明治時代に「若紫」という一人の遊女がいたことを知っていますか?美貌と才気を兼ね備えた若紫は、吉原の遊女として比べる者がいないほどの人気を誇りましたが、不運に見舞われ若くして命を落としました。そんな彼女の生涯をご紹介しましょう。
豪華な和服にも負けない絶世の美女
本名を勝田信子という「若紫(わかむらさき)」は、豪華絢爛な遊女の和装が良く似合う和風美人だったそうです。幼い頃に吉原に連れてこられ、遊女となったのは17才。若く美しい若紫は多くの男たちを虜にし、身請け話も数多く舞い込みました。
若紫の名前は『源氏物語』に由来する
若紫は、『源氏物語』の主人公光源氏の妻の呼び名です。その名を冠せる遊女は、『源氏物語』の女主人公の名に恥じない美貌と才気を持った女性に限られました。
明治時代に入ると、遊女には江戸時代ほどの知性や教養は求められなくなっていましたが、若紫は知性にあふれ、その佇まいからは気品すら感じられたとのこと。性格も優しく、まさに世の男性の理想を具現化したような女性だったのです。
悲劇の死を遂げた若紫
人気を極めた若紫は、一般の遊女より早めに年季があけ吉原を出ることとなりました。数々の富豪から身請け話があったはずですが、若紫が選んだのは、かねてから交際していた恋人でした。
そんな若紫が晴れて恋人と一緒になることを、客も楼も盛大に祝福したそうです。しかし、そんな幸福の絶頂から叩き落とす事件が起きます。
その事件の詳細はこうです。ある遊女と無理心中しようとした男が、その遊女が別の客をとっているところを目撃してしまい、やけになって若紫の喉元を刀で一突き。血の海に溺れた若紫は、弱冠22才という若さでこの世を去りました。年季があけるのは、この5日後のことでした。
若紫の安置された「浄閑寺」で、悲劇の遊女に思いを馳せる
若紫の墓は、東京都荒川区南千住の「浄閑寺」にあります。遊女がきちんと墓に埋葬されることは珍しく、ここからも若紫の格の高さが伺い知れます。
浄閑寺には数多くの遊女が投げ込まれるように埋葬されたことから、「投込寺」と呼ばれています。若紫に限らず遊女たちの多くは、病気や殺人などで不幸な最期を遂げる者が多かったそう。浄閑寺を訪れて、そんな遊女たちの悲しみに想いを馳せてみてはいかがでしょう。
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江戸を賑わした 色街文化と遊女の歴史