令和4(2022)年に鎌倉時代を題材にした大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がはじまります。しかし、鎌倉時代といえば「いい国つくろう鎌倉幕府」で止まっている人も少なくないでしょう。
そこで、改めて鎌倉幕府についてざっとおさらいしてみましょう!
Q1 そもそも源頼朝って何者?
鎌倉幕府を作った源頼朝。彼の家は代々軍事専門の職についている貴族、いわゆる「軍事貴族」です。
そして源平合戦で頼朝と戦った平清盛が率いる「平家」も軍事貴族です。
頼朝の父が、アンチ清盛派の貴族と結託し、清盛たちを失脚させるため、武力によるクーデターを起こしました。しかし失敗して討ち取られてしまい、息子である頼朝は伊豆半島へと流罪となります。
長い間流人生活を送っていましたが、京都では再びアンチ清盛派が勢力を拡大しており、頼朝も一念発起して反旗を翻しました。
その拠点として選んだのが「鎌倉」です。
Q2 なぜ「鎌倉」を拠点にしたの?
それは、先祖代々受け継いだ屋敷や地縁が鎌倉にあったからです。
頼朝のご先祖に「源頼義(みなもとの よりよし)」という人物がいます。彼は永承6(1051)年~康平5(1062)年にあった東北地方の内乱「前九年の役(ぜんくねんのえき)」で大活躍した人物です。
頼義の妻のお父さんは、彼をとても気に入り、自身が鎌倉に持っていた屋敷をプレゼントしました。
そして頼義の息子の義家(よしいえ)もまた、永保3(1083)年~寛治元(1087)年に東北地方で起こった「後三年の役(ごさんねんのえき)」に介入します。
この時に戦力として多数徴兵されたのが、関東地方を拠点とする土着の武士たち「坂東武者」です。この時代の関東は、坂東と呼ばれていました。
義家はこの戦に勝利しますが、後三年の役は朝廷が義家に「鎮圧しろ」と命令したわけではなく、義家が勝手に介入した「ただの内輪もめの喧嘩」と判断され、恩賞は出さないと言われてしまいました。
朝廷が恩賞を出さなければ、要請に応じて参戦した坂東武者もタダ働きです。そこでなんと、義家はポケットマネーで坂東武者たちの恩賞を支払いました!
これには坂東武者たちも大喜びで、中には「朝廷の命令は従いたくないけれど、源氏には末代まで従います!」と宣言する武士もいるほどでした。
そして頼朝の父もまた若い頃に坂東にやってきて、鎌倉の館を拠点とし、坂東武者のいざこざを「軍事貴族」という立場から仲裁・介入してきました。
なので頼朝は、元々鎌倉を拠点とした土地の縁があったのです。
Q3 鎌倉幕府ってどんな事をしていたの?
鎌倉を拠点に、頼朝は「坂東武者による坂東武者のための政治」を目指しました。
この時に作られた政治基盤が、のちの戦国時代や江戸時代にも繋がります。
守護地頭の設置
まず行ったのが、「武士たちが土地の権利を所有することを認める」です。
それまで、日本の土地は全て天皇のものという認識の元、朝廷や貴族が管理していました。
そこで頼朝は朝廷と交渉し、鎌倉幕府が支配圏にある地域の「守護」や「地頭」といった、行政や税の徴収ができる役職を自由に任命できる権利を獲得しました。
そして鎌倉幕府からの「恩賞」という形で、坂東武者たちを守護や地頭に任命し、自分たちの拠点の地域や獲得した土地を支配できるようになったのです。
これは坂東武者にとって喉から手が出るほど欲しかったもので、頼朝が挙兵する時にマニフェストとして掲げていたものの1つです。
簡易的な政治機構を確立
現代の日本でも「司法(裁判所)・立法(国会)・行政(内閣)」という三権分立という政治機構があります。
鎌倉幕府も似たようなもので、将軍の下に「侍所(さむらいどころ)」「政所(まんどころ)」「問注所(もんちゅうどころ)」という機関がありました。
侍所は、武士たちを統率する機関で、今でいうところの防衛省・警察庁みたいなものです。
政所は、一般政務や財政などの事務を司り、今でいうところの総務省や財務省にあたります。
