あるときは屋敷で、あるときは路上で、またあるときは川べりで、目を覆いたくなるような情景が目撃された。今回紹介するのは、おぞましい死の場面の数々。現代では考えられないような奇想天外な死体列伝をご紹介しよう。
水に流される死体
江戸の庶民にとって死は日常だった。そして死体も、今より身近なものだった。なかでも、もっとも見慣れた死体はおそらく水死体だったかもしれない。
弘前藩が宝暦九年に町奉行に申し渡した変死人処理の心得、というのがある。これによると「水溺死」は七種類挙げられた変死人の第一に挙げられている。そのくらい水死体は日常的だった。
水死体といっても水葬や入水自殺などいろいろだ。そして死んでいった者たちは、いろいろな事情によって水上を彷徨っていたのである。
水中に投げ捨てられた女
天保十年、江戸小日向の上水に首なしの女の死体が浮いていた。
死体の身元も、死んだ理由も判明している。彼女は今井駒次郎という浪人の妻だった。夫の浮気が発覚したことから別れ話になり、百五十両払うから離縁してほしいという夫の申し出を拒否した彼女は、その後、夫の手で喉を突かれて、首を掻き切られ、水中に投げ捨てられたのだ。

それから五年後。弘化二年に、深川の扇橋の川岸にべつの女の屍が流れついている。彼女は土屋家の隠居に仕える女中だった。婿養子の隠居は彼女と秘密の関係を結んでいたようで、それを知った奥方が恨みの末に、殺害。なんと死骸を屋敷の水門から外へと流したのである。
戸板に打ち付けられた男女

江戸時代の水死体の目撃情報はいくらでもある。
嘉永二年、盆の暮れのこと。隅田川の下流に男女の体が打ち付けられた戸板が流れているのが目撃された。体、といっても男のほうは首だけだったが。女はというと、まだ生きていて「助けて」と繰り返し叫んでいた。
生きたまま流されたのだ。いっそのこと一思いに殺されたほうが良かった、と女は水の上をたゆたいながら思ったにちがいない。いや、首だけになって川を流されるほうが残酷かもしれない。それにしても、男の残りの体はどこへ行ったのだろう。私が目撃者だったら、まず不幸な男の首から下を危惧するだろう。
それにしても、文献を読んでいるとこの時代の男女は痴情のもつれの末にしょっちゅう川に流されている。この二人もきっと痴情のもつれで川に流されたにちがいない。今日の感覚ではにわかに信じがたいけれど、江戸時代の文献や記録には同じような記事がけっこう登場する。
宮武外骨の『私刑類纂』には、大阪の天保山沖を男の首と女を乗せた箱船が漂っていたという事件が記録されているし(安政四年)、朝日重章『鸚鵡籠中記』には伊勢方面から熱田に流れ着いた船の中で、坊主の首と共に美しい宮女が目撃されている(元禄十二年)。詳細は記されていないが、坊主の首と美しい宮女という組み合わせはドラマチックな展開を予感せずにはいられない。
歌う死刑囚
今となっては臨終の場面を目にすることはそうないが、かつて御仕置(処刑)は見世物のひとつだった。無名の罪人ですら見物客を集めた時代である。世間を騒がせた人気者ともなれば、その賑わいたるや想像にかたくない。そんな人びとが心待ちにする異様なイベントで芝居っ気たっぷりに死んでいった人物がいる。
男の名は、神出鬼没の盗賊鬼坊主清吉。文化二年の六月二十六日、小塚原の刑場にはたくさんの人が集まった。その日、清吉は同じ日に処刑される二人と一緒に江戸市中を引廻された際に、見物人たちに聞こえるように大声ではっきりと狂歌を詠み、見物に訪れた人びとを魅了したという。
「武蔵野に色もはびこりし鬼あざみ けふの暑さにやかてしほるゝ」
なかなかの作品である。
いつか来る最後の日のために辞世の句をせっせと用意しておいたのだろうか。それとも江戸市中を引廻されながら思いついたのか。あるいは、もともと文才があったのか。だとしたら盗賊などせずに、おのれの罪深さを噛みしめるように切々と歌っていればよかったものを。
生涯最後の、自分が主役の舞台だ。もしかすると大盗賊としてのプライドが辛気臭い幕引きを許さなかったのかもしれない。ところで、清吉の歌は見物人の心を打ったかもしれないが、その出来栄えに関係なく予定通り処刑されている。
二人仲良くつるべ心中
異常な死の舞台は、刑場や水辺だけではない。死ぬ気さえあれば、人はどこでだって、どんなふうにだって死ぬことができるものである。たとえば、首吊死体がそれだ。
弘前藩が変死体を記録した三種の帳面が残されている。
「首縊帳」「自害帳」「倒者腸」というのがそれで、自害(自殺)と倒者(行き倒れ死体)はさておき、本来なら自害として扱われてもおかしくない首吊死体がべつに作成されているのは、どういうわけだろう。
おそらく当時は、それほどまでに縊死死体は見慣れた屍だったのだ。江戸後期の随筆家、三好想山の『想山著聞奇集』には、「つるべ心中」という隠語も登場する。
つるべ心中とは、心中する二人が帯や縄を木の股や建物の梁にかけて、両端でそれぞれが首を吊るという死にかた。その姿が鶴瓶(つるべ)で井戸の水を汲み上げる様子に似ていることからそう呼ばれた。
隠語の豊かさは、首吊の変死体が日常的に目撃されていたことを物語っている。
殺されて食われた子どもの話
異常死は、家の中でも起きていた。
尾張藩士の細野要斎が幕末から明治初年までの聞き書きを綴った『諸家雑談』にこんな話が記されている。

