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2020.03.24

戦場で大活躍した鎌倉時代の女武者・板額御前は巴御前のモデル?元祖バトルヒロインの生涯を紹介

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女の身でありながら武芸を極め、屈強な男たちをなぎ倒す。そんなバトルヒロインは今も昔も人気が高いです。

創作作品だけでなく、レスリングの吉田沙保里さんや、柔道の谷亮子さんなど女子格闘技選手の雄姿を思い浮かべる人も多いでしょう。

日本の歴史上のバトルヒロインの中で一番有名なのは、木曽義仲の愛妾「巴御前」ではないでしょうか。むしろ木曽義仲の方が「巴御前の夫」として認識している人も少なくはないでしょう。

でも巴御前は「平家物語」などの物語の中にしか確認ができず、実在した根拠は薄いと言わざるを得ません。

ならば実際に戦場で戦った女性はいないのかというと……実はいるんです。それが「板額(はんがく)御前」です!

板額御前は何故戦った?

板額御前は、越後国(現・新潟県)の有力武士「城(じょう)氏」の女性で、当主である「城長茂(じょう ながもち)」(*城島茂ではない)の妹でした。

板額御前が登場するまで

源平合戦の前は平家の家人として、勢力を誇っていた一族でしたが、源平合戦後は没落してしまいました。

長茂は一度、鎌倉で囚人として扱われていて、梶原景時(かじわら かげとき)に預けられていました。

歌川国貞「今昔児手柏」いかみの権太・梶原景時

そして景時が仲介役となって戦に従軍し、その功績が認められて鎌倉御家人の一員となります。

ところが、源頼朝の死後、正治2(1200)年に、長茂の恩人である梶原景時が政争に敗れて鎌倉を追放され、一族が滅ぼされてしまいました。

長茂は翌年に鎌倉から離反し、京都へ向かい、後鳥羽上皇から鎌倉幕府討伐の命令書を貰おうとしました。

けれど命令書は貰えず、逆に鎌倉幕府に対して城長茂の追討命令が出されてしまいます。

長茂は奈良の吉野に身を隠しますが、関西方面にいた鎌倉御家人に見つかってしまい、長茂は討ち取られてしまいました。

いよいよ登場、板額御前!

後ろ盾だった梶原景時も、一族の当主も討ち取られてしまった城氏はもう後がなくなってしまいました。

このまま黙っていては一族郎党が罪人として処罰されてしまうでしょう。だったら一矢報いようと、立ち上がったのが長茂の妹である「板額御前」と、その甥「資茂(すけもち)」です。

一族の命運をかけて、越後国の御家人に対してゲリラ戦で抵抗をしていました。わずか1000人の軍勢とはいえ、失うものがもう命しかない城一族の抵抗はすさまじく、越後国の御家人はついに幕府に対して応援要請をしました。

そして幕府軍の前に立ちはだかったのが、美しき女武者「板額御前」です。

歌川芳虎「武者鑑」

当時の少年の髪型だった「ポニーテール」に髪を結い上げ、簡易的な鎧を身に着け、見張り台の上から矢を放ちます。その精度は百発百中で、次々と鎌倉幕府軍の武士たちを射抜きました。

しかし、弓の腕は鎌倉武士たちも負けてはいません。藤沢清親(ふじさわ きよちか)という武士が後ろの山に周り、さらに高い場所から彼女に狙いを定めました。

狙ったのは彼女の足です。矢は両腿を貫通し、板額御前はついに倒れました。それと同時に城一族の防衛ラインも崩れ、鎌倉幕府の勝利となりました。

資茂は行方不明となり、板額御前は幕府軍に捕らえられて手当てを受けて、鎌倉へと護送されました。

捕虜となっても誇り高い板額御前

戦で捕まった女性の末路……と聞くとどんな恐ろしい目にあったのだろうと、ハラハラしてしまいます。

けれど意外にも鎌倉の武士たちは強者と認めた捕虜には敬意を払っているようです。

板額御前鎌倉へと護送されました。まだ傷が癒えていなかったのですが、藤沢清親が「傷を労わり助けながら」連れて来た、と書かれています。少なくとも、吾妻鏡の記述ではオトナ向けの創作物で見られるような扱いはされていないようです。

鎌倉に到着すると2代目将軍源頼家は、めずらしい「女武士」の姿を一目見たいと所望します。そこへ清親が連れて来ました。その時の板額御前の様子が書き残されています。

めずらしい「女武士」を見たいと思ったのは頼家だけでなかったようで、鎌倉幕府の御家人たちがこぞって集まり、まるで市場のような混雑でした。

板額御前は、その人垣を割くように中央を歩き、頼家がいる御簾の前まで来ました。その間、一切おどおどする様子も、媚を売ってへらへら笑う事はありません。

そしてその容貌を「陵園妾(りょうえんのしょう)のようだ」と書き残されています。

陵園妾というのは、中国の詩人「白居易(はくきょい)」の詩で、「囚われの美女」の代名詞にもなっています。

皇帝に仕えていた侍女が、皇帝の死後に罪をでっち上げられ、陵園(皇帝の墓)のそばに幽閉されてしまいました。元々絶世の美女であったのに、今は心労で衰えてしまったという詩で、彼女の視点で開放される事を嘆願しているような内容です。

