だが、その麓にある国際墓地の存在は、あまり知られていない。
約2万㎡の敷地には、中国やオランダ、ロシアなど各国の埋葬地が並び、
なんならチャペルまで併設している国もあるとか。
そんな国際墓地を有するのは、まさかの寺。
「終南山 光明院 悟真寺(ごしんじ)」である。
この悟真寺を開山したのは「聖誉玄故(せいよげんこ)」上人。
(※以降は「開山上人(かいさんしょうにん)」と表記する)
キリシタン全盛期の長崎に。
仏教再興を志し、仏像を背負ってひとりやってきた僧である。
それにしても、疑問がひとつ。
なぜ、長崎で仏教再興の最初の寺となった「悟真寺」は、広大な国際墓地を有するに至ったのか。
その理由がどうしても知りたいと、寺を訪ねた。
ということで、今回の「ダイソンの寺社探訪」シリーズは長崎県へ。
取り上げるのは、浄土宗「終南山 光明院 悟真寺(ごしんじ)」である。
JR長崎駅からだと、ギリギリ徒歩圏内の距離だろうか。
ただ、途中には坂道もあって20分弱はかかる。そのためバスがおススメだ。
浦上川を越え、稲佐山の案内板を通り過ぎ、そのまままっすぐ進むと。見えてきたのは、長い塀とその先にある独特の山門。長崎市内の唐寺で見られるような、異国情緒あふれる山門だ。

正直なところ、この山門を除けば一般的な九州の寺と、そう大差ない。
立派な本堂に境内の蘇鉄……。にしても、件の「国際墓地」は見当たらず。
一体、どこにあるのか。いや、そもそも、どうして寺の敷地に各国の埋葬地があるのか?
尋ねたいことは山ほどある。
今回の取材で、きっとその答えが得られるはずだ。さらには、新しい出会いや発見を期待して。
それでは、早速、ご紹介していこう。
※本記事の写真は、すべて「悟真寺」に許可を得て撮影しています
開山上人の揺るぎない覚悟
「稲佐山登山道路のバス通りに、(昔は)その上の方に洞窟があったんですよ。昼は身を隠し、夜になったら念佛の教えを広めて。開山上人はそこで教えを説いてたんです」
こう語るのは、悟真寺第二十四世「木津章史(きづしょうし)」住職だ。
今回の取材を快く引き受けてくださった。

開山上人が身を隠さねばならない理由。
それは、当時の長崎がキリシタン全盛期だったからだ。
江戸時代、禁教令の下で苛烈なキリシタン弾圧が行われていたが。
じつは、その少し前では、逆に仏教や神道が迫害を受けていた。まさに日本にキリスト教が伝来し、信者が急速に拡大していく頃の話である。
特に長崎は、日本最初のキリシタン大名である大村純忠(おおむらすみただ)が長崎港を開港し、キリスト教布教と南蛮貿易の中心となった場所だ。当時は布教の障害になるとして、長崎及び付近の神社仏閣は次々に焼き払われ、さらに神官や僧侶は領外に追放、仏像や仏具、経典の類も焼却されたという。
──長崎では仏教すべてが廃絶し、念仏一遍も唱えられず
そんな惨状を知った開山上人は、長崎での仏教再興を決意。恐らく40歳前後だったと推測される。悟真寺の寺伝によると木像「阿弥陀如来一軀(伝恵心僧都作)」を背負い、ひとり長崎へ。大本山善導寺(福岡県久留米市)を出発し、日見峠を経て長崎の町に入ったのである。

だが、想像以上に現実は厳しかった。
礫石(つぶていし)を投げられ、竹槍で突かれるなど何度も生命の危機に瀕したという。
かつて武士だったとされる開山上人であっても、孤立無援の状態ではなかなか難しい。そこで、悟真寺より山手にあった洞窟(岩窟)を拠点にして、夜に活動したようだ。
「当時は、洞窟の付近を地元の人たちは『不断(ふだん)の丘』って呼んでね。というのも、お念佛の声が『断つことがない』『途切れることがない』っていう『不断』。多分地元の人だけでしょうね。そう呼んでたのは」とご住職。
なお、この洞窟は明治40(1907)年頃まで実際に残っていたというが。今では壊され、その場所には稲佐公園が造られている。
こうして、慶長3(1598)年。
当時の長崎奉行である寺沢広高の許可を得て一寺を建立。
開山上人が長崎以前にいた筑後の大本山善道寺、その善導大師ゆかりの寺(現在の中国の西安)の山号、院号、寺号をそのまま賜り「終南山 光明院 悟真寺」と命名された。
これが、長崎で仏教再興の最初の寺となったのである。

