対岸で起こった火事、つまり、こちらの岸ではないのだから、災いの及ぶ心配がない。
そこから、自分には関係がなく、何の苦痛もないという意味を表す。
そう、普通なら。
対岸の出来事は、そこで終わるもの。
だが、しかし。
今から234年前のこと。
対岸など関係なく、海を飛び越え、両岸を襲う大災害が起こったのである。
発端となった場所は「長崎県の島原地方」。
そして、有明海を挟んで向こう岸に位置するのは「肥後国(熊本県)」。
寛政4(1792)年4月1日(現在の暦で5月21日)。
まずは、島原で2度にわたる大地震が発生。
山の一部が崩壊し、大量の土砂が島原の町を襲う。
土砂はそのまま海へとなだれ込み、大きな津波を引き起こした。
第一波は、向こう岸である「熊本県」の有明海沿岸へ。
さらに折り返し、今度は島原の町のすべてを流し尽くしたのである。
その後、津波は両岸を数回往復。その結果、犠牲者は長崎県、熊本県併せて約1万5千人。
この大災害を、当時は、こう表現した。
島原で「大変」なことが起こり、それにより熊本は「難儀(なんぎ)」した、つまり「迷惑」を被ったと。
俗にいう「島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく、肥後難儀とも)」である。
一体、何が起きたのか。
どうしてそこまで多くの犠牲者が出てしまったのか。
今回は、この「島原大変肥後迷惑」を取り上げたい。
今なお残る島原地方の災害遺構をたどり、その爪痕に触れる。
この記事で、少しでも自然の厳しさを伝えることができればと願う。
※本記事の写真は、すべて「常盤資料館」「肥前島原松平文庫」に許可を得て撮影しています
大津波の原因となった山崩れの爪痕
大災害の要因となった長崎県島原半島中央部にある雲仙岳(雲仙火山とも)。
じつは、「雲仙岳」はひとつの山を指すワケではない。複合活火山全体の総称である。
『肥前温泉災記 全』には、このように記されている。
島原城下より三里西に当り九州一の高山あり、其名を普現山とも又は衣掛山とも申して婦げん(普賢)大菩薩を建立し奉り…(中略)…そのほか諸神・諸佛数多おわします。寺あり、一乗院と申すなり。城下より道のり五里あり、右普賢山の山下に七面大明神の社あり、この山をば前山とも申し十八丁の登りなり。右この山において七つの谷・七つの峰あり
(津田庄治編『肥前温泉災記の解説』より一部抜粋)
雲仙岳の主峰は標高1359mの「普賢岳(ふげんだけ)」。
他にも、国見岳(1347m)や妙見岳(1333m)など幾つかの山が集まっており、当時はそこに神社や寺などが建立されていた。
なお、「前山(まえやま)」とは、山崩れし大津波を引き起こす原因となった件の山である。島原城下から見ると、いつも目の前に見え、かつ一番高い普賢岳の前に位置するため「前山」という名であったとか。現在は、見た目が「眉」の形に見えることから「眉山(まゆやま)」と呼ばれている(諸説あり)。眉山は元々3000~5000年前に作られた溶岩ドームであり、山頂が2つの峰に分かれている。島原市街地より向かって右の北峰が「七面山」、そして左の南峰が当時山崩れを起こした「天狗山」だ。
早速、眉山周辺へと向かう。
目的地は、島原市内にある「仁田(にた)団地第一公園」だ。
コチラの公園は、島原鉄道の終着駅である「島原港駅」から約3㎞、車で10分弱の場所にある。緩やかな坂道をへとへとになるほど上った先にある公園だ。
かなり高台にあるので、有明海を望む景色は見事。
だが、それよりも目を奪われるのが、屹立している山の姿である。
仁田団地第一公園からちょうど真正面に見えるのが、当時、山崩れを起こした眉山のひとつ「天狗山」だ。

