記事のネタ探しで、鼻歌交じりにマウスを動かしていたその時だった。
自然と手が止まる。
目に飛び込んできたのは「濡衣塚(ぬれぎぬづか)」という文字。
──ああ、可哀そうに
──きっと誰かが濡れ衣を着せられたんだねー
そう、ひとり呟きながら。
一体、どんな罪を着せられたのかと調査していくと。
え
ダイソン、久しぶりに固まった。
まさかのまさか。
先ほどの「濡衣塚」が本家本元。
つまり、この塚こそ。
かの有名な「濡れ衣」の言葉の語源といわれる事件の塚だったのである(諸説あり)。
いや、待て。
ちょい待て。待てい。
そもそもの話。
無実の罪や身に覚えのない罪を表す「濡れ衣」という言葉って。
語源となる事件が存在していたのか。
なんなら、それさえも知らないぞ、わたし。
ということで。
お察しの通り、ダイソン、すぐにひとっ飛び。
気になる「濡衣塚」へと向かったのである。
さても、「濡れ衣」の語源といわれる事件とは、一体、どのようなものだったのか。
早速、現地取材の様子をお届けしよう。
博多古図を辿ってみると
向かった先は、まさかのご近所。
同じ九州内である、福岡の「博多」だ。
現在は東京や大阪に次ぐ大都市のひとつだが、遥か昔、博多駅周辺は「海」であったとか。そんな博多駅から徒歩で20分ほどの場所にあるのが、今回のお目当ての「濡衣塚」だ。
現地へ向かう前に。
まずは、入念な下調べということで。
探し当てたのがコチラの『福岡城下町・博多・近隣古図』。
19世紀初めの福岡・博多絵図で、文化9(1812)年に出版された写本である。

博多といえば。
近年は利便性の高さから人口流入も加速し、今なお発展し続ける都市というイメージがある。そんな博多も江戸時代の『福岡城下町・博多・近隣古図』で見れば、当然ながら今とは大きく異なる様子。
だが、一方で。
大きな変遷の中にあっても、そのまま変わらぬ存在もある。
例えば「神社仏閣」。現存する多くの寺社は、江戸時代の古地図の中でその名を見つけることができる。
そして、なんと。
冒頭でご紹介した「濡衣塚」も、そのひとつ。
先ほどの『福岡城下町・博多・近隣古図』の右上部を拡大してみると。お分かりだろうか。画像中央の左手、橋を越えて池の中と思われるところに石碑のようなモノが確認できる。

拡大すると、「濡衣」という文字を発見。
「濡衣塚」だ。
「塚」として供養されていることから、恐らく誰かが亡くなったのだろう。すぐ下にはヒントとなる説明書きがあった。それがコチラ。
「聖武天皇ノ御時博多守護職佐野近世の娘の墓」
おっと。
「聖武天皇」といえば、奈良時代ではないか。
つまり、「濡衣塚」は奈良時代に亡くなった「佐野近世(ちかよ)の娘」を弔うために建てられたということか。それにしても、「佐野近世」とはいかなる人物なのか。古地図だけでは、その謎が深まるばかり。
そういえば。
「佐野近世」という文字をどこかで見たような……。
さらなる情報を求めて、再度、古地図を確認すると。中央部分にご注目。「濡衣塚」に続く橋の手前、「官内町」と「竪町上」が交差する角地に「佐野近世…館…名トス」という文字を発見。