それにしてもひとつ気になるのは、背負ってきたとされる仏像である。
まさか……ねえ。そんな大事な阿弥陀如来像が今も残っているなんて……。物は試しと訊いてみると。
「ありますよ」とご住職。
おっと。それなら。
まさか……ねえ。その御尊顔を拝ませていただけまいかと……。再度訊いてみると。
「見れますよ」とふたつ返事。
早速、ご案内していただいた。
コチラが、今から400年以上前、開山上人が長崎まで背負って来られた仏像である。
まずはしっかりと手を合わせ、合掌。
その後、ゆっくりと御尊顔を拝ませていただいた。

最初に浮かんだのは「意外と大きいな」という感想。
福岡から長崎まで、それも背負ってというからには、もっと運びやすいサイズかと勝手に思っていたが。これでは人ひとり担ぐようなもの。それでも仏教再興という開山上人の信念の方が勝ったのだろう。
「実際に持ってこられた時は、後ろの舟形光背(ふながたこうはい)は多分なかったと思うんですよね。(開山上人は)久留米の大本山善道寺から自分で背中に背負ってきた仏様を、ずっとお参りしてたんですよ」
すべてを包み込むような優しいお顔である。
苦難の連続の中で、この阿弥陀如来像が、開山上人の心の拠り所だったように思う。
だが、人生とは面白いものだ。
しばらくして、思ってもみない縁から新しい仏像をお迎えすることに。
その立役者が、中国大陸から渡来したふたりの貿易商。
彼らが始まりだったのである。
見目麗しい中国の仏像
ふたりの名は「華宇欧公」と「張吉泉」。
じつは彼らの位牌には「開基」の文字が。寺院の開創に協力したという意味だ。
現在、本堂の開山上人の位牌の隣に置かれている。

「開山上人が洞窟に身を隠し教えを広めている時に、この『華宇欧公』と『張吉泉』が来て、仏教的な話を聞きたいとね」とご住職。
「華宇欧公」は貿易商、「張吉泉」は明より亡命してきた身であったとか。
長崎に来たのはいいが、まさかの寺院がひとつもない。そこで、彼らは当時唯一の寺であった悟真寺を頼ったという。何度も開山上人の話を聞くうちに、その徳を慕って檀家となったのだ。それだけではない。日本にいる唐人たちの菩提寺になって欲しいと願い出たのである。
慶長7(1602)年。
両名の働きかけで代官や庄屋、唐通事(通訳)らの協力を得て、遂に江戸幕府より許可がでる。
こうして、悟真寺は唐人の菩提寺と認められ「百間四方(左右に百間ずつという意味で4万坪とも)」の朱印地を寺地として賜ったのである。
その寺領こそ、現在の悟真寺のある場所一帯だ。
南北朝時代にこの地を統治していた稲佐氏の館跡ともいわれる場所。実際に、悟真寺の境内には、稲佐氏の時代に「聖井戸」と呼ばれていた古井戸もある。

さらに、である。
「このふたりが、今度、中国から『阿弥陀三尊佛』の仏様を連れてきましょうって言ってね。連れてこられたのが御本尊。今も安置されていて。およそ420年前の仏様で、明の末、清の初めだから『明末・新清』時代の仏様なんです」
なんと、まあ。
ごくりと唾をのみ込んだ。
御本尊が中国の仏様だなんて。なかなかお目にかかれない。
一体、どんなお姿なのか。話そっちのけで、気もそぞろ。
「やっぱりお姿がね。日本へ船に乗せて連れて行くから、服装が違うんですよ。普通の仏様は、ころもを着てお袈裟(けさ)をかけてるでしょ。でも、三尊佛は旅姿。雨とか風に耐えれるような服装、そこまで取り計らってつくられたのかなって想像します」
そんな話をされると、余計に興味が……。
なんとか、その貴重なご本尊のお姿を拝ませていただけないかと、再び訊くと。
「もちろん」と即答。
それでは、ご紹介しよう。
コチラが悟真寺の御本尊「阿弥陀三尊佛」である。

