そんな衝撃的な設定で始まる名著、カフカの『変身』。
その中にこんな一文がある。
──やけになって決心するよりも冷静に、きわめて冷静に思いめぐらす方がずっといいのだ
是非とも、このアドバイスをとある人々に捧げたい。
生き延びるだけでも過酷な戦国時代で、大変苦労した名もなき人々。
いつだって、彼らは捨て身覚悟の毎日なのだ。
そんな必死に生きる彼らにとって。
主君は、いつどんな時でも全身全霊で頼れる存在……のはず。
どんなカオスな状況でさえ、常に冷静沈着。
それはまるで、命綱のように太くて頑丈で……。
ということで。
今回は、そんなご立派な主君像を見事に体現したふたりの戦国武将をご紹介したい。
その名も「戦国武将爆笑エピソード集(冷静沈着編)」。
さても、どのような状況で冷静沈着な一面を披露したのか。
残暑厳しい今の日本だからこそ。
COOLな姿の戦国武将の逸話で、是非ともご一緒に涼もうではないか。
それでは、早速、ご紹介していこう。
※本記事は「蒲生氏郷」「徳川家康」「前田利家」「豊臣秀吉」の表記で統一しています
家康絶叫「皆の者。落ち着けいっ!」
まずは、最初のお方。
大河ドラマの中では、残念ながら少し腰が引き気味の一面も見せた武将。
江戸時代の礎を築いた神君、徳川家康である。
まあ、毎日、暑いのでね。
経歴やらなんやら、ダラダラせずにサクッと進めることにしよう。
言わずもがな、家康は天下人になった御仁である。天下統一を果たした豊臣秀吉亡きあと、戦国武将同士で腹の探り合いをしつつも水面下では器用に動き、最終的には「関ヶ原の戦い」で無事に天下を手中に収めることに成功。そこから約260年続く江戸時代が幕を開けるのである。

今回は、そんな家康の冷静沈着な姿をご紹介するのだが。
出典は、幕末の藩士である岡谷繁実がまとめた武将たちの逸話集『名将言行録』。そして、江戸幕府が編纂した『徳川実紀』より。『徳川実紀』は、初代「家康」から10代「家治(いえはる)」までの歴代将軍ごとの治績をまとめたものである。
一体、いつの頃の話かというと。
慶長4(1599)年3月のこと。時代背景としては、天下人のポストが空席であった時だ。
ちなみに、豊臣秀吉がこの世を去ったのは、慶長3(1598)年8月18日。その後、「関ヶ原の戦い」で勝敗が決するのが慶長5(1600)年9月15日。つまり、この期間、誰も政権の舵取りを独占していなかったというコト。
言い換えれば。
誰もが天下人になるチャンスがあり、狙っていたとも。
ただ、だからといって全員に等しくラッキーチャンスがあったワケではない。地理的要素、これまでの実績、人望など必須条件は多い。加えて、大きな影響を与えるのが運やタイミングを見極める眼力。
自然と天下人候補が限られてくるなかで。
その筆頭にいたのが徳川家康と、忘れてはならない秀吉のマブダチ、加賀藩始祖の「前田利家」。

先に答え合わせをすると、ご存知の通り、徳川家康が天下人になる。
ということは、利家は……。
出世レースに敗れ……ではなく、己の「病」に敗れたのである。
天下に近い男と言われながら。
利家は、ひと足お先に、あの世の秀吉の元へ。
慶長4(1599)年閏(うるう)3月3日(西暦で4月27日)に病死。
つまり、前置きが長くなったが、慶長4(1599)年3月(西暦で3月27日~)は、ちょうど利家が亡くなる約1か月前となる。この時期に、徳川家康は前田利家の見舞いへ。
『徳川実紀』には、このように記してある。
君(家康)も、やがて利家の大坂の館に向かわれ、先日利家が重病をおして伏見まで来たことを感謝された。利家は、大変喜び病をおして歓迎の宴を開いた。利家はそう長くは生きられるとは思わないので、(前田)利長、利政二子の身の行く末を頼んだ。この夜は藤堂高虎の家に泊まられた。
(『徳川実紀』より一部抜粋)
今回、ご紹介するのは。
この「前田利家の見舞い」……ではなく、藤堂高虎の家に泊まった夜の話だ。
ただでさえ、天下人不在の期間である。
