てもらいたい。一度見学した私でさえ、そう思うのだ。企画段階から携わったのであれば、尚更だろう。
松尾氏の言葉が全てを物語る。
「一部ですが、元々あった場所に復元されてるのが、すごい大事なことなんじゃないかなって、個人的には思うんです」
考えてみれば。
数多くの復元施設はあれど。
実際に存在した場所で、それも実際の遺構を使用してという復元は、そう多くはない。
それは、なかなか奇跡に近いことである。
この場所に他に建物がなく、さらに使用できるほどに多くの遺構も発見された。実寸も把握でき、予算も確保できた。偶然にも諸条件が重なって「長崎奉行所立山役所」の復元が見事完成したのである。
だから、大袈裟かもしれないが。
何ら変わらぬ石段でさえも。
ただ、その場に立つだけで。
踏みしめるだけで、心躍るのだ。
日々の喧騒から抜け出して。
歴史の教科書に迷い込んだような感覚を味わえる特別な場所。
わずかな時間でもいい。
一度足を運んでみてはいかがだろうか。
非日常の空間は、いつでもあなたを待っている。
撮影:大村健太
参考文献
森永種夫著 「犯科帳」 岩波書店 1962年1月
長崎県教育委員会 『長崎奉行所(立山役所)跡』長崎県文化財調査報告書146 1998年
本田貞勝 著 「長崎奉行物語 サムライ官僚群像を探す旅」 雄山閣 2015年1月
基本情報
名称:長崎歴史文化博物館
住所:長崎市立山1丁目1番1号
公式webサイト:http://www.nmhc.jp/