現在、NHKで放送中の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、狂歌に熱狂する江戸の様子が描かれています。武士も版元も妓楼主も花魁も狂歌に興じる姿は、身分制度の厳しかった江戸の一筋の光のようにも感じます。
そもそも狂歌って何?
とはいえ、現代では、短歌や俳句に親しむ人はあれど、狂歌を詠んでいる人って聞かないですよね。そもそも狂歌って何?って思われる人も多いと思います。「歌」とつくように、五七五七七という和歌の形式を踏まえて詠まれているもので、古典の和歌をパロディ化したり、時世を揶揄したり、機知にとんだ言葉を折り込んだりするなど、言葉遊びを楽しむ瞬間芸のようなものでした。滑稽さを競いあう、その場限りのおかしみを無礼講で楽しんでいたのです。
この江戸狂歌を牽引していたのが、武家出身の戯作者・太田南畝(おおたなんぽ)、狂名を四方赤良(よものあから)としていました。
ドラマでは明るくひょうきんな姿を桐谷健太さんが熱演しています。
鬱憤は“屁”で吹き飛ばせ! 狂歌師・大田南畝の「めでたし」人物像
当時、漢詩や和歌を学ぶのは、武士の嗜みの一つでありました。しかし、泰平が続き、下級武士たちにとって、大したお役目もなく、収入もままならず、暇を持て余す中、たまる鬱憤を晴らすかのごとく、得ていた知識や教養を生かして、狂歌を詠むようになったのです。そのため、狂歌を詠む際には、実名ではなく、狂名を名乗っていました。次第にそれらが庶民にも広がり、みなユニークな狂名で狂歌を詠みあっていました。
古くは『万葉集』や『古今和歌集』にも登場していた!
古来、貴族や僧侶など高貴な人々が趣味、教養として、漢詩を嗜んでいましたが、そこから派生したのが和歌や俳諧です。俳諧はもともと中国では、「滑稽」と同じ意味で用いられた言葉だったのだとか。また、古今和歌集の巻第19には、58首の和歌が『俳諧歌』として選定されていますが、自然を詠み込んだ四季や恋を贈答歌や哀傷歌として詠んだ和歌ほど評価されず、一部の人たちが楽しむだけのものとなっていたのです。
京都で火がつき、大坂で流行り、江戸で開花した狂歌
戦国時代も末期になると〈俳諧之連歌〉がしだいに盛んになります。なかでも、戦国武将であり、茶道や歌道にも通じていた細川幽斎 (ゆうさい) が詠んだことで知られています。この「狂歌」の源流ともいえる歌が、門下にいた宮廷人や高僧など京都の上層階級の人々の間で浸透し始めます。しかし、京都を中心とした歌は、江戸狂歌のようなパロディや世間に物申すものではなく、古典をなぞらえた風流なものが中心でした。大坂では、大衆文化として、浪花 (なにわ) 狂歌も誕生しますが、古典の教養に乏しい大衆に狂歌は難易度が高く、風俗的な歌となっていきます。この浪花狂歌は名古屋や広島など、各地に広がりましたが、江戸では風土の違いから受け入れられなかったようです。
江戸の知識階級が流行らせた江戸狂歌
江戸では、若い幕臣知識層を中心に狂歌の会が催され、地域ごとに「連」と呼ばれる狂歌のサロンが作られるようになります。すでに有名となっていた赤良のほか、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)が中心となり、平秩東作(へずつとうさく)や元の木網(もとのもくあみ)などの町人も参加。1783年(天明3)に橘洲が『狂歌若葉集』、赤良が『万載(まんざい)狂歌集』と、それぞれ狂歌撰集(せんしゅう)を出版し、天明年間を中心に狂歌の大ブームとなります。これらは蔦重などの版元から出版されました。
天明狂歌は時代が欲した?その後の文学にも影響を与える
現代において、世の中を皮肉ったり、滑稽なものを詠むといえば川柳です。川柳が登場するのは江戸中期、柄井八右衛門 (からいはちえもん)が、『川柳評万句合 (ひょうまんくあわせ) 』といった選句をまとめたものを発刊します。1765年(明和2)に発行された『柳多留 (やなぎだる) 』は、七七の前句を除き、五七五の付句だけのわかりやすいものを抜粋しました。これが人気を呼び、一気に市民に広がったのです。これらの影響で、皮肉やおかしみを詠んだ付句の部分が、川柳と呼ばれるようになり、現代にまで続いているのです。
今でいうSNSのつぶやきが狂歌であり、川柳
狂歌も川柳も、日常の不満やおかしみをバカバカしく笑い飛ばそうというもの。現代でいうSNSと似ています。先見の明のあった蔦重は、狂歌の指南書や狂歌絵本を発行し、版元としての地位を確立していきます。蔦重の発展に狂歌あり。そんな視点でドラマを楽しんでみてはいかがでしょう?
参考文献『詩歌とイメージ』中野三敏 監修 河野実 編 『江戸の文人サロン』揖斐高著 吉川弘文館 『世界大百科事典』『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
アイキャッチ画像:『潮干のつと』あけら菅江 [編] 喜多川歌麿 [画] 耕書堂蔦屋重三郎 版元 出典:国立国会図書館所蔵