ある男が江戸での勤務を終えて現地で妻に産ませた七歳の息子を連れて名古屋に戻ったところ、妻の手によって殺されてしまう。しかもその殺されかたが、異常だった。
ある夜、酒のつまみを持ってくるように命じられた妻は、玄関で寝ていた男の子を「串さしにし炙」ったというのだから恐ろしい。妻はその炙り肉(息子)を、裏切った夫に酒のつまみとして食べさせようとした……のかまでは分からないが、いずれにせよ息子を(に限らず人を)串にさして炙るなんて常軌を逸している。
ちなみに妻は、それを知った夫の手で直ちに斬り殺されたという。つまり、この家では一夜にして二人の人間の惨殺劇が繰り広げられたことになるわけだが、現代なら連日ニュースとなる大事件である。
江戸時代の死生観
戦争も内乱もなく平和のつづいた江戸時代。とはいえ、平和であってもそうでなくても人が死ぬことを運命づけられた生きものであることは、いつの時代も変わらない。死はいつの世も変わりなく、すべての人に訪れるのだ。
とはいえ、江戸時代の死生観はどうも現代とはそうとう違っていたようである。こういう言い方が正しければ、人びとは死を、いたって気軽なものとみなしていた。たとえば幕末に来日したオランダ人は次のように書き残している。
「日本人の死を恐れないことは格別である。(中略)現世からあの世に移ることは、ごく平気に考えているようだ。」葬列に出会ったべつの外国人も、参列者が「快活に軽口を飛ばし、笑い声をたててい」るのを見て驚いている。もしも現代のお葬式で江戸時代の人のように振舞ったら、とんでもない非常識人の扱いだ。
江戸の人々は「人間一生、物見遊山」だったとも言われる。生まれてきたのは、この世をあちこち寄り道しながら見物するためで、せいぜいあちこち見てまわって、友だちを増やして、死んでいけばいいとの考えかたである。
あっけらかんと死んでいく人たち

首吊、死刑、水死体。市中に転がる異常な死、死、死。
この世の誰も死から逃れることはできない。善か悪か、真面目に生きるか快楽にふけるか、どちらを向いて生きようが、死の方角を向いていることには変わらない。せいぜい楽しく生きて、あっけらかんと死んでいきたいものである。でも、殺されるのだけはごめんだ。
【参考文献】
宮武外骨『私刑類纂』成光館出版、1929年
渡辺京二 『逝きし世の面影』葦書房、1998年
氏家幹人『大江戸残酷物語』洋泉社、2017年