当時の地震の規模はマグニチュード6.4と推定される。
その後、山崩れが起きた。
230年以上経過しているにもかかわらず。
その痛々しい姿に、正直なところ驚いた。
カメラマンももちろん無言。元々口数は少ない方だからこれが平常運転のようだが。何かを感じているのか、黙々と撮影している。
それにしても、山を描く場合、一般的に丸みを帯びたラインとなることが多い。
だが、天狗山は違う。山の半分が切り取られたかのようで、仙人が修行するにふさわしいほどの絶壁。かなり尖っている。
当時の資料から推測するに、崩落してなだれ込んだ土砂は約3億4000万㎥(0.34k㎥)。天狗山全体の1/6に相当する。どれほどの量かというと、東京ドーム約274杯分、または浜名湖の貯水量とほぼ同じ。崩壊のせいで、山頂は150mほど低くなったという。

九州地方整備局雲仙復興事務所の資料によれば、約30秒もしないうちに山頂は窪み、土砂が地滑りのように押し流されたという。崩壊土砂の先端の速さは、秒速43m。時速だと156㎞となる。その後、ゆっくりと減速。止まるまでの時間は全体で約3分ほど。本当にあっという間の出来事だったようだ。
なお、山崩れの原因は未だ特定できていないという。
地震によるもの、火山爆裂によるものなど幾つかあるが、最近では「眉山」の性質と様々な事象が複合したという「複合作用説」の見方が強い。火山活動により熱水が激増し、それが直下型の地震と相まって、もろい眉山が瞬間的に不安定となり崩壊したというものだ。
どのような理由にしろ、人は自然の力には抗えないのだと改めて思い知る。
当時の人々も同じ思いだろうか。いや、そんなことを悠長に考える時間などないはずだ。一瞬の出来事であり、だからこそ犠牲者も多くなったのである。
多くの前兆があった「島原大変」
雲仙普賢岳の噴火、それに伴う地震と山崩れに、津波という複合災害。
当時、この未曽有の大災害を、様々な人たちが文書や絵図で記録している。その中のひとつ『島原大変記』には、こんな一節がある。
嗚呼悲哉 夢にも前兆と思ひ知るものなく…(中略)…臍を噛歯咀絞るの悔あれとも更に甲斐なし
(『島原大変記』より一部抜粋)
──ああ悲しや
夢にも前兆とは思わず。
臍(ほぞ)を噛む思い、歯がみするほど悔しいが、どうにもできないとの心情が綴られている。
確かに、言われてみれば。
眉山の山崩れは突然起こったが、それまで異変が一切なかったワケではない。
「前兆」と記されている通り、半年前から様々な兆候があったという。

雲仙岳周辺で起こった異変の数々。
いわば、その頃から「島原大変」は始まっていたといえるだろう。
始まりは地震から
最初の異変は約半年前。
寛政3(1791)年10月8日(現在の暦で11月3日)のこと。
島原城下で体に感じる程度の地震があり、それが1日に3、4度続いたとされている。地鳴りを伴うものもあって、雷のようで驚いたという記述もある。
ただ、中にはこんな人たちも。『肥前温泉災記 全』より抜粋しよう。
心無き勇民ども…(中略)…見物に行くべしとて、弁当、酒肴など取り揃え、右普賢山え登りて、山の鳴り渡るを楽しみとて終日酒に酔いて、帰りには浮かれ、歌など声を上げて手拍子を打ちて戯れ帰る事多かりき
(津田庄治編『肥前温泉災記の解説』より一部抜粋)
信じられないが。
地震による山鳴りの見物である。弁当と酒を持参するとは、なかなかの強心臓っぷりである。

