2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で秀吉に翻弄される姉・ともを演じるのは、映画『国宝』で美しい極妻役を演じた俳優の宮澤エマさんです。
ともが歩んだ波乱の人生を辿りながら、『豊臣兄弟!』の見どころも予想してみましょう。
豊臣秀吉・秀長の姉、ともはどんな人?
ともは尾張中村(現在の名古屋市中村区)の足軽・弥右衛門とその妻なかの娘として、天文3(1534)年に生まれました。4人兄弟の長女で、2歳下の弟が秀吉、7歳下の弟が秀長、9歳下の妹が徳川家康の妻となったあさひです。
足軽とは平時には農耕などをして生活し、戦になると刀や鉄砲を手に兵士となった人々のこと。弥右衛門はあさひが生まれた年に亡くなっているので、きっとともは母を手伝って働き、弟や妹の面倒もよくみる、しっかり者の姉へと成長していったのではないでしょうか。
大人になったともは、弥助(のちの三好吉房)という男性と結婚。秀次、秀勝、秀保(ひでやす)という3人の男子の母となります。長男の秀次を出産したのが35歳のときなので、もしかしたら何らかの家の事情で、当時としては遅い結婚になったのかもしれません。秀次と10歳年の離れた3男の秀保は、夫とほかの女性との間に生まれた子ども、あるいは養子という説もあります。
夫の職業は、雉などの鳥を飼いならして、大名の娯楽だった「鷹狩り」の獲物として準備する「綱差(つなさし)」でした。一家は庶民的な暮らしをしていたはずですが、そこには家族仲良くにぎやかな、普通の幸せがあったかもしれません。
しかし、弟・秀吉が出世していくにつれて、ともの家族は大きな渦へと巻き込まれていくことになります。

政治の道具として利用されたともの息子・秀次
秀吉は18歳で織田信長に仕えると、小者(身の回りの世話をする雑用係)から騎馬武者へ、天正元(1573)年、37歳のときには近江長浜十二万石の城持ち大名へと、出世街道まっしぐら。
出世の足掛かりとなったエピソードとして、寒い日に機転を利かせて信長の草履を懐に入れ温めたという話や、一夜にして砦を築き信長の美濃攻めを助けたという永禄9(1566)年、墨俣一夜城の伝説などが有名です。
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ただしこれらは、人よりも小柄で、剣や槍が得意だったわけでもない秀吉を讃えるために、脚色された話ではないかとする説もあります。では、秀吉はどうして出世できたのでしょう。
秀吉は天性の「人たらし」、人を味方につける能力に長けていたようです。
美濃を手に入れた信長が、次に攻めたのは朝倉義景が治めていた越前です。しかし、かわいがっていた妹・お市を嫁がせて同盟を結んでいた浅井長政が朝倉義景に味方をしたため、窮地に立たされて一度は敗退。織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍がぶつかった元亀元(1570)年「姉川の戦い」では勝利するものの、浅井長政は居城の小谷城に籠城して抵抗を続けました。
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小谷城を落とすために、秀吉は浅井家の家臣たちに近づき、織田勢へと寝返らせていきます。戦国時代の武将たちは、子ども同士を結婚させたり、養子に出したりすることで同盟を結びました。実子のいなかった秀吉が政治の道具に利用したのは、ともの息子の秀次です。浅井家の重臣だった宮部継潤(みやべけいじゅん)を説得して味方につけるために、秀吉はまだ幼い甥を、養子という名の人質に差し出しました。
孤立した浅井長政は小谷城で自刃。お市の方と3人の娘は、信長の元に連れ戻されます。
敵と味方がめまぐるしく入れ替わる戦国の世。お市の方のように武家の姫に生まれたのであれば、駒として利用される覚悟があったかもしれません。でも、ともは違ったはずです。息子が弟の手柄のために利用されることを、どのような思いで受けいれたのでしょうか。
幸いにして、宮部が織田家の家臣となったため人質は不要となり、秀次は無事に家族の元へ帰されました。ところが、天正8(1580)年頃には再び、信長と戦ったのち家臣に下った阿波の三好康長のもとへと養子に出されています。その後、元々綱差をしていたともの夫・弥助が三好氏を名乗るのは、息子が三好家に入ったからでした。
関白の母となり、聚楽第で夢のような暮らし
天下統一に王手をかけていた信長が天正10(1582)年に本能寺の変で亡くなると、秀吉は翌年に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、また翌々年には小牧・長久手の戦いを経て徳川家康の優位に立ち、天下人となりました。関白太政大臣・豊臣秀吉の誕生です。
信長が亡くなった年に15歳の秀次も初陣を果たし、その後も秀吉のために働きました。
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秀吉には糟糠の妻・寧々の他にも数多くの側室がいましたが、なかなか実子に恵まれませんでした。天正17(1589)年、側室の淀殿が待望の男子鶴松を産むも、早世。気落ちしたのか、天正19(1591)年にはまだ24歳という若さの秀次に関白の座を譲り、自らは太閤(たいこう、摂政や関白を引退した人を指す)となります。
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ともはこの頃、秀吉が京都に建てた豪奢な聚楽第(じゅらくだい)を邸宅として、夢のような暮らしをしていたはず。でも、幸せはここが頂点でした。
文禄2(1593)年に淀殿が再び男子を出産すると、秀吉は孫ほどに歳の離れた息子の拾丸(ひろいまる、のちの秀頼)を溺愛し、跡取りにしたいと願うようになります。

逆縁の奈落で、豊臣氏の滅亡を見届けた晩年
文禄4(1595)年、28歳の秀次は謀反の疑いにより関白の座を追われ、高野山で自害します。若くして権力を手にした秀次は、ときに傲慢にふるまうこともあったといいます。道楽がひどいと噂されることもありました。しかし、弁明も聞き入れられずに切腹を迫られ、妻子まで連座となり処刑されたのは、秀吉にとって邪魔な存在になったからと推測する説が有力です。
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ともはこのとき、すでに次男と3男を亡くしていました。次男の秀勝は、朝鮮出兵中の文禄元(1592)年に24歳で病死。3男の秀保も、文禄2(1593)に17歳の若さで突然の死。
親にとって、子どもが自分よりも先に亡くなる「逆縁」よりも辛いことはありません。晩年のともは仏教を深く信仰し、息子の菩提を弔いながら、92歳まで長生きをしました。豊臣氏の滅亡と、戦国時代の終わりを、どのような思いで見届けたのでしょうか。
ともを演じる宮澤エマさんの演技に注目!
『豊臣兄弟!』でともを演じる宮澤エマさんは、NHK大河ドラマには2022年に放送された『鎌倉殿の13人』に続く4年ぶりの出演です。鎌倉殿では北条政子の妹役で、姉をからかうコミカルな演技が話題を呼びました。もしかしたら今回も、弟たちを叱咤激励する姉役をユーモラスに演じてくれるかもしれません。後半はシリアスな展開も予想されます。姉と弟の関係性の変化や、宮澤エマさんの演技の変化にも注目です。
アイキャッチ:千種の花 1 増訂版 幸野楳嶺 (国立国会図書館デジタルコレクションより)
参考書籍:
『豊臣秀吉事典』(新人物往来社)
『豊臣秀次』著:小和田哲男(PHP研究所)
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)

