ガイドブックがあれば、まず旅の計画が立てられる。店の名前が分かっているから迷子になっても安心。なにより、気持ちが高まる。どのガイドブックもおもしろくて、にやにやしながら読んでしまう。
古びた史料、過去の遺物と侮るなかれ。江戸時代は歴史の彼方ではない。いまも東京に息づいている。時空散歩の気分を味わいながら奇譚に満ちた江戸へ、いざ出発!
江戸を歩くならこんなふうに
江戸時代の怪談や奇譚、伝聞の類が好きで、よく読む。この時代の、さまざまに趣向のこらされた物語からは、人びとが読むことと語ることを満喫していたのが伝わってくる。いったいどんな人たちが暮らしていたのだろう。江戸時代の東京はどんなところだったのだろう。訪ねてみたいけれど叶いそうもないので、ガイドブックを開いて想像してみる。
江戸の街では、野鳥のさえずりが聞こえる。池があり、木々の植えられた庭園がある。これだけ豊かな環境なら何種類もの水鳥が集まり、蝶やトンボが空を飛んでいただろう。
町人階級に経済力がついた江戸時代は、食文化も豊かな時代だった。料理茶屋をはじめ、かしこまらずに手軽に食べられる屋台もたくさんあった。しかも江戸は買いものするのにうってつけの名店揃い。
人と自然が調和する街。花鳥風月の名所を巡り、美味しいものを食べて、お土産を探しに出る。そんな旅を、私もしたい。
なんといっても、まずは『江戸名所図会』

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/2563380/1/27)
江戸のガイドブックといえば『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』。ほかのすべてのガイドブックが売り切れていても、これだけは手に入れるべき。なにせ江戸地誌の集大成と評されているくらいである。
編者は斎藤幸雄、幸孝、幸成の親子3代。30年以上もの年月をかけて完成した本書(いや尊敬の意をこめて本作と呼ぶべきか)は、なんと全7巻20冊にもなる大作。旅行先へ持って行くのは、ちょっと気がひけるので家でしっかり読みこんでいこう。旅は、出発する前から始まっているのだ。
江戸とその近郊の絵入り名所地誌である本書は神社・仏閣、名所、古跡の沿革にかなり詳しい。というのは、実地調査をしたうえで作られているからで、つまりかなり信頼できるということ。
ちなみに幸孝が実地調査をしたときの記録は『郊遊漫録』にまとめてある。これも読み応えのある史料なのだけど、話すと長くなるので、ひとまずは『江戸名所図会』の話。
これは私の個人的な考えだけど、旅は街を知ることから始まる。
自分の目で見て、聞いて、食べた経験がそのまま記憶になる。だから、ただぼーっと街を歩いていたのではもったいない。
私のように歴史的な背景も知りたいという欲張りな旅人は、『江戸名所図会』から入るのがいい。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/2563381/1/20)
『江戸名所図会』をいっそう魅力的にしているのが長谷川雪旦の描いた挿絵。生き生きと描かれる行事、雄大な光景。精密な描写が、まだ知らぬ江戸の様子を立ち上がらせる。王道にして正統派のガイドブックである。
江戸通が語る名所めぐり『古郷帰の江戸咄』
わざわざ江戸まで出かけたのだし、思い出をたくさん持ち帰りたい。思い出はいくらあっても困らない。荷物にならないし、お金もかからない。しかも家族や友人と共有できる。そんな便利なお土産といえば、そう「土産話」である。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/2587057/1/14)
書物自体が土産のようなガイドブックがある。
ガイドブックを書くような人はかなりの江戸通であるはずで『古郷帰の江戸咄(こきょうがえりのえどばなし)』の筆者も、長年江戸で暮らしてきたひとり。題名のとおり、故郷へ帰るまえに土産話にでもなればと名所を巡り、記したのがこの一冊。
土産になる話を探しているなら『江戸名所記(えどめいしょき)』もおすすめ。
江戸の絵入り名所案内としてはもっとも古いので内容は限定的だが、江戸城を中心に江戸の名所が81か所も紹介されているし、神社仏閣の沿革や伝説、縁起にも詳しい。情報としては充分すぎるくらい。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/2554337)
この名所記、筆者は浅井了意とされている。
浅井了意といえば怪異譚・奇譚で有名な小説集『御伽婢子(おとぎぼうこ)』。私の愛読書である。江戸時代の怪異小説流行の先駆けとなった本でもある。そんな人物が書いたガイドブックとなれば、それだけでも話の種になることまちがいなし。
ちなみに浅井了意は京都の出身。江戸の魅力を江戸の外から語ることのできる貴重な人物である。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/2554337/1/24)
本書によれば、春の陽気に誘われて出かけた著者は友人と出会い、話の種になるものをと探して、てきとうな茶屋で江戸の名所めぐりの順番を決めたとか。なんとも人間くさいエピソードである。
買い物がメインの旅なら『江戸買物独案内』