この有感地震はなかなか収まらず。
同年11月10日(現在の暦で12月5日)頃から、島原半島西側の「小浜(おばま)」付近で揺れが強くなったようだ。一部山崩れも起きており、石垣造りの小屋が落石で押し潰され、住んでいた老夫婦が亡くなっている。既に犠牲者も出ていたのである。
ただ、「小浜」という場所は、「島原大変」の被災エリアとは反対側である。
じつは、島原半島には東西に横切る「雲仙地溝帯」が存在する。当初、異変は半島の西側(小浜など)で起きていたが、時間の経過と共に異変の場所がズレていく。雲仙地溝帯の中を島原半島の東側へと移動し、あの大災害へと繋がるのである。
普賢岳の噴火
その後、年明けすぐに状況が一変する。
寛政4(1792)年正月18日(現在の暦で2月10日)のこと。
とうとう普賢岳が噴火したのである。

ちなみに、噴火は今回が初めてではない。
約130年前の寛文3(1663)年にも普賢岳は噴火しており(厳密にいうと噴火口は異なるが)、これが2回目となる。
島原藩は早速、現地見分に手代(てだい、奉公人)を派遣。
報告によると、普賢神社の前の窪み2か所から噴煙が見え、他の場所では泥土が噴き上げられ、鳥居も埋まったのか見当たらなかったという。山頂一帯には広範囲で灰が散っており、その様子はまるで雪や霜をかぶったかのようだったとか。
同年正月20日(現在の暦で2月12日)には、江戸へ「普賢山噴火」を報告する書状を送っている。

この状況に、当時の人々は恐怖に慄いた。
様々な記録を見ると、摩訶不思議な憶測やありえない風説が広まっていたことが分かる。
その中で気になったものがあるので、ご紹介しよう。『肥前温泉災記 全』からの抜粋である。
然るに城辺において、不思議のやうくわひ(妖怪)あり。夜半ばかりに更け行きて、空、物凄き折からに、隣家も物音静まりて、眠りを催しける所に、大地より五丈(約十五メートル)程空に大船走り行く音しきりなり。皆人これに驚き出て見るに、帆かけし船ニ双舵を揃えて走り行く。船の内より人声ありて、危うし、危うしと呼ばわりながら舟ハ行方知らずなりしとかや。
(津田庄治編『肥前温泉災記の解説』より一部抜粋)
さらに、もうひとつ。
至る所に又一夜程隔てて重ねて妖怪をなす事あり。夜半ばかり比所に白狐来たり曰く、用心すべし・大流れと三度呼ばわり飛び去りける。
(津田庄治編『肥前温泉災記の解説』より一部抜粋)
大きな船が夜空を走る?
白い狐が大声で叫ぶ?
どちらにしろ、「危うし」「用心すべし」「大流れ」などの言葉が含まれている。これから来る災難を予想してのことか。もちろんこれが真実だという証拠はないが、見聞きされた内容の中には、このような不思議な話もあったようだ。
「三月朔地震」の思わぬ弊害
さらに異変は続く。
同年2月6日(現在の暦で2月27日)。
今度は普賢岳東北の「穴迫谷(あなさこだに)」の上流部で噴火。
季節は冬。積雪の中での噴火となったようだ。現地見分の結果、雪があるため燃え広がりはしないが、夜には一面火になるとの報告がなされている。その2日後にはさらに激しくなり、溶岩流がゆっくりと流れ出る様子が人々の関心を引いた。
次いで、同年2月29日(現在の暦で3月21日)。
「蜂の窪(はちのくぼ)」でも溶岩が流出。先ほどの穴迫谷を流れる溶岩と合流し、谷を静かに流れていく。
この事態に、島原藩では天に助けを求めたようだ。
幾つかの文書に祈祷を命じる様子がうかがえる。『島原地変略記』より一部抜粋しよう。
一乗院に命して。十七日普賢。妙見の二大士を請し。壇を比賀多山に築き。真言。秘密を以て。大に鎮火を祈る。神職僧侶。皆奉する処を以て。鎮火を自房に祈らしむ。
(島原市仏教会編「たいへん : 島原大変二百回忌記念誌」より一部抜粋)
祈祷を命じられたのは「一乗院」という寺。
穴迫谷の麓に仮屋を設置し、真言宗の僧侶14人が17日間の真言密教の祈祷を行ったとされている。