「服装が違うでしょ。お腹のところに紐があって。作務衣タイプでしょ。右の方が『観音菩薩』、お慈悲の仏様。そして左の方が『勢至(せいし)菩薩』、智慧の仏様ね。真ん中の『阿弥陀如来様』はすべての人をお救いになられる仏様」
まず、もって。
手を合わすコトも忘れて、そのお姿に圧倒される。
とっても煌びやかで。それでいてシック。
たまに「極彩色豊か」と表現されている仏様がいらっしゃるが。
悟真寺の御本尊は、赤色や緑色などがメインではなく、金色と青色がベース。だからだろう。「煌びやか」なのに「シック」という相反する印象を受ける。
そして、おっしゃる通り。胸の下辺りに紐を発見。服装や髪型、お顔つきなどが、これまでの見慣れた仏様とはどこか違って見える。

おっと。
近付くと、恐れ多くも目が合ってしまった。
遠目では分からなかったが、薄く目を開けていらっしゃるようだ。
「いろんな仏様の顔を見てきたけども、(渡来仏は)お顔が若いんですよ。若い仏様を送ってあげたかったということですよね」とご住職。
いわれてみれば。
確かに……お若い……ような。
具体的に何がどうというワケではないのだが。しっとりした円熟味みたいなものが少々薄い気もする。その代わり、仏様に対してこのような言葉がそぐわないのは百も承知だが。「元気溌剌(はつらつ)」、そんな前向きな印象を抱く。
ご住職の説明がさらに続く。
「長崎には崇福寺とか興福寺とか(唐寺が)あるけども、うちの中国の仏様とは全然違う。あちらは媽祖(まそ、航海安全の神様)系でしょ。頭とかが全然違うんです」

それにしても、不思議だ。
つい、そのお姿に目を奪われる。
なにより不可解なのは、拝んでいると、心穏やかになるというよりは、前向きな温かい気持が自然と湧いてくるコト。この感情は自分でもよく分からない。それほどまでに、何か訴えるモノがあるのだろう。
「(阿弥陀三尊佛は)原爆の被害を免れてね。当時、本堂左側の『観音堂』にちょうど避難されてて無事でした。(当寺に来られてから)もうずっと、ここのままのお姿。金箔の張り直しとかも一切なしで、400年前のまま。だからちょっと剥げてるけども、これが400年の歴史でしょうね」
本堂は爆風で吹き飛び、現在のお堂は、先代が以前の本堂と全く同じ形で再現したという。
本堂と観音堂は目と鼻の先。だが、コチラの「阿弥陀三尊佛」は奇跡的に被害を免れて、今、こうして私たちの前にいらっしゃる。
その意味するところがすぐには理解できなかったが。
「中国から来られた仏様」に加えて。
目の前には「400年を超える年月」と「原爆の被害なし」という現実。
これらが見事に重なり、いつの間にか「奇跡」という言葉が胸にじわじわと広がった。
ことさら、二重三重に有り難いと感じたのである。
各国の埋葬事情
さて、話題はようやく「国際墓地」へ。
長崎に国際墓地は3か所あるが、悟真寺以外は長崎市が管理している。横浜市や神戸市、函館市にも国際墓地はあるようだが、こちらも同様に市や財団が管理者だ。こうなると、悟真寺の国際墓地はかなり特殊な事例といっていいだろう。
件の国際墓地の場所はというと。
寺に掲げられた「終南山光明院悟真寺境内絵図」で位置を確認。右下にあるのが「本堂」、左上にあるのが「国際墓地」。なるほど、本堂の裏手、山側に向かって段々畑のように国際墓地が広がっている様子が分かる。かなりの敷地面積であろう。

これで国際墓地の位置は大体分かったが。
各国の埋葬地、特に個人の墓の場所を特定するとなれば……。
ちなみに、探しているのは、開基に携わった「華宇欧公」と「張吉泉」の墓だ。
悟真寺が彼ら唐人の菩提寺となって以降のこと。
集会所のように悟真寺には人が集まり、結果的に長崎の華僑社会が形成された。徐々に檀徒も増加し、付随して「唐人墓地」もつくられたそうだ。現在も彼らは、この地に眠っているという。
「もうこれがないとやっぱり難しい、見つけきれないですね」とご住職。
手にしていたのは、国際墓地全体の地図。ただ、「華宇欧公」の墓はあまりにも古くて小さいため、見つけるのは難しいとのこと。

