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2019.11.26

戦国時代、侍と武士と武将と大名…何がどう違うの?歴史のプロに聞いてみた!

この記事を書いた人

「下克上って頻繁にあったの?」「討ち取った首ってそのあとどうするの?」えっ…そこから?! なんて言わないで! 歴史の知識ほぼゼロな和樂web編集部スタッフが、ず〜っと気になっていた戦国時代の疑問を、歴史のプロに聞いてみました。

回答は、和樂webのライター・辻 明人さん。質問は、和樂web編集部(コパ子、きむら、とまこ)です。

辻さんを取り囲む3人。左から、兜をかぶっているのがコパ子、紺色の羽織を着ているのがきむら、右の赤い羽織を着ているのがとまこ。3人とも歴史に関しては、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康をなんとな〜く覚えているくらいの知識量。

【辻 明人さん プロフィール】

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。

おさらい!戦国時代って何?

諸説ありますが「応仁の乱(1467年~)」が始まってから「大坂夏の陣(1615年)」が終わるまでの約150年間を指します。当時は足利将軍の力が弱まり、全国に戦国大名が現れて、誰でも野望を持つことができました。武士でなくても、実力と才覚次第で出世、あわよくば天下統一を目指せる。乱世をさまざまな武将たちが各地で奮闘していました。

(詳しくは「何をしたら天下統一なの? 戦国時代の疑問、歴史のプロに聞いてみました!」で解説)

武士と武将、違いがわからない!

― 「侍」と「武士」と「武将」って何が違うんですか?

侍と武士は今ではほとんど同じ意味です。ただし、ふたつが同じものを意味するようになったのは江戸時代からで、もともと「侍」は京都の貴族の側に仕えた、ガードマンである「さぶらう」がルーツでした。江戸時代より前は、武士の中でも上級の人しか侍とは呼ばれなかったようです。

一方の武士については諸説ありますが、平安時代の後半頃から、地方で土地を武力で支配する豪族たちが現れます。これが武士の始まりの一つの説。また、中央で出世が望めない下級貴族が京都から地方に下り、豪族たちと結びついて、「武士団」が生まれました。有名なのが源氏や平氏です。

次に武将についてですが、武将の「将」は、現代でいうところの「長」にあたります。例えば総大将がいて、その下に侍大将がいて、足軽大将がいる。会社でいうと…社長がいて本部長がいて部長がいる。つまり武将は、多くの部下を持って、部隊を率いる武士ですね。アバウトですが、区分するとこんなかんじです。

― 「大名」は「武将」とも違うんですか?

国やその一部の土地を所領にし、家臣を率いて勢力を持っている武士のことを大名と呼びます。戦国時代の大名は、武将の区分でいうと総大将にあたる人が多いですが、江戸時代に入ると基準が定められて、1万石以上の所領を持っている武士を指しました。

聞いたことあるけど「下克上」って何…?

― いちまんごく…?

まあ1万石といっても、どのぐらいの規模かわかりにくいですよね。1石は大体、成人男性が1年間に食べるお米の量です。つまり1万石は単純に考えれば、1万人の人が1年間食べていけるお米が穫れる領地のこと。もちろん収穫がそのまま大名の収入ではなく、税率が40%とすれば収入は4,000石。

1万石の大名が、いざ合戦で動員できる兵数は200人程度です。関ヶ原合戦に参加した主要武将はみんな2,000人以上の軍を率いていますから、1万石は決して多いとはいえません。江戸時代は、3万石以下の大名は城を持つことが許されませんでした。

大名の存在をさかのぼると、室町時代に足利幕府がそれぞれの国の統治をまかせた有力者に「守護」という役職を与え、彼らは守護大名と呼ばれました。

― しゅ、しゅご…?

わからない言葉の連発にとまどうきむら

文字は守護霊の守護です(笑)! 今でいう山梨にあたる「甲斐国の守護」とか、新潟にあたる「越後国の守護」という言い方をして、守護大名が国のトップでした。で、その国のNo.1の守護大名を補佐する、No.2に「守護代」という役割があるんですが…

戦国時代になると、室町時代に守護大名だった家が、戦国大名になる例があります。有名なところでは甲斐の武田家、現在の静岡県にあたる駿河の今川家。一方、越後の長尾家はNo.1である上杉家を支える守護代だった。ところが上杉家が絶えてしまった。それでNo.2である長尾家がトップに立って、長尾景虎…かの有名な上杉謙信が登場するんです。織田信長も同様で、もともと守護代の家臣だった織田家からのし上がり、尾張を統一しました。こういうのし上がりを「下克上」というんですけど、戦国時代には、けっこうありました。

― 下克上! カッコいい〜!

中には、もっと下から上り詰めた人もいます。斎藤道三はもともと油売りでしたが、最終的には美濃(現、岐阜県)の国主になりました。どうやって上り詰めたかというと、美濃守護の土岐(とき)家の家臣と仲良くなって入り込み、家中の派閥争いを巧みに利用して出世していきます。最終的には、守護代の斎藤さんの名字をもらい、守護の土岐さんを追放して、No.1の座まで奪っちゃった。もっとも最近、この国盗りは、道三の父と道三の2代で実現させたという見方が主流です。

当時はこのほかにも、ねらった相手と婚姻関係を結び、親戚となったうえで、毒殺したり暗殺して、どんどん実権を握っていった、備前(現、岡山県)の宇喜多直家のような人もいました。

日本初の「爆死した人」…?