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/8369320/1/2)
書名に「ひとり」とあるけれど、なにも一人旅専用のガイドブックというわけではない。
ここには商店や飲食店を中心に2622もの店が紹介されている。
今となっては聞き馴染みのない店もおおく、たとえば錦絵(浮世絵版画)や草双紙(絵入りの短編小説)を出版する版元の「地本問屋(じほんどいや)」。
和本はもちろん、仏書や唐本を取り扱う書物問屋も載っている。読んでいるだけで、行きたくてうずうずしてくる。ちなみに江戸のガイドブックではあるけれど、刊行されたのは大阪。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/8369320/1/28)

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/8369320/1/186)
江戸での買いものをお手伝いしてくれる本書は、ガイドブックというよりもショッピングガイドにちかいかもしれない。
掲載するのに料金がかかったので、未掲載の有名店もあるだろうけど、とはいえ江戸の有名店はひと通りおさえているから心強い。
ショッピングガイドというのは読んでいるだけでもウキウキするものだけど、店印や広告文を掲載した『江戸買物独案内』もそんな一冊。視覚的にも楽しくて、旅行から帰ったあとでも手もとに残しておきたくなる。
食べ歩きするなら『江戸名物酒飯手引草』

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/2533095/1/65)
タイトルからして名ガイドブックの予感がする。そして『江戸名物酒飯手引草(えどめいぶつ しゅはんてびきぐさ)』は期待を裏切らない。
有名店を掲載したグルメガイドブックは現代にもあるけれど、江戸時代の人たちもまた店の番付を気にしながら料理を堪能していた。いつの時代も、誰だって、おいしいものには目がない。
「江戸名物酒飯手引草」には、貸座敷御料理(料理茶屋)にはじまり、お茶漬け、蒲焼、どじょう、寿司、そば、などがジャンルごとに紹介されている。
江戸はそばの名店が多かったらしく、どこへ食べに行こうか迷ってしまうほどの掲載数である。
個人的おすすめ『紫の一本』

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/2575104/1/59)
街歩きを楽しむ案内書にもうひとつ加えたいのが『紫の一本(ひともと)』。
ふつうのガイドブックとはひと味もふた味もちがう。そもそもタイトルの『紫の一本』は『古今集』の有名な古歌の「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」からつけられたもの。
文学的センスがきらりと光る江戸名記。期待も高まる。タイトルも凝っているが、内容もかなりユニーク。
本書は、ふたりの仮想人物が歌問答をしながら気の赴くまま江戸を渡り歩くという、なんとも遊覧気分に満ちた構成。道中さまざまなことが語られるのが楽しくて、つい読みすすめてしまう。
「辻番や門の犬にさまたげられ」おちおち話もできなかったり、「武蔵野は行けども家の果てもなし」という歌からは当時の武蔵野の情景が見えてくる。どこまで行っても人家が目に入る、といわれると今の東京と変わりないな、と思うかもしれないが、江戸をめぐるふたりが期待していたのは一面の草野原。こんなに家ばかりなのかという驚きが伝わってくる。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/2575104/1/3)
ささやかなことだけど、地名を「谷」や「橋」というふうに分類して表記してくれているのも、ありがたい。行きたい場所がすぐに調べられるようになっているから名所記としても、読みものとしてもかなり優秀。おもしろくて読み手にも優しい、一粒で二度おいしいガイドブックである。
まだまだ終わらない江戸のガイドブック
紹介しきれなかった江戸のガイドブックはまだまだある。
江戸地誌として、もっとも流布された『江戸砂子(えどすなご)』にも目を通しておきたいし、江戸の花鳥風月をたしなむなら『みやびのしをり』は外せない。しかもこのガイドブック、折畳式小冊子なので畳めば一筆箋ほどの大きさになるコンパクトサイズ。なにかと荷物がおおくなりがちな旅行者にとってはありがたい。持ち歩きやすいガイドブックを探している人にはおすすめ。
かわいいもの好きなら『寺社境内名物集』は必須。江戸時代の寺社の名物品を収録した一冊で、参拝者向けに売られたお土産が掲載されている。現代人でも欲しくなる品々ばかりで、本当にこんなものが売られていたのかと疑いたくなる。
江戸の名所をめぐり、買い物をして、美味しいものをお腹いっぱい食べて、一生の宝物になるお土産を手に入れて、ついでに物語も楽しむ。江戸のガイドブックは懐が深く、奥も深い。
【参考文献】
『江戸名所図会』(著)松濤軒斎藤長秋(画)長谷川雪旦、天保5~7(1834~1836)年刊行
『古郷帰の江戸咄』(著)鎰屋平石衛門ほか、貞享4(1687)年刊行
『江戸名所記』(著)浅井了意、寛文2(1662)年刊行
『江戸買物独案内』(編)中川五郎左衛門、文政7(1824)年刊行
『江戸名物酒飯手引草』嘉永元(1847)年刊行
『紫の一本』(著)戸田茂睡、正徳4(1714)年刊行
『江戸砂子』(著)菊岡沾涼、明和9(1772)年刊行
『みやびのしをり』北島順四郎、天保5(1834)年刊行
『寺社境内名物集』制作者不明、江戸時代
(上記すべて国立国会図書館デジタルコレクション)