どこまで情報が信用できるかはさておき。
これによれば、「佐野近世」なる人物と関係する屋敷がこの近辺にあった可能性がある。まさか江戸時代の古地図に、奈良時代の人物の名が記されているとは少し意外である。
あとは現地に行って、この目で確かめるだけだ。
こうして、早朝、博多の街へと降り立ったのである。
噂の「濡衣塚」とご対面
JR博多駅から地下鉄箱崎線「呉服町」駅へ。
下車したのち、歩くこと数分。早朝だからか人も少なく歩きやすい。古地図を片手に、ぶらぶらと気ままに散策する。
江戸時代、福岡の町は「那珂川(なかがわ)」を挟んで大きくふたつに分かれていた。西のエリア(博多)は商人(町人)の町、東のエリア(福岡)は黒田藩の城下町、いわゆる武士の町である。町人らは自由に出入りできたそうだが、逆に武士たちは博多への出入りを制限されていたとか。
それにしても、コチラの古地図を見ると。
なぜだか京都を思い出す。碁盤の目のようにキレイに区画され、歩いていても非常に分かりやすい。じつは、これは偶然でもなんでもない。というのも、現在、大河ドラマで注目を浴びているあのお方が関係しているからだ。
古来より貿易の拠点として栄えた博多だったが、戦国時代には度重なる戦により荒廃。そんな博多の地を復興させたのが、九州の地を平定した豊臣秀吉なのである。博多の町を10町(約1090m)とし、呉服町駅の真上を通る現在の「大博通り」を軸にして、同一区画で仕切り整備した。この「太閤町割」は、今も博多の町に受け継がれている。
さて、その「大博通り」から右に折れて「官内(かんない)筋」へと進む。
古地図の中では「官内町筋」と書かれた通りだ。博多の地誌である『石城誌』によると、「官内」という地名は大宰府の「官人」、今でいうところの「役人」が守衛する館があったため、後世に名付けられたと記されている。
なお、古地図に「佐野近世…館…名トス」と記された場所には、シックな外観の店があった。創業300年を超える「光安青霞園(みつやすせいかえん)茶舗本店」だ。江戸時代中期には既に店を構えていたとされる日本茶の老舗である。
さらに、歩を進めると。
ちらほら寺が見えてきた。古地図の中でも川沿いに寺が連なっていたが、現在も多くが残っているようだ。
その先に見えてきたのが「石堂橋」だ。
江戸時代には、石堂橋の手前、つまり博多側に黒田藩の番所である「石堂口門」が設置されていた。
ちなみに、石堂橋の架かる川は「御笠川(みかさがわ)」だ。
中には昔の名で「石堂川」とも呼ぶ人もいるとか。現在はこうして博多駅の東側を流れているが、当初の地形では駅の西側を流れ、海に注ぐ流路だったようだ。戦国時代に下流部の付け替え工事が行われ、現在の形になったという。

昔の景色を想像して、橋を渡る。
古地図では、渡ってすぐのところに池があり、その中に「濡衣塚」があったようだが。現在は頭上に高速道路が延びており、行き交う車の音がひっきりなしに続く。先ほどの石堂橋を渡る前の静けさがウソのようである。
となると。
お目当ての「濡衣塚」は、どこにあるのか。
橋を渡ったところで、きょろきょろと周囲を見渡すと、道の先に大きな石碑が辛うじて見えた。
右手に折れて、川沿いを進む。
到着したのは「濡衣塚参道」。

参道といっても、大それたものではない。
御笠川と歩道の間にある小さなスペースに、複数の地蔵が並び、石塔が置かれている。
そしてその先にあるのが、コチラの石柱。
ようやくのご対面である。

まずはお参りをして。
目を上げると、梵字(ぼんじ)だろうか。謎の文字が刻まれた石碑が見えた。
それがまた、余計に好奇心を刺激する。
奈良時代に起きたとされる事件。
一体、「佐野近世」とその娘に何が起こったのであろうか。
ここからは、幾つか残されている福岡の地誌をひもとくことにしよう。
「濡れ衣」説話とは?
『語り継がれる濡れ衣説話』によると。
福岡の地誌の中で「濡れ衣」について記された最も古いものは、江戸時代の本草学者で儒学者でもある「貝原益軒(かいばらえきけん)」の『筑前名寄(ちくぜんなよせ)』だという。
その後、この筑前名寄などを元にして編纂されたのが『筑前国続風土記』だ。黒田藩の編纂事業により成立したコチラの地誌は、公的な性格をもつ信頼性の高い資料として評価されている。
今回は、この『筑前国続風土記』より、佐野近世と娘の事件をご紹介しよう。
まず、佐野近世とは、聖武天皇時代(在位724~749年)の「筑前守」、簡単にいえば、筑前国(福岡県)の長官だ。都から派遣され、筑前でその職に就いたのだが。不幸にも都より連れてきた妻を亡くしてしまい、現地で後妻を娶ることに。
ちなみに、佐野近世には前妻との間に娘がいた。
地誌によっては「春姫」という名で登場する。個人的には「その後、家族3人で仲睦まじく暮らしましたー」となってほしいところなのだが。どうやらそんな穏やかな結末ではなさそうだ。
というのも、経緯はわからぬが。
この後妻、なぜか前妻の娘を恨み憎んでいたからである。そして、とうとう娘を亡き者にしようと画策。後世の書籍の中には、後妻との間にできた娘を可愛がらず、前妻の娘ばかりを慈しんだためと書かれたものもあったが、定かではない。
それにしても、である。
後妻は一体、どのような悪だくみをしたのか。
そのヒントが、石堂橋の欄干のレリーフに刻まれていた。それがコチラ。