凛とした美女が、大怪我を負って戦に負け、捕虜の身となってしまったストレスフルな状態で、顔色こそ悪くなっていても、最後まで「誇り」だけは失わないように、周りの男たちには目もくれず、御簾の向こうの将軍を見据えている。

そんな気高い板額御前の様子が目に浮かぶようです。

周りの武士たちも「ただものではない」と息を飲み、将軍頼家も「男でも比べるものがいないほどの豪傑だ」と認めました。

板額御前と巴御前の意外な関係

さて、そんな「ただものではない」板額御前の目の当たりにして、彼女に恋をしてしまった一人の武士がいました。

甲斐国(現・山梨県)の浅利義遠(あさり よしとお)です。ちなみに現代に同姓同名の漫画家さんがいらっしゃいます。子どもの頃に科学に興味があった人は、漫画家のイメージの方が強いかもしれませんね。

歌川芳虎「武者鑑」

浅利義遠(*漫画家ではない)は板額御前の謁見の翌日に、将軍頼家に申し立てをしました。

「もし彼女の預かり先がまだ決まっていないのなら、私に預からせてくれませんか?」

これを頼家は少し怪しみました。

「あんな男でも並ぶほどのいない豪傑を預かりたいなんて、何か企んでいることでもあるのか?」

義遠はすぐに答えました。

「いいえ。ただ彼女ほどの豪傑と結婚して、強い男児を産んで、幕府や朝廷に仕える強い武士に育てたいのです」

頼家は「あの女は見た目は美人だけど、中身は猛々しい武士じゃないか。そんな女を愛そうだなんて、お前は変わり者だなあ!」と言って笑いましたが、その申し出を許可しました。板額御前は義遠にもらわれて、甲斐国へと行きました。

この出来事、どこか覚えがある人もいるのではないでしょうか。

実は全く同じ出来事が、源平合戦を描いた物語「源平盛衰記」にもあります。
それが木曽義仲の愛妾「巴御前」と、鎌倉幕府の重臣「和田義盛(わだ よしもり)」です。

義盛は捕虜となった巴御前を預かり、強い男児を産んで最強の武士に育て、鎌倉幕府に仕えさせると、頼朝に申し立てをします。

頼朝はこれを許可し、生まれた子供が鎌倉時代最強と謳われる「朝比奈三郎(あさひな さぶろう)」です。

けれど実際の朝比奈三郎は、巴御前が捕虜になっている時点で8歳なので計算が合いません。そもそも、巴御前自体が実在性が薄いのでこの話は創作でしょう。

もしかしたら「源平盛衰記」の作者は、板額御前と義遠の出来事をモデルにして、巴御前と和田義盛のエピソードを創作したのではないでしょうか。

女は戦場に立つな! ……というより「立っている場合じゃない!」

甲斐国へと行ってから、板額御前は歴史上の表舞台から姿を消します。

その後も鎌倉幕府では戦が何度も起こりますが、従軍した武士の中に板額御前の名前はありません。

百発百中の弓の腕を持ち、男以上の豪傑と評されたのに、なぜその力量をそれ以降、戦場で発揮しなかったのでしょうか。

それは「戦闘員に女が混じっている軍勢は、もう一押しで負けてしまう崖っぷちのギリギリ部隊」だとみなされ、端的に言えば「ナメられる」からです。

以前の記事、「妻の妊娠中に不倫?バレた後も密会⁉︎源頼朝を虜にした美女「亀の前」とは」で「武家の妻の役割」を紹介しました。

武士における家は「ファミリー」ではなく「カンパニー」です。夫を「CEO」とするならば、その妻は「COO」の役割を果たします。

板額御前の実家である「城氏」は、没落していても元々は名家です。嫁に行けば大抵は正妻となりますので、そのための教育も受けていた事でしょう。

そんな「女性」が戦場に立っているというのは、事務局長がアルバイトに交じってライン作業している工場みたいなものです。

「あれ? 人手がそんなに足りてないのかな?」「デスクにいなくていいの? お客様や取引先からのメールや電話は来ないの?」

そんな風に、「戦闘員に女がいる軍勢」は人手不足な弱い軍勢とみなされてしまうのです。

平家物語に巴御前が登場したのは、木曽義仲の軍勢が鎌倉幕府の軍勢に対して圧倒的に少なく、「多勢に無勢」だったことを示したかったのかもしれません。

「なら、わざと敵を油断させればいい。戦闘が得意なら女性も戦場に出るべき!」

という反論が思い付きますが、まず敵を油断させるために弱小部隊に見せるより、敵を怯ませるために強大な軍勢に見せたほうが得策です。

弱くて勝てそうな相手ならガンガン攻めますが、強い敵にはなかなか手を出せない……という感覚はスポーツやゲームをしたことがあるなら誰もが経験することでしょう。

通常の武家では、家の中でやる業務が山ほどあります。きっとそんな作戦を思いついたとしても「私が家を空けたら、誰がこの膨大な仕事を処理すると思ってるの?」と突っぱねられて終わるでしょう。

それに、命を落とす危険のある戦場に妻や娘を出したがる夫は、当時でも一般的ではないんじゃないかなぁ……と、思います。

なので甲斐国に行った板額御前は、夫から愛されて、浅利家の妻(COO)として日々の業務をこなし、子供や家臣たちに武芸の稽古をつける。そんな忙しくも楽しい、幸せな余生を送ったのでしょう。

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。