「お〜まいがぁ。女性が裸で平然とおる……」
混浴できる温泉や公衆浴場は多くありますが、だいたいのところは「タオルOK」もしくは「水着着用可」。「タオルNG」の混浴露天風呂もまだまだ残ってはいるようですが、女性はアワアワ、男性はウハウハしてしまいますよね(逆もまた然り)。
時を166年戻そう。
1854年、アメリカ海軍のペリーさんが日本に再来航しました。そこでカルチャーショックを受けた光景がこちらです。
ペリードン引き。日本の混浴事情
「町内には男女混浴の共同浴場があり男女とも赤裸々な裸体をなんとも思わずお互いに入り乱れて混浴している。その有様を見ていると日本人は道徳心に優れているのにその道徳心に疑いを感ぜざるを得ない」(by.ペリー)
これは、ペリー監修の下、ペリー自身の日記やノート、公文書および豊富な文献資料に基づいて編集された「ペルリ提督日本遠征記」に書かれた一文です。
道徳心まで疑われると日本人としては「うるさいなぁ。ほっといてよ」と心の中でボヤきたくなりますが、なぜ明治時代まで混浴文化が続いていたのかは気になるところ。また、ペリーが言っている「男女とも裸体をなんとも思わず」という部分は、タオルNGにアワアワ、ウハウハしてしまう現代の私たちにとっても、考え難い状況ですね。
日本の混浴文化の歴史
日本人の入浴、および混浴文化の歴史を、超ざっくりたどってみましょう。
神さまの恵に男も女も関係ない!
温泉大国ニッポンは、古来、各地で温泉が湧き出していました。日本最古の地誌『風土記』には、現在でも多くの観光客が訪れる「玉造温泉」について、以下のような記述があります。
海に近い河辺に湯が湧き出で、男女老少が毎日来て、往来は混雑し市をなす程で、人々は湯に入ったり、出たりし、その間に飲食もして互に楽しみ、一度入ると、形容端正となり、二度入ると万病悉く除き、古より今日までその効果の上がらないことはない。それで人々は神湯と云う。
「神湯」という言葉が使われていることから、当時の人々は温泉の効能を「神さまからの恵み」と考えていたことがわかります。神さまからの恵みを受けるのに、男も女も関係ないですよね。このころは「男湯」「女湯」の概念すらなく、混浴は自然なことでした。
「浴室」での入浴のはじまり
6世紀ごろ、日本に仏教が伝来しました。仏教では、自らの汚れを洗い流すことは、仏に仕えるものの仕事のうちのひとつと考えられており、寺院では入浴を盛んに行っていました。これが、「浴室」での入浴のはじまりです。
鎌倉時代に入ると、僧侶たちの入浴はもちろんのこと、貧しい人や病人を含む庶民にも無料で浴室を解放し、人々は身を清めていました。
入浴料をとりはじめる
応仁の乱により荘園制度が崩壊すると、寺院での入浴も有料化されるようになっていきます。次第に入浴文化が町にも広がり、商売としての湯屋「銭湯」がはじまりました。京都の町に多かった銭湯ですが、1590年には江戸城内に江戸第一号の銭湯がつくられます。風が強く、ほこりっぽかった江戸では銭湯が大ブームに。庶民の日常にも一気に溶け込みました。
湯女たちが大活躍
江戸は、全国から集められた単身赴任の武士や、建設に携わる職人など男性が多い町。江戸時代初期には、女性は極端に少なかったといいます。そんな町で大人気となったのが「湯女(ゆな)」たち。湯女は銭湯でお客さんの髪を洗ったり垢をかいたりする女性です。その仕事は入浴中のサービスだけにとどまらず、酒や食事の接待、三味線や踊りなどの芸事、ときにはお客さんと枕をともにすることもありました。
一時は、あの吉原をも揺るがす存在となりましたが、風紀の乱れを問題視した幕府により湯女風呂は禁止されました。
女性も銭湯を楽しむように