人々の反応はというと、これまた意外なもの。
もちろん、当初は脅威を感じていたのだが。同じ状況が続くと、次第に恐怖が麻痺していくのだろう。「怖いモノ見たさ」は今も昔もそう変わらないということか。
加えて、雲仙岳の溶岩は岩質の粘性が高くゆっくりと流れるため、こう言っては不謹慎だが、どうやら見物に適していたようだ。ちょうど見晴らしがよく、溶岩の流れる様子をゆっくりと見ることのできる「ろぎ山」が大人気となり、名所になるほど。茶店も出て、神社仏閣の祭礼のような賑わいだったとか。ただ、泥酔して怪我をする者が出たこともあり、のちに一般の見物を禁止している。
1か月前の大地震
こうして人々が見物に盛り上がっている一方で。
実際の状況はというと、じつに切迫したものだった。
溶岩流が次第に人家に近付きつつあったのだ。『郡奉行所日記書抜』によると、同年閏2月29日(現在の暦で4月20日)時点で、「千本木」という場所の人家まで600mほどに迫っていると記録されている。
さらに、周辺でも様々な異変が生じていた。
酸味の強い炭酸泉が湧きだしたところもあれば、地割れ、はたまた普賢岳の東の麓(ふもと)の「おしが谷」では、火山性ガスが発生。猪や鹿、狐、うさぎ、小鳥の死骸が転がっていたという。付近まで行った農民も呼吸困難となった模様で、確実に噴火の影響は日々の生活の中で大きくなっていったようだ。

そして、大災害のちょうど1か月前のこと。
同年3月朔日(さくじつ、1日のこと、現在の暦で4月21日)より大きな地震が頻発。地震で揺れ動く度に、眉山の山頂からは樹木や土砂が落ちるという状況が報告されている。島原城下では石垣が崩れ、大きな地割れも発生。特に最初の2日間は立って歩けないほどで、地震の回数は1日に300回とも。「三月朔地震(さんがつさくじしん)」と呼ばれる地震である。
『肥前温泉災記 全』には、このように記されている。
これにより城下の町家在々の者ども大きに驚き、我が家をあけてことごとく遠在へ逃げ去りける
(津田庄治編『肥前温泉災記の解説』より一部抜粋)
あまりの地震の多さに、領民らが城下から脱出したという内容だ。
ただ、意外にも早々と避難したのは、藩主の子女や武家の家族であった。
というのも、島原藩は同年3月2日(現在の暦で4月22日)に警戒避難指令書、俗にいう「三月令」を出しているのだが。この避難指令は、溶岩流と土石流の到達地点などから、予め危険レベルと具体的な対応策を定めたもの。その目的はただひとつ。領民ではなく、藩主一族の保護にある。悲しいかな、領民らの対応は書かれておらず、彼らは自己判断で動くしかなかった。そのため、藩主らの動向を参考にしたのである。
藩主の子女、武家の家族などは翌日より避難開始(日付は諸説あり)。島原半島を北回りに進み、夜通し歩いて半島北部の「森山村」に到着したという。それを伝え聞いた市中の人々は大混乱。家などの心配もあるが、我先に城下から脱出すべく避難優先で動いたようだ。