問注所は、裁判所です。それまではこじれたら武力で解決するしかなかったトラブルを、幕府が間に入って話し合いで解決できる場を作りました。
侍所は坂東武者の実力者が務めていましたが、政所・問注所に務めていたのは京都の下級貴族でした。
鎌倉幕府は坂東武者だけでなく、京都では昇進を見込めない下っ端役人にとっても重職につける場所で、カマクラン・ドリームを夢見て日本中からたくさんの人が集まりました。
こうした政治機構の元、坂東武者たちの権利を朝廷に認めさせてきました。
将軍の役割は、坂東武者とっては朝廷への窓口でもあり、交渉役でもあったのです。
武士たちの教育
坂東武者と朝廷の仲介役としての鎌倉幕府ですが、朝廷に権利を認めさせるには、その権利を行使する教養があると示す必要があります。
その為に、頼朝は積極的に京都の儀礼を鎌倉に取り入れました。
初めは慣れない作法に四苦八苦する坂東武者たちですが、子世代になると完璧にマスターし、孫世代の頃には宮中で働けるほどになっていて、その努力と吸収力の早さ、順応力の高さに驚きます。
▼鎌倉幕府の勉強をするなら
図説 鎌倉幕府
Q4 「鎌倉殿の13人」ってどんな人たち?
さて、ここで冒頭で紹介した令和4(2022)年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」というタイトルについてです。
鎌倉殿というのは、坂東武者を束ねる将軍のことですが、その13人というのは「十三人の合議制」のことです。
優秀な支配者だった頼朝が急死し、急遽後を継ぐこととなった息子の頼家(よりいえ)のために設立した13人の補佐官です。
その13人をざっと紹介しましょう!
絶対にブレない鉄の意志! 大江広元(おおえ ひろもと)
政所の初代別当(べっとう=最高責任者)を勤めました。
元々は下級貴族で、朝廷の下っ端役人です。
「私は成人してから一度も泣いた事がない」と自ら言うほどの、眼力の強い冷静な人物です。幕府にふりかかる数々のピンチを、その冷静な判断力で切り抜けました。
人気の高い戦国武将、毛利元就の先祖でもあります。
坂東武者も恐れる裁判所長! 三善康信(みよし やすのぶ)
問注所の初代執事を勤めました。この場合の執事は別当と同じく最高責任者のことです。
彼も元々は下級貴族で、太政官(だじょうかん=今でいうところの内閣府)の書記をしていました。
政治にも精通し、算道とよばれる数学者の家柄で、その緻密で正確な仕事ぶりは、鎌倉幕府の裁判所長という役職にぴったりでした。
鉄の弟、仏の兄! 人当たりの良い外交官、中原親能(なかはら ちかよし)
大江広元の兄で、弟と一緒に政所の役職についていました。
弟と姓が違うのは、当時は独立したら別の姓を名乗るのが普通だったからです。
京都の公家とも広い親交があり、兄の親能が京都や他の地域への外務・弟の広元が鎌倉での内務を担当していたようです。
弟の広元は、なにかと冷静沈着で、仕事に私情は挟まないイメージがありますが、兄の親能は頼朝の娘「三幡(さんまん)」をとても可愛がっていたエピソードがあり、情に篤そうなイメージがあります。
対朝廷の切り札! 鎌倉のネゴシエイター、二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)
元々は家柄の良い公家で、頼朝の母の従弟にあたる人物です。
そのため、朝廷でも鎌倉でも発言力は強く、政所の役職について朝廷との交渉事を請け負いました。
鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、行政の息子である行村(ゆきむら)の日記が多数参考にされていると言われています。
鎌倉の為なら24時間戦えます! 梶原景時(かじわら かげとき)
現在の神奈川県藤沢市~鎌倉市西部あたりを拠点とした「鎌倉党」の坂東武者です。源平合戦を知る人の中には「義経のライバル!」と言う人もいるでしょう。
しかしその実態は、侍所の役職につき、時には理不尽に見えるほどの合理的な考えで仕事をする、ザ・仕事人間でもありました。
文武両道! 足立遠元(あだち とおもと)