天下を狙う戦国武将らが互いに目を光らせていた、そんな不安定な時期に、家康は大坂へ。いうなれば、その隙を突いて家康を出し抜きたい者には、絶好のタイミングといえるだろう。
なかでも、注目すべきはコチラのお方。
のちに「関ヶ原の戦い」で激突する「石田三成」である。

『名将言行録』には、こんな内容が記されている。
この夜、石田方から夜襲があるだろうという者があったので、家康もきびしく用心していると……
(『名将言行録』より一部抜粋)
ふむ。
やはり、石田三成に関するタレコミがあったか。
それにしても、家康も災難だ。他人の家に滞在している時に狙われるとは。
これは、神経を尖らせる状況だろう。だって、勝手が違うじゃん。人も少ないじゃん。つい、信長が討たれた「本能寺の変」なんかも思い出したりして。
家康も、その近臣らも、己に問いかけているはずだ。
石田三成よ。襲撃に来るのか、来ないのか。
こういう夜こそ、長く感じるものである。
そんな時に、である。
外から、信じられない音が……。
なんと、寝所の近くで「ときの声」が聞こえたというではないか。
「ときの声」とは、アレね。ダイソンの記事の中でよく登場する「ぶおおお~」というほら貝の音に続いて、兵士の皆さまが一斉に上げる「うおおおおお」というやる気満々の声ね。
屋敷の中で固まる彼らに、緊張が走る。
やはり、来たのか?
ホントに、来たのか?
慌てる近臣たちが驚いて家康に報告すると……。
さあ、ここからが。
本記事の最初の見せ場。皆さま、行きますぜい。
あくまでも冷静沈着を貫く家康のお言葉が、コチラ。
「こちらの間諜を数十人姦雄(石田三成)らの家に付けてある。彼らがいまもなおここに帰ってこないところをみると、あの声は敵ではあるまい」
(同上より一部抜粋)
フーッ(止めていた息を吐き出す音)。
なるほどなるほど。
っていうか、いつもながら。やるね、家康。
まあ、でもさ。
フツーに考えたら、そりゃ対策をちゃんと立てるよね。
特に、間諜(かんちょう、スパイ)を仕込んでいるあたりなんて、毎度のことながら、ふむふむとダイソンの首が上下しまくりである。家康の元に間諜が報告に来ないのだから、石田方には動きがない。そう、判断したのだろう。雰囲気にのまれないあたりが、流石である。

それだけではない。
さらに、もうひとつ。ここは、ダメ押しで。
家康の海より深い分析をご披露しよう。それが、コチラ。
「ここは船着き場だから、船頭や商人らの罵っている声であろう。もう夜が明けたのだ」
(同上より一部抜粋)
いやあ、久しぶりの戦国武将記事だからか。テンションが上がる上がる。上がってもう、天高く飛んでいき、見えないくらいである。
家康よ。
よくぞ、この場面で。分析で終わらず、冷静に答えまで出せたなと、感心しきりである。
「ときの声」ではないぞと。船頭らの声なのだと言い切るところ。カッケー家康、降臨である。
歴史を振り返ってみると。
いつの時代も、組織が瓦解するのは、トップが冷静さを失った時だ。
だが、家康は違う。
襲撃ではなく、船頭の声だと、答えをだしたのち。
落ち着いた声でひと言。
──もう夜が明けたのだ
はい、完璧。
涼しさの極み、ここにあり。
ダイソン、言うまでもなく、クーラーの温度を2℃上げたのであった。
キラリと光る蒲生氏郷の目
次にご紹介する方はというと。
織田信長のお気に入りの戦国武将、レオンこと「蒲生氏郷(がもううじさと)」である。
レオンって。
わたしが勝手につけた愛称ではないぞ。
キリシタンであったため、彼には洗礼名があるのだ。それがレオンである。
信長との最初の出会いは、人質としてである。
13歳で信長の元へ連れてこられた氏郷だったが、翌年には信長のお眼鏡にかなって、まさかの娘婿に。あの信長が自ら娘(冬姫)を嫁がせたのだから、それほどキラリと光る逸材だったのだろう。ただ、天下人になる素質を十分持ち合わせていながら、運やタイミングが合わず。信長亡きあと、天下人となった秀吉に臣従。多くの戦功をあげ、最終的には会津92万石の大名となる。