「楠平」の地すべり
さらに同年3月9日(現在の暦で4月29日)。
まさしく「島原大変」の前兆ともいえる事象が起こる。
「楠平(くすのきだいら)の地すべり」だ。
「楠平」はのちに崩壊する「天狗山」の前面部分である。地すべりの落差は200mほど(諸説あり)。山奉行の実地見分では、斜面上下に2段のズレが報告されている。どうやら地震のせいで山裾がズレてしまい、山の上部がずり落ちてきたようだ。
これほど重要な現象であるにもかかわらず。
当時は、軽くスルーされてしまう。
何より楠平は島原城より距離があり、島原藩からすれば城下を襲う地震や鉄砲水の方に気を取られていたからだ。
さらに、とある僧が市中を触れ回り、その後始末に追われていたという話もある。『島原一件書状の写』より一部抜粋しよう。
「三月上旬、城下大きに騒動のことあり。その由来は温泉に一乗院という真言の寺あり。覚道という旅僧、数年滞留す。この僧、城下を走りまわり、明日八つ時山潮出て城下を溺す。諸人早く立ち退くべし。我は一乗院の使いなりと。これによりて町中大いに驚き騒ぐこと、城内に及ぶ」
(九州地⽅整備局 雲仙復興事務所『⽇本の歴史上最⼤の⽕⼭災害 島原⼤変』より一部抜粋)
「三月朔地震」後の城下の様子だが、どうやら予言めいたものを叫んでいた僧がいたようだ。これに振り回され、的確な指示が出せなかったという指摘もある。
ただ、そうこうしているうちに。
地震も少しずつ軽くなり、城下は静かになりつつあった。
藩主の子女らも避難先から帰還。それを受けて領民らも城下へと帰ってくることに。
今ならば。
もう少しだけ、避難先に滞在していればと思うばかりである。
そのまま避難を続けていれば。
これからくる運命の日に、どれほどの命が助かっただろうか。
だが、当時、的確に「島原大変」を予測する術などなく。
そんな思いとは裏腹に、島原城下の混乱も次第に収まっていったのである。
不運が重なった「島原大変」
まさしく「嵐の前の静けさ」とは、こういう状況をいうのだろう。
1か月前に大きな地震が頻発したが、町も少しずつ落ち着きを取り戻した矢先のこと。
運命の日が訪れる。
同年4月朔日(現在の暦で5月21日)。
時刻は酉の刻過ぎ。今でいえば、だいたい20時過ぎだ。そんな「夜」にマグニチュード6.4(推定)の地震が発生。2回の地震ののち、眉山の一部である「天狗山」が崩壊。そして、暫くして津波が押し寄せた。

それにしても、不運は重なるものである。
まず、起こった時刻が「夜」だというコト。
現代のように外灯があるワケではない。山崩れの爆音は聞こえても、暗闇の中である。一体、何が起こっているのか、具体的な状況が分かりづらい。加えて、大量の土砂が有明海に流れ込むのだが。当時は新月で大潮。なおかつ、満潮とは僅か1時間違いであったとか。通常よりも海面は1.9mほど高かったと推測される。これが津波の被害を拡大させたのである。
当時の山崩れの様子が幾つか絵図に残っている。
コチラは、非常に分かりやすい。島原大変の「前」と「後」に分けて描かれた『嶋原大変前後図』である。
まずは、島原大変前の様子である。何の異常も見られない。

次に、島原大変後の様子である。
なんだか、間違い探しのようで恐縮だが。ベースは「大変前」の絵図と同じで、山崩れを起こした箇所(左半分)にのみ、上から「大変後」の様子を描いた紙を重ねた構造となっている。
ご注目いただきたいのが、中央よりやや左の部分。
上部は眉山が崩れている様子、下部は有明海に眉山の崩れた土塊が流れ込んでいる様子が描かれている。その結果、絵図の左下に、流れ込んだ土砂の残骸が小島となって出現。海岸線も場所によっては1㎞ほど前にせり出している。

たった数分の出来事ながら。
「島原大変」により、地形が大きく様変わりしたのである。
そんな災害遺構が、島原市内に幾つか残っているという。
もちろん、この目で見たいと訪ねることに。
白土湖
向かった先は、「白土湖(しらちこ)」。
島原鉄道「霊丘公園体育館駅」より徒歩15分ほどの距離にある湖だ。山崩れが起こって生じた窪地(くぼち)に、多量の地下水が湧き出し湖となったとか。
市街地を歩きながら思う。
「湖」って、静かな森の中にひっそりと存在するイメージだが。こんな町の中に、ホントに湖があるのだろうかと訝しむ。いきなり湖が出現するならば、やはり島原大変の影響はすごいものだと……。
「へ?」
目の前の風景が、穏やか過ぎて拍子抜けする。
もう、カモなんか泳いじゃって。平和そのもの。
でも、これって。
なんだか小さくないか?
「池……?」とダイソン。
「湖」とカメラマンに、即、訂正される。