奥に座り、何かを指さして超怒りモードなのが、佐野近世か。
そして、後ろ姿だが、恐らく泣いていると思われるのが、近世の娘だろう。
まさか……。
指さしているのは、何かの衣?
ここからは『筑前国続風土記』より一部を抜粋しよう。
海人をかたらひて云、此暁來ていふへきやうは、京の娘君の此程夜なゝ我もとへましゝつるか、つりきぬをぬすみておはしつるたべといへとて、色々の賓をとらせける
(『福岡県史資料 続第4輯(地誌編 1)』より一部抜粋)
後妻の計画はこうだ。
漁業を生業としている漁夫に褒美を与えて、偽りの告発をさせるというもの。その内容は、佐野近世の娘が夜な夜な訪れて、漁業の際に使う「釣り衣」を盗むため困っている、どうか返して下されという、とんでもないものだった。
そして、計画通り。
漁夫は佐野近世の元を訪れて、荒唐無稽な告発を試みる。
驚いた近世は信じられずとも、いざ、娘が寝ているところに踏み込んでみると。
父是を聞て大に怒り、行て見れは、むすめぬれたる衣を引かつきてふせり…(中略)…父其たばかれる事をは知らで、たちまち娘を殺しける
(同上より一部抜粋)
まさかのまさか。
なんと、最愛の娘が。
濡れた釣り衣を被りながら寝ているではないか。
もちろん、これは後妻が寝ている娘にそっと被せたのだが。
佐野近世は、そんなからくりも露知らず。あろうことか、目の前の光景をそのまま信じてしまう。そうして、取った行動が……。怒りのあまり、娘を斬り殺してしまうのだ。なんとも最悪の結末を迎えたのである。

そして、年が明けて。
己の疑いを晴らすこともできなかった娘は、父の夢枕に立つことに。
さめざめと泣きながら、娘は2首の歌を詠む。それがコチラ。
ぬきゝするそのたはかりのぬれ衣は
なかきなき名のためしなりけり
(脱ぎ着するそのたばかりの濡れ衣は 長き無き名のためしなりけり)
ぬれ衣の袖よりつたふなみたこそ
なき名をなかすためしなりけれ
(濡れ衣の袖よりつたふ涙こそ 無き名を流すためしなりけれ)
(同上より一部抜粋)
「無き名」、つまり、いわれのないこと、無実を意味する。
夢から覚めた佐野近世は、ようやく娘が無実だったことを知る。
とはいえ、時既に遅し。娘を殺した事実は、どれほど悔やんでも変えられず。できることといえば、無実の娘の供養だけ。
こうして、佐野近世は後妻を離縁し出家する。
肥前国(佐賀県、長崎県)の「松浦山」に入り、松浦上人と名乗ったという。
残りの生涯をかけて、娘を弔ったとされている。
取材後記
奈良時代の悲劇といわれる「濡れ衣」説話。
じつは、先ほどご紹介した内容が大筋なのだが、後世に伝わる中には、微妙にディテールの異なるバージョンもある。
例えば、娘の死体が現在の能古島(のこじま)に辿りついたやら、佐野近世が娘を弔うために博多七堂を建立したやらである。
ただ、「濡れ衣」の語源となったといわれる大事な筋書きに関しては、大差はない。
娘が無実の罪を着せられ、父親に殺されたという部分だ。
それにしても、遥か昔の話ながら。
なんともやりきれないと、ため息が出る。誰も幸せにならない、悲劇としかいいようのない結末だ。
改めて「濡衣塚」の真正面に立つと。
色味がところどころ違う、大きな石碑が目に入る。
「康永三年銘梵字板碑(こうえいさんねんめいぼんじいたび)」。
「板碑(いたび)」と呼ばれる中世の石造物だという。
この話を知ったあとでは。
同じ景色でも、また違うモノの見え方になる気がする。
最初は、ただ、梵字が刻まれた不思議な石碑だなと。物理的にみて、非常に大きく珍しいなと。単純にそんな気持ちしかなかった。