― 下克上がよくあった戦国時代、武将たちが部下から裏切られることもありましたか?

もちろんあります。13代将軍だった足利義輝さん。将軍ですよ? 将軍なのに軍勢に襲撃されて、暗殺されちゃったんです。殺したのは将軍の近臣だった松永久秀の一味。松永久秀っていうのは、爆死したことで有名な人です。

― えっ…爆死!?

久秀は織田信長に仕えて、2度裏切ったあと、居城を包囲されて、「名物の茶釜を渡せば命を助ける」と信長が伝えたのに、それを拒んで、茶釜に火薬を入れて爆発させて死んだといわれてきました。もっとも、実際は爆死ではなく、城に火をかけて自害したともいいますが。

― ものすごくインパクトのあるエピソードですね(笑)!!

こんなエピソードもあります。ある時、信長が徳川家康に家臣となった久秀を紹介するんですね。「徳川どの、こちらの松永は実は、ふつうの人にはできない3つの悪事を働いている」
― 3つの悪いこと…?

何をやったか? まず、自分の主人を殺した。それから将軍を殺した。奈良の大仏を焼いた。以上の3悪事を信長が説明すると、久秀が顔を赤らめたという話です。おそらく信長が家康に紹介したというエピソードは嘘なんでしょうけど、3悪事は、あながち嘘ではない。こんなとんでもない男が飛び出してくる時代ってことです。

― そんな悪事があたりまえだと、部下もついてこないんじゃないですか?

おっしゃるとおり。悪いことしているだけだと、誰もついてこなくなる。とはいえ、久秀と最後まで一緒に戦った家臣たちもいますから、決して人望がなかったともいえません。また毒殺を得意とした宇喜多直家も、自分の家臣はすごく大事にするんですね。なので、一概に悪人と決めつけられないところがある。自分たちが生き残っていくための手段としてやっているので、やりかたはキレイじゃないかもしれないけど、ちゃんと殺した人のことは手厚く弔っていたりとか、そういう一面もあるんです。単純に「この人は悪人」「この人は善人」とは区別できませんね。

討ち取った首を見たり触ったり、怖くなかったの?

― 善悪の判断も難しい時代、武将たちは何を信じていたんですか?

武将たちは、私たちが想像する以上に縁起の良し悪しを重んじていました。命のやりとりをしている日々において、なぜ自分が生き残っているか? それは、神様仏様に助けられているからだという気持ちが強いのでしょうね。だから、占いや習わしなども大切にしていたようです。

例えば、あの信長でさえも、桶狭間(おけはざま)の戦いの前に熱田神宮に寄って、お参りしています。拝殿で戦勝祈願したら、たくさんの白い鳩が一斉に飛び立ったので、「神様に願いが届いた。絶対良いことがあるぞ!」と家臣たちに言ったとか。これは縁起が良いと思い込ませて「劣勢だけど勝てるぞ!」とモチベーションを上げているんですね。さすが信長です。

それから今では考えられないようなしきたりとしては、「首実検(くびじっけん)」というものがあります。身分の高い武士を討ちとったときは、その首を大将に見せて身元を確認するんですが、首を切ってそのまま検分するんじゃなくて、ちゃんと洗って、化粧するんですよ。

しかもその化粧は、主に城内の女性がやっていたらしい。中にはお歯黒までつけて、最高にきれいな状態にして見せたという話もあります。いくつも首を化粧するので、女性たちは大忙しですよね。首がゴロゴロ転がってる中で、「今日はもう休みましょう」と、その場で寝ちゃうこともあったみたいです。

― 首に化粧したり、囲まれて眠るなんて、彼女たちは怖くなかったんですか…?

死んだ人を「怖い存在」というよりも、「敬うべき存在」として認識していたようで、今とはだいぶ考え方が異なります。有名な話では、信長が討ち取った浅井長政と父の久政、朝倉義景の3人の首を、頭蓋骨を漆で固めて金箔で彩色した「薄濃(はくだみ)」というものにして、正月の酒宴で家臣たちに見せたというエピソードがあります。

昔のテレビドラマだと、頭蓋骨の上の部分を外して盃代わりにし、無理やり明智光秀に酒を飲ませて、それが「本能寺の変」の恨みに繋がった…なんてシーンもあります。が、その解釈はまったくの嘘。「薄濃」は非常に縁起のよいもので、決して「敵の大将討ちとったぞ!」という意味ではありません。むしろ敬意をもって扱い、「めでたいものになりましたよ」という意味で見せているんですね。死んだあとは、敵も味方も関係なく弔う。それが戦国時代の死に対する考え方でした。

歴史のプロに聞いてみたシリーズ、次回へ続く!

戦国時代って女性も戦ってた? 男色もあった? 引き続き、歴史のプロ・辻さんに質問します! 次回の記事もお楽しみに。