じつに勇猛果敢で、主君でありながら戦場ではどの兵士よりも率先して戦い、自分にも他人にも厳しい男であったとか。
一方で、人情味も厚く、和歌や茶の湯をたしなみ、千利休からは「日本一、二の大名」と評されるほど。「利休七哲(りきゅうしちてつ、千利休の7人の高弟)」の筆頭に挙げられ、文武両道を地で行く戦国武将のひとりである。

今回は、そんな蒲生氏郷の冷静沈着な姿をご紹介するのだが。
出典は『名将言行録』より。いつの頃の話かというと、秀吉の九州征伐後の話である。
織田信長亡きあと、あっという間に幾多の戦国武将を臣従させ、天下取りへと直進したのが豊臣秀吉だ。その終盤に行われたのが、九州、小田原、奥州(東北)の征伐である。天正14(1586)年より始まった九州征伐には、秀吉に臣従した多くの戦国武将が派遣されることに。もちろん、蒲生氏郷もその中のひとりであった。
そして、翌年の天正15(1587)年3月。
九州征伐の最後の総仕上げとして、秀吉自らが九州の地へ出陣。3月末には小倉城(福岡県)に到着している。
同年4月朔日(1日)、現在の福岡県田川郡にある「岩石城(巌石城、がんじゃくじょう)」攻めが、秀吉の前で行われた。先鋒は蒲生氏郷、前田利長。攻め落とすのが難しいといわれた岩石城も、僅か1日で陥落。やはり、レオン(暗殺者じゃないほう)という名からして只者ではない。
この「岩石城攻め」は上々の結果で終わったのだが。
意外にも、蒲生氏郷は武功をあげた家臣を何名か勘当している。理由は軍令違反。高名のために抜け駆けで戦ったことで、氏郷の怒りを買い、暇(いとま)を出されたのだ。
彼らは、このまま浪人の身になるのだが。
やはり、主君の元へ帰りたいとの思いは募るもの。密かにタイミングを見計らいつつ、あれやこれやと許してもらおうと努力をする。これは、戦国時代あるあるの光景で、かつて前田利家が織田信長に勘当され、のちに武功を認められて許されたのは有名な話である。
今回も、氏郷より勘当されて、のちに数名は許されるのだが。
そのうちのひとりが「西村左馬允(にしむらさまのすけ)」だ。蒲生氏郷と友好関係にあった細川忠興を頼り、その仲介で晴れて念願かない、帰参のGOサインが出たのである。
さて、またもや前置きが長くなってしまったが。
今回は、この西村左馬允の帰参にまつわるエピソードとなる。
帰参の翌日、左馬允がドキドキしながら出仕すると。蒲生氏郷から久しぶりにお声がかかることに。
それは意外なひとことだった。
なんと、相撲を取ろうと言い出されたのである。

これには、左馬允も困り顔。
じつは、彼は非常に力持ちで、相撲がかなり得意だったとか。だからこそ、一体、どうすればいいのかと困惑する。
『名将言行録』には、このような葛藤の気持ちが記されている。
「相手は殿だし、ことに帰参を許された翌日のことだ。これはおれを試してみようということであろう。もしおれが勝てば殿は機嫌を損ねるであろう。負ければおべっか使いの軽薄者といわれよう。どうしたものか、一生の浮沈がここにかかっているぞ」
(『名将言行録』より一部抜粋)
だよね。
やっとこさ、帰参した翌日だもん。どういう対応をすべきか、その後の展開を考えて、当然悩むよね。
ちなみに、これは、戦国時代に限った話ではない。現代でも、どこかに属していれば、色々と悩ましい問題が持ち上がるもの。上司や取引先などを相手に、どのように接するべきか。「忖度(そんたく)」という言葉が暗黙知となっている日本ならではの悩みかもしれない。
ここで、佐馬允はどうしたかというと。
ある決心をする。今後、同じような場面がまたしても来るだろう。その際に、毎回、揺れるワケにはいかないと。「人間は名こそ大切にしなければならぬ」と覚悟を決めて、己の信念を貫こうと考えたのである。彼からすれば「軽薄者」と思われるのが我慢ならなかったのだ。
こうして、全力で相撲を取り組んだところ。
案の定、左馬允は大事な主君、蒲生氏郷に勝ってしまうのである。