もちろん比較的新しい墓もある。
実際に、墓参りに来られる方も。
「現存してる長崎新地の華僑、それと九州内の華僑、遠くは広島や鹿児島くらいまでの人は来ますね。今年も4月の初旬ぐらいかな。『清明節(チーミンセツ)』という先祖の慰霊祭をするんですよ。拝台(おがみだい)に華僑の人たちが集まって。供え物(鯛のから揚げや豚肉角煮など肉、魚、カニ、エビの料理)を持ってきてね、墓参りが済むと自分たちで作ってきたお弁当を食べたりして。爆竹を鳴らすんですよ」
同じ故郷の人たちが集って先祖を偲ぶ。
爆竹の音が弾けて、それはとても長崎らしい光景なのだろう。

かたやオランダはというと。
「オランダは年に1回、慰霊祭をしてますね。10年ぐらい前から始まって、今もです。今年は5月の末に来たんですけども、その時は掃除するんですよ。でも、今は雑草が伸びてね……」
国によって、こうまで違うとは驚きだ。
さらに、ロシア人墓地の場合は様子が違うという。
「ロシアは定期的に大木を切ったりとかね。綺麗にしてます。また不定期ですが、神父さんを連れて来られて、チャペルで法要をします。1回の法要が4時間くらい。ロシアのお香を焚いて。鎖がついてて、それを揺らしながら敷地内を廻って。『パニヒダ(追悼の祈り)』っていう聖歌を詠んで、それがもう、なんていうか……オペラの様な感じで。結構大きな声なんですよね」

本堂にまで聞こえてくるというから、相当な声量なのだろう。
各国の事情がここまで違うとは。やはり国際墓地ならではのエピソードである。
こうして、ある程度の情報を得たところで。
満を持して国際墓地へ。いざ参ろうではないか。
中国人墓地
まずは「中国人墓地」のご紹介である。
それにしても、野良猫の鳴き声がスゴイ。
スマホ片手に、地図の画像を見ながら石畳の階段をのぼる。
中国人墓地は何区画にも分かれており、かなり広い。
そして、遠目からでもかなり年季が入っているコトが分かる。

ようやく、お目当ての区画に到着。
ここで、ご住職の言葉が甦る。
「『華宇欧公』の墓は、恐らく古くて小さくて見つけにくいよ……」
いやいや、わたしの執念でなんとかと思ったが。
想像以上に、夏場を越えた墓地はかなり危険。なんといっても雑草がかなりの高さに到達。久しぶりのヒトの血を求めて蚊の大群が襲来。もちろん、カメラマンを先に投入して捜索の指示を出すのだが……。
「いや、ムリじゃね?(カメラマン)」「ムリじゃないです!(ダイソン)」という問答をひたすら繰り返すこと10分。
やっと「華宇欧公」の墓の目星をつけたはいいが、今度は墓石の字が判読できず。いや、よく考えれば、判読できたところで、中国語って読めるのか……という問題が。
結果として、こんな画像で落ち着いた。
その名も「『華宇欧公』の墓周辺」である。

オランダ人墓地
次に隣の通路へと移動。
「オランダ人墓地」へと歩を進める。
レンガ塀をつたって。
緩やかな石畳の坂道をのぼっていくと、どっしりとした門が見えてきた。
オランダ人墓地である。