現在の大きさは、南北およそ200m、東西およそ70m。島原市のホームページでは「日本で最も小さな陥没湖」と紹介されている。
だが、当初はこの4倍の大きさだったという。
なるほど。それくらいの大きさであれば「湖」のイメージが持てそうだ。
当時、山崩れののちに湖が出現し、まさかの湧き水が止まらず。それも予想外にどんどん湖が拡大したというから驚きである。これにより寺や家屋なども水没。主要街道である島原街道は寸断され、イカダで渡らなければならないほどだったとか。そこで旧海岸線に沿うように排水路を掘り進め、水抜きをしたという。ちなみに、白土湖の湖底からは今でも大量の水が湧き出ており、水量は1日あたり約4万トンなのだとか。
秩父が浦公園
次に向かった先は「秩父が浦公園」。
昭和45(1970)年に島原半島県立公園に指定された景勝地である。
島原鉄道の「島原港駅」から約1.6㎞、車で4分ほどの場所にある海の公園だ。

こちらも、やはり穏やかな時間が流れているのだが。
シンプルに疑問が浮かぶ。
どうしてこの公園が災害遺構なのか。
まず、目の前に浮かんでいる小島。
これを「流山(ながれやま)」と呼ぶ。
じつは、この「流山」、眉山(天狗山)の山崩れの一部。つまり山が崩壊した際に流れ出た土の塊なのである。
有明海には、このような山の一部、残骸とでもいおうか、土塊が小さな島となって点在している。数えてはいないが、非常に多いという意味で「九十九島(つくもじま)」と名付けられている。実際に、島原大変の20年後に「伊能忠敬(いのうただたか)」が測量したところ、59の島があったとか。現在は、侵食や水没で17まで減っているという(諸説あり)。

個人的には、この場所が最も「島原大変」のえげつなさを体感できるように思う。
正直、230年以上前の山崩れを想像するのは難しい。だが、目の前の小島は、その残骸なのだ。小島ほどの大きさの土塊が、幾つも山から滑り落ち、有明海に流れ込んだのである。それも時間にして僅か3分。
どれほど強烈で凄まじかったか。
暗闇の中で、何も分からぬまま逃げ惑わなければならなかった領民たちを想像する。
ふと、資料として読み込んでいた当時の文書が、「流山」の景色を前に一気に蘇る。
『肥前温泉災記』より
前山大きに振動し、大地震両度に及び、大地も裂けるかとすさまじ。
(津田庄治編『肥前温泉災記の解説』より一部抜粋)
『大岳地獄物語』より
風雨も致さず天気好く青天にて、その一日の晩暮六ツ半時に諸人夢にも知らずしている処に島原岳片平(片側)大木共に崩れ来り……
(九州地⽅整備局 雲仙復興事務所『⽇本の歴史上最⼤の⽕⼭災害 島原⼤変』より一部抜粋)
『寛政四年島原地変記』より
強烈ナル地震二度累ネ至リ百千ノ大雷一度ニ落ルガ如ク天地も崩ルゝ計ノ響アリケレバ諸人大ニ驚キ……
(島原市仏教会編「たいへん : 島原大変二百回忌記念誌」より一部抜粋)
いや、現実は、これだけでは終わらないのだ。
山崩れののち、さらなる悲劇が待ち受ける。
あとに続く大津波だ。3回押し寄せたともいわれている。