ささ、ここからが第二の見せ場ですぜい。
家康とはまた違った、氏郷の冷静沈着な姿がコチラ。
すると氏郷は「残念千万。もう一番」と四股をふんで立ち向かわれた。
(同上より一部抜粋)
怒ることもなく、茶化すこともなく。
真剣勝負の末に負けたことを真正面から受け止め、さらにもう一度と、相撲を挑んだのである。
なんだろな。
この爽快感は。
クール過ぎるだろ。
でもね、そんな風に思えるのは、主君である蒲生氏郷側からの視点なだけで。正直なところ、家臣である左馬允からすれば、地獄絵図でしかない。
だって。覚悟を決めて相撲を取り、皮肉にも主君に勝ってしまう。それでも、運が良ければこのまま無罪放免になるかもって……。そんな1ミリの希望も持たせてくれずに、はい、再試合だなんて。
いっそのこと、ダイソンなら失神するよ。
そんでもって、記憶飛ばせて、知らないふりするしかない。
だが、左馬允は、再び覚悟を決める。
「……ええままよ。怒りに触れるなら触れるがいい」と思い定め、少しも用捨なく立ちむかい、また勝った。
(同上より一部抜粋)
ちなみに、近くにいた家臣らは、左馬允に目配せしていたとか。
あんまり投げ飛ばすなとか、やり過ぎるなとか、手加減しろとか。恐らく、氏郷の機嫌を損ねて、巻き添えを食らいたくない家臣ならではの切実な合図だろう。
ただ、そんな仲間の気持ちは汲まれず。
やはり2度目も左馬允が勝利。とうとう、蒲生氏郷に連続して勝ってしまったのである。
それでは、ここでダメ押しで。
ダイソンが思わず「惚れてまうやろ」と唸った氏郷の言動がコチラ。
氏郷は笑って「汝の力はわしに倍する」といわれ、翌日家禄を賜ったということである。
(同上より一部抜粋)
あかんやん。
こんなところで笑顔出すなんて。
左馬允からすれば、最悪の結末を予想していたにもかかわらず、笑顔、そして家禄の加増。
もう、反則以外のなにものでもない。緊張と緩和。このギャップが、簡単に人を虜にする。
こんな対応ができるのも、己の感情に左右されず、相手の真意を汲み取り冷静に判断できたから。
すべては、冷静沈着な蒲生氏郷のなせる業(わざ)。
はい、おかわり。
涼しさの極み、さらに増す。
ダイソン、とうとう、クーラーを止めてしまったのであった。
最後に
今回の記事の締めには。
最初にご紹介した徳川家康のエピソードを補足しよう。
じつは、『徳川実紀』には、こんなウラ話がある。
この夜は藤堂高虎の家に泊まられた。石田は、同士の者たちを集め、藤堂の家を襲おうとしたが、これもとうとう果たせなかった。
(『徳川実紀』より一部抜粋)
えええ。
マジで、家康、狙われてたんかーい。
いやはや。
冷静沈着な姿の神君ではあったが。
運が悪ければ、なんと、石田三成側に襲われていた可能性があったというコトか。
実際に「船頭の声」でなく、「ときの声」だったら、一体、どうなっていたか。
神君:「皆の者、安心せい。あれは、船頭や商人の……。ぬおう、三成め!」的な。
そんな想像をして、汗をかくダイソン。
ちぇっ。
クーラー止めちまったじゃないか。
せっかく「戦国武将爆笑エピソード集(冷静沈着編)」で涼んだと思ったのに。
逆に変な汗が出て。
それが連日の猛暑のせいでかく汗と相まって。
汗が汗を呼ぶ結果に。
これだから。
あつーい夏に、あつーい戦国武将バナシは不向きなのである。
参考文献
『蒲生氏郷』 童門冬二著 学陽書房 2008年4月
『現代語訳徳川実紀 家康公伝1』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2010年12月
『現代語訳徳川実紀 家康公伝5』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2012年2月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
「戦国武将爆笑エピソード集」シリーズ一覧はこちら。