雑草が伸びてはいたが、なんとか足場は確保できそうだ。
そろそろとお邪魔する。
そこまで墓の数は多くないようだ。大きさもまちまち。中には風化して碑銘が判別できない墓もある。
鎖国中にもかかわらず貿易の許可が与えられていたオランダ。
だが、決して待遇が良かったワケではない。既に禁教令が出されており、来日したオランダ商館の人たちは、たとえ死んでも陸上での埋葬が許されていなかった。つまり、当時は重石をつけての水葬だったのである。そのため、歴代の商館長は幕府に埋葬許可の陳情を出し続けたという。
そして、遂に埋葬の許可が出るのだが。
さすがにオランダ商館の人たちが暮らす「出島(でじま)」では狭すぎるということで。白羽の矢が立ったのがこの悟真寺だ。これがオランダ人墓地の始まりだ。当時の禁教令の影響で、異国の人であっても浄土宗の葬儀で弔い、戒名まで授けた場合もあるとか。
ちなみに、年代が古いとされるのが。
オランダ商館長の「ヘンドリック・デュルコフ」の墓だ。
じつは、彼は日本で亡くなったワケではない。オランダ商館長として2度目の着任を予定し、日本へ向かう航海中に死去。そのまま日本に到着後、悟真寺に運ばれたようだ。安永7(1778)年に葬られ、碑銘の中には十字架が彫られている。

ロシア人墓地
駆け足となるが、最後にご紹介するのが「ロシア人墓地」である。
オランダ人墓地のさらに上、そのまま坂道を進んでいくと、見えてくるのがコチラの門。

まず、開錠するのに、ひと悲鳴。
鍵穴付近で動く黒い影。小さなヤモリの出迎えに、どっと汗が出る。
確かに、おっしゃる通り。
ロシア人墓地には、人の手が入っているのが分かる。
門の近くには墓の案内板が設置されており、誰の墓なのかが一目瞭然。

そして、とにかく広い。
ロシア人墓地の中には階段があり、三段に分かれているようだ。
一番上には、先ほどご紹介したチャペルも見える。
ロシア人墓地の始まりは、幕末期である。
嘉永6(1853)年、ロシア海軍提督プチャーチンが、開港を求めて長崎に来航。最終的には上陸許可が出て、悟真寺付近に留まるワケだが。その際に、死亡した将兵らを埋葬したことがロシア人墓地の始まりだ。その後、多くのロシア人のご遺体が葬られ、その数は一千体以上という。

こうしてすべての墓地で手を合わせ、お騒がせしましたと一礼。
これで今回の取材の撮影が終了した。暑い中での墓の捜索、蚊との攻防戦など、とかく骨の折れる現場であった。
だが、残念ながら。
受難は終わらず。知らぬ間にカメラマンの靴底には野良猫のフンが。それもご丁寧に両足だ。
最後は「ダブル大当たり」というオチで、取材を終えたのである。
取材後記
長崎には「和華蘭(わからん)文化」というものがある。
「和」である日本、「中華」の中国と「蘭国」のオランダ。これら3つの国の文化が長崎にあって根付いていると。
だが、悟真寺はさらに上をいく。
ご紹介したのは中国、オランダ、ロシアの墓地だが、じつはそれだけではない。アメリカやイギリスなど多くの異なる国籍の人たちが、悟真寺の国際墓地に眠っている。
浄土宗という宗派であっても、他の宗教や人々の信仰を排斥しない。受け入れて互いに認め合う、そんな姿勢を貫く悟真寺。
これは宗教だけの話ではない。
人間として「個」を尊重し認め合う。決して容易くはないが、それが究極の理想の生き方なのだと、取材を振り返って確信した。
取材の最後。
ご住職はこんな言葉を残されている。
「コロナが落ち着いても、今はね、人が集まることを嫌って法事をしなくなったり、寺まわりも少なくなって。家族で簡単にみたいな感じが多くなって。(気になるのは)寺離れ。若い人がもっと寺とかご先祖を知る必要がありますね」
今回、悟真寺を訪れて。
取材をしながら、ずっと心に感じていたコトがある。
それは「やさしさ」。
寺の歴史から飾られた中国の書まで、ひとつ残らず丁寧に教えていただいたご住職のお人柄。宗派など関係なく多国籍の人たちが眠る国際墓地。海をわたって来られた煌びやかな御本尊の横顔など。言葉にはできない、そんな「やさしさ」を随所に感じたのだ。
個人的には。
機会があれば、是非ともこの悟真寺の「やさしさ」に触れてほしいと思う。
きっと若くてステキなご本尊が迎えてくれるはず。
いつだって、寺の門は開かれているのだから。
参考文献
『悟真寺とその国際墓地』(悟真寺第二十二世 故木津義彰師)
基本情報
名称:悟真寺
住所:長崎県長崎市曙町6番14号
公式webサイト:なし
「ダイソンの寺社探訪」シリーズ一覧はこちら。

