日本の刺繡の源を探る長年のライフワークが結実
奈良の中宮寺が所蔵する国宝『天寿国繡帳』は、日本最古の刺繡の帳(とばり)。622年に聖徳太子が亡くなったあと、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)は嘆き悲しみ、「太子が往生した天寿国の世界を見たい」と望み、その願いを聞いた推古(すいこ)天皇の命によって制作されました。
京都西陣の伝統工芸〝京繡(きょうぬい)〞の作家である長艸敏明さんが自らのライフワークとして、その『天寿国繡帳』の復元制作をはじめたのは、今から20年ほど前のこと。「『天寿国繡帳』は我々〝繡屋(ぬいや)〞の原点といえます。どのような刺繡なのか、どのように繡(ぬ)われたのか、ルーツを知っておかなければならないと思いました」(長艸さん)
転機が訪れたのは2005年。『天寿国繡帳』の研究をしていた当時大学院生だった現・奈良国立博物館の三田覚之(みたかくゆき)さんと出会い、研究復元のプロジェクトがスタートすることになったのでした。飛鳥時代の繡帳を再現すべく、刺繡を施す生地の糸をつくるところからはじめ、生地の織りが完成するまでに5年の歳月が流れました。地道に活動を進めるなかで、中宮寺に伝わる聖徳太子二歳像の被衣を新調する話が舞い込み、このほど、『天寿国繡帳』を着物に仕立てて奉納することになったのです。
糸をつくり、生地を織り、染めて、飛鳥時代に思いを馳せながらひと針ひと針、刺して繡って――
長年の研究と努力が素晴しいかたちで結実。奉納された被衣には『天寿国繡帳』の飛鳥時代の刺繡が厳密に再現されています。単純に刺繡の文様を写したのではなく、文様の中に刺す糸目の数、糸の太さ、糸の縒(よ)りの強さまで同じという緻密さです。「日本の刺繡は、奈良時代以降、糸の光沢や艶を出すために縒りが弱い糸で繡いますが、飛鳥時代の刺繡は、縒りが強い糸でひと針を短く細かく繡って、力強い。だから1400年も残ったと考えられます」と解説する三田さん。
長艸さんの感想にも実感が込められていました。「ひとつの文様を繡いあげるのに、今の技法よりずっと時間がかかります。『天寿国繡帳』を手がけた宮中の采女(うねめ)たちは、ひと針ひと針、祈りを込めて繡ったのだと思います」。
技法とともに、古人(いにしえびと)の大切な思いを受けとめて、次の世代へとつないだ貴重な復元。「刺繡は祈りである」という長艸さんの言葉が心に響きます。
【中宮寺】
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2
※今回奉納された被衣を纏った聖徳太子二歳像は9月30日(土)まで本堂で公開
撮影/伊藤信
※本記事は雑誌『和樂(2023年10,11月号)』の転載です。