分かってはいたが、改めて。
「島原大変」は史上最悪の火山災害と言わざるを得ない。
そんな未曽有の大災害を、真正面から受け止めなければならなかった人物がいる。
当時の島原の地を任されていた男。
時の藩主「松平忠恕(ただひろ)」だ。
「悲運の藩主」ともいわれるこの人物。
一体、彼は「島原大変」を乗り切ることができたのか。
迫りくる津波の被害、そして、そんな彼の数奇な運命については。
続編へと項を譲ることにしよう。
取材後記
令和7(2025)年9月。
ユネスコのホームページで、島原半島の「ユネスコ世界ジオパーク」の再認定が公表された。
2013年、2018年、2022年に続く4度目の再認定である。
文部科学省の説明によると。
ユネスコ世界ジオパークとは「国際的に価値のある地質遺産を保護し…(中略)…科学研究や教育、地域振興等に活用することにより、自然と人間との共生及び持続可能な開発を実現することを目的とした事業」とのこと。
令和6(2024)年3月現在、世界では48か国213のユネスコ世界ジオパークが認定を受けている。日本の中では、洞爺湖有珠山、糸魚川、島原半島、山陰海岸、室戸、隠岐、阿蘇、アポイ岳、伊豆半島、白山手取川の10の地域が登録済みだ。
なかでも、特に島原半島は「人と火山の共生が体感できる」ところに特徴がある。
実際に島原市内を歩いてみたが。
最初は、遠目でも分かるほどインパクトのある普賢岳や眉山を除いては、地方の自然豊かな町並みと大して変わらない印象を受けた。
だが、今回の取材を通して。
様々な過去の事実を知ってみると。
途端に、風景が大きく変わる。
「白土湖」は、元々、水などない普通の陸地であった。
「秩父が池公園」の小島は、じつは流れた土砂の塊だった。
この何気ない風景こそが、火山活動の結果なのだと。
確かに島原は、自然……いや、地球そのもののエネルギーが直接感じられる稀有な場所だといえる。
一方で、忘れてならないのは、犠牲になった人たちだ。
海岸沿いに、民家のすぐそばに、そして商店街の中に。
至る場所で大災害の爪痕が残されていた。
「島原大変」の犠牲者の供養塔である。

ただの石碑ではない。
当時の彼らの魂の叫び、そんな声なき声を鎮めるために。
1本1本の石塔に、多くの失われた命が供養されているのだ。
最後に。
もう一度、眉山を仰ぎ見る。

同じ山でも。
時代が変われば、状況が変われば。
見る目も変わる。
平成2(1990)年。
雲仙普賢岳が再び噴火。
有史以来、3度目の噴火である。
じつは、この眉山の存在が多くの命を救ったといわれている。
寛政4(1972)年には、多くの命を奪った眉山。
だが、今度は火砕流の盾となり、島原市街地を守ったのである。
──この山があったからこそ
それこそ、山からすれば。
せめてもの償いなのかもしれない。
撮影/大村健太
参考文献
入江湑 著 「島原の歴史 藩制編」 島原市役所 1972年12月
長崎県史編纂委員会 編 「長崎県史 藩政編」 吉川弘文館 1973年
村山磐 著 「日本の火山災害:記録による性格調べ」 講談社 1977年11月
島原市仏教会 編 「たいへん : 島原大変二百回忌記念誌」 島原市仏教会 1992年4月
津田庄治 編 「肥前温泉災記の解説」 (有)正文社印刷所 2005年10月
寒川旭 著 「日本人はどんな大地震を経験してきたのか」 平凡社 2011年11月
谷川健一 編 「地名は警告する 日本の災害と地名」 冨山房インターナショナル 2013年3月
寒川旭 著 「歴史から探る21世紀の巨大地震」 朝日新聞出版 2013年3月
国⼟交通省九州地⽅整備局 雲仙復興事務所 「⽇本の歴史上最⼤の⽕⼭災害 島原⼤変」 2013年
宇佐美龍夫 著 「大地震:古記録に学ぶ」 吉川弘文館 2014年8月
野藤妙、内島美奈子 編 「島原半島の信仰と歴史 」(西南学院大学博物館研究叢書) 花乱社 2017年6月
丸山淳一 著 「今につながる日本史」 中央公論新社 2020年5月