湯女がいなくなった銭湯には、徐々に女性客が増えていきました。湯屋は急に浴槽を増やすことはできないので、自然と混浴に。男も女もひとつの風呂に入ることから「入り込み湯」や「入込湯」といわれていたそうです。
銭湯は、性別も身分も関係なく一緒の風呂に入れることから、さまざまな人たちがフラットな立場で交流できる場所になりました。
乱れすぎて混浴禁止
混浴となった銭湯。はじめのころは、男性はふんどし、女性は腰に巻く和装の下着の一種である「湯文字」をつけていましたが、次第に裸で入るように。決して広くない風呂に男女が裸で入り混じる--。もちろん何も起こらない訳がないですよね。痴漢はもちろん、女性が体を洗う道具「糠袋」の窃盗も頻発しました。カップルのあいだでは、裸でイチャつけるデートスポットとしても人気だったそうです。入り込み湯を利用したお見合いもあったとか……。
乱れに乱れた風紀。もちろん幕府の耳にも届き、1791年に松平定信による「寛政の改革」によって入り込み湯が禁止されます。
それでもなかなか終息しない混浴文化
しかし江戸時代の法律は「三日法度」。『庶民が法律を守るのはせいぜい3日。あとはなし崩し』といわれていました。もちろん混浴はなかなか終息せず、何度も禁令が通達されました。
銭湯を営業する湯屋からしたら、男専用・女専用にしたり、男女の入浴日を分けたりするとどうしても売上が落ちてしまうので面白くありません。そこで考えられたのが、浴槽を板で仕切り男女を分ける簡単な区別での営業。表向きは男湯と女湯で分けられますが、仕切りがなんとも粗末な板なので、男性たちはいとも簡単に女湯に侵入することができたといいます。
そもそも混浴が厳しく取り締まられていたのは、江戸の中心部だけでした。地方の天然温泉はもちろん、銭湯でも混浴は自然なことだったので、なかなか終息しなかったのではないでしょうか。昭和30年代まで混浴が一般的と考えられていた地域もあったそうです。
「裸」への意識の違い
それにしても、混浴の湯屋をちょろっとのぞいただけのペリーは、なぜそこまでドン引いたのでしょうか。それは、当時の日本人と西洋人の入浴習慣があまりにも違いすぎていたからだと考えられます。西洋では、入浴自体が一般的ではありませんでした。乾いた布で拭いたり、清潔な下着を身につけることで体を清めていたので「裸で湯に浸かるなんてアリエナイ!」環境だったのです。だからこそ、裸の男女が同じ湯船に浸かっている光景が衝撃的だったのでしょう。
一方日本人は、古くから「神さまからの恵み」である温泉で体を清めていたので、お湯に浸かることに抵抗はありません。また江戸時代までは、暑い夏には男性はふんどし一丁、女性は浴衣をゆるく着て町を歩いていたため、裸は日常の一部であったことがわかります。
混浴に驚いた外国人たち
ペリー以外にも、日本の混浴文化にドン引いた外国人たちがいました。中には理解のある学者も……。
タウンゼント・ハリス(外交官)
「何事についても間違いのない日本人が、何故このような品位に欠けたことをするのか理解に苦しむ」
サミュエル・ウィリアムズ(宣教師)
「日本は非キリスト教国の中で最も淫蕩な国ではないか」
ハインリッヒ・シュリーマン(考古学者)
「人間というものは、自国の習慣に従って生きているかぎり、間違った行為をしているとは感じないものだからだ。そこでは淫らな意識が生まれようがない。父母、夫婦、兄妹―すべての者が男女混浴を容認しており、幼いころからこうした浴場に通うことが習慣になっている人々にとって、男女混浴は恥ずかしいことでも、いけないことでもないのである。」
参考文献:
・銭湯検定公式テキスト
・裸はいつから恥ずかしくなったか「裸体」の日本近代史
・ペルリ提督日本遠征記