現在の東京都足立区~埼玉県桶川市あたりを本拠地とした坂東武者で、頼朝の父の代から源氏に仕えていました。
武士でありながら政所の役職についていて、そうとう高い教養を持っていたことが伺えます。
酸いも甘いも分かち合った将軍のマブダチ! 安達盛長(あだち もりなが)
頼朝が伊豆で流人生活を送っていた頃から、身の回りの世話を焼いていた側近です。
足立遠元の弟とされていますが、実は盛長以前の系図が曖昧で、謎が多い人物でもあります。
頼朝からの信頼はそうとう篤かったようで、しばしば頼朝が盛長の屋敷を何も公的な用事もないのにふらりと訪れている様子が吾妻鏡にも書かれています。
荒ぶる猛将! と思ったら意外と細やか? 元祖ギャップ萌え、八田知家(はった ともいえ)
現在の茨城県つくば市あたりを本拠地とした坂東武者です。
頼朝の父の代から仕えていて、頼朝の挙兵時には早い段階から駆け付けた1人です。
戦の時は大将として大軍を指揮し、強敵を倒す実力があります。
その一方で、京都から鎌倉にやってきた役人に家を宿として提供するなど、作法にうるさい京都人への細やかなおもてなしができるほど教養もある人物でした。
一族挙げて将軍のサポート役! 比企能員(ひき よしかず)
現在の埼玉県比企郡~東松山市あたりを本拠地としていた坂東武者です。
頼朝と頼家の乳母を勤めた一族で、娘は頼家の妻となり男児を産んでいます。
北条氏と並ぶ発言力をもっていました。
娘の婿が将軍に! カマクランドリームで逆転人生! 北条時政(ほうじょう ときまさ)
現在の静岡県伊豆の国市あたりを本拠地としていた坂東武者です。
頼朝の妻である北条政子の父で2代目将軍の祖父という立場で、武士の中でも家柄はそこまで高くないにもかかわらず、大きな発言力を持っていました。
大河ドラマ期待の主役! 北条義時(ほうじょう よしとき)
北条時政の息子にして、政子の弟。そして令和4(2022)年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役です。
鎌倉の為なら非情に徹するクレバーな政治家か、はたまた権力の為に父や友を蹴落とす悪人か、それともやる気なさげで事なかれ主義の青年か!?
小栗旬が演じる北条義時がどんな人物になるのか、今から楽しみですね!
スカのちょいワルイケおじ! 三浦義澄(みうら よしずみ)
神奈川県横須賀市を中心に三浦半島一帯を本拠地にしていた坂東武者です。
頼朝の先祖、義家に従って後三年役を戦い、そのポケットマネーの恩賞に「源氏に末代まで仕えます!」と宣言したのは、実はこの三浦一族です。
その政治力・軍事力は「最強」と言って差し支えないでしょう。
鎌倉時代ファンの間では、「13人のうち頼朝が一番気に入っていたのは誰か?」と問われれば喧々諤々の論争になることもありますが、「13人のうち軍事的に頼りにしていたのは誰か?」と問われれば、満場一致で三浦義澄と答えるでしょう。
鎌倉の番長! 和田義盛(わだ よしもり)
三浦義澄の甥であり、侍所の初代別当を勤めていました。
一番軍事力を持っていたのは義澄ですが、義澄が侍所別当となれば権力が集中してしまうので、義盛がその役目を負ったとも言えます。
何かと豪快で親分肌のイメージがある人物です。
鎌倉幕府の愉快な仲間たちが織りなす鎌倉時代!
このように軽くひも解いてみるだけでも、鎌倉時代にも意外ととしっかりとした政治機構と、個性豊かな人々がいることがわかります。
そんな鎌倉時代の魅力をもっと発信して、戦国・幕末に並ぶほどの人気のある時代にしたいです!
▼ガイドブックもチェック
鎌倉殿の13人 前編 NHK大河ドラマ・ガイド
「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧
「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!
1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)