だが、今は。
佐野近世という男の無念。
深い後悔と、弔いの気持ちが静かに伝わってくるように思う。
ちなみに、この板碑は福岡県の指定有形文化財となっている。高さは165cmと、大人の背丈ほどあり、玄武岩で造られているとか。板碑に刻まれた日付は、康永3(1344)年。南北朝時代に建立されたという。「濡れ衣」説話を知って、後世に建てたのだろうか。
気になるのは、正面にある梵字だ。
ずっと見ていると、梵字が浮かび上がってくるようだ。板碑の説明書きによれば、それぞれの梵字は以下の意味が表現されている。
最上段は大日如来(だいにちにょらい、バン)、右下が宝幢如来(ほうとうにょらい、アー)、左下が天鼓雷音如来(てんくらいおんにょらい、アク)
(「康永三年銘梵字板碑」の説明版より一部抜粋)
元々、博多区の「聖福寺」の西門近くにあったとされるが、その後、江戸時代には御笠川の東側、古地図の示す通り、小さな池の中に置かれていたようだ。そして、現在の場所に落ち着いたのは、平成12(2001)年のこと。河川の改修工事に伴って移されたという。

最後に。
じつは、ひとつ疑問がある。
ここまで書いてなんだが。
本当に「佐野近世」という人物は実在し、悲劇は起こったのだろうか。
一説には、奈良時代の資料の中に「佐野近世」という名は出てこないとも。また、『大和物語抄』『古今和歌集打聴』など、古典文学の解説書の中には「濡れ衣」説話は根拠がないとする記述もある。
このように、一部では否定的な見解があるのも確かだ。
ただ、平安時代以前、もしくはその付近で「濡れ衣」の語源となった何かしらの出来事があった可能性は高そうだ。というのも、『伊勢物語』など平安時代の文学の中で、既に「濡れ衣」という言葉は「濡れた衣服」ではなく「無実」という意味で使われているからだ。世間では「濡れ衣」と「無実の罪」が結びついていた。とするならば、あえてこの「濡れ衣」説話を否定しなくてもいいのではと、思わないでもない。
それに、個人的には、佐野近世と娘にまつわる「濡れ衣」説話を信じたい。
悲劇であるため、あまり大声では言えないが。
まるで、パズルのピースがぴたっとハマるが如く。
「濡れた衣」のせいで、「無実の罪」を着せられるから「濡れ衣」とは。説話が転じて語源となる流れが、あまりにも完璧すぎるではないか。
ただね。
いや、待て。
ちょい待て。待てい。
もうひとりのわたしが
パソコンのキーを打つ手を止めて、しばし夢想する。
もし、後妻が漁夫ではなく「農夫」に頼んでいれば。
もし、後妻が漁夫ではなく「猟師」に頼んでいれば。
無実の罪を表す言葉は、「濡れ衣」ではなく、土で汚れた「汚れ衣」や獣の「毛皮」とかになっていたかもしれない。
パラレルワールドの中の日常のひとコマ。
冷蔵庫にあったプリンを食べていないのに、食べたと疑われた時のひと言。
「ほんま、汚れ衣やし」
なんて、もうひとりの自分が呟いているかもしれない。
撮影/大村健太
参考文献
『伝説の九州 筑前の巻』 竹田秋楼著 積善館 1913年
『筑前の伝説』 佐々木滋寛編 九州土俗研究会 1936年
『福岡県史資料 続第4輯(地誌編 1)』 名著出版 1973年
『語り継がれる濡れ衣説話』 森誠子著 九州大学国語国文学会 2011年12月
『古地図から読み解く 城下町の不思議と謎』 山本博文著 実業之日本社 2017年11月
基本情報
名称:濡衣塚・康永三年銘梵字板碑
住所:福岡市博多区千代3-2-9
公式webサイト:https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/334

