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Culture
2020.06.09

島津四兄弟の長男・島津義久は、なぜ「引きこもり戦国大名」と呼ばれているのか?

この記事を書いた人

「お前って引きこもりだよな」と言われた場合、普通なら悪口として受け止めることになります。私は和樂webで何度か引きこもりに関する記事を書いてしまうほどの「自称引きこもり」なので、そう呼ばれることに不快感はありません。


が、やはりこの場合の「引きこもり」は褒められているのではなく、多少は馬鹿にしたニュアンスが含まれていることは理解できます。

そして、同じような文脈で「引きこもり戦国大名」と呼ばれている人物がいることをご存じでしょうか。その人物の名は、島津氏を率いて九州の統一を成し遂げた戦国大名・島津義久(しまづよしひさ)です。彼についての一般的なイメージは、義弘・歳久・家久という三人の弟を従えて九州を統一し、島津氏の名を後世に伝える役割を果たした、といったところでしょう。

しかしながら、偉大な戦国大名であるはずの義久が、なぜ私のように愚かでポンコツなフリーライターと同じ「引きこもり」というレッテルを貼られてしまったのでしょうか。ステイホームの期間でアクティブな人たちも引きこもりを経験したタイミングということもありますし、「引きこもり大名」の実態に迫ってみます!

ほとんど薩摩を出なかったから「引きこもり」?

まず、そもそも義久がどこで引きこもりと呼ばれているのか、どうして引きこもり扱いされているのか。この点を考えてみましょう。

もちろん、戦国史の最前線で島津氏を研究している方々が「義久は引きこもりだ」と言っているワケではありません。では誰がそう呼んでいるかというと、「ネット上の歴史好き」というのがその正体です。具体的に見てみると、ニコニコ大百科やピクシブ百科事典といった「ライトなネット百科事典サイト」にその様子が確認できます。

例えば、ニコニコ大百科では、

戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の守護職を務めた島津氏16代当主であり、戦国最強の兄弟達と精強な薩摩隼人軍団を率い、“大将たる者は腹をすえて動じないこと、これ勝利の大本なり”との祖父島津忠良の教えを守って九州を席巻した戦国最高の政治家にして最強のひきこもりである。

と紹介されていますし、ピクシブ百科事典では、

戦国時代最高峰の政治家であるが、ネット等の批評によると「最強の引きこもり」

と表現されています。

また、これらのサイトで書き表された内容を見てみると、「引きこもり」と呼ばれるのも納得できる義久の行動を確認することができます。

まず、彼の前半生はそもそも内部分裂していた薩摩国を統一するのに費やされており、国の外へ出ていくことはほぼありませんでした。次に、薩摩を統一してから九州の覇者となるまでの道のりにおいても、基本的に弟たちを派遣して自身は国元で指揮をとっていたので、確かに動きは控えめです。その後、豊臣秀吉の傘下に入ってから関ケ原の戦いに至るまでも目立った動きは確認できませんし、このあたりをもって「引きこもり」と呼ばれているのでしょう。

「引きこもることができた」プラスの事情

上記の記事を見てみると、一見義久の引きこもりを揶揄するような印象を受けかねません。しかし、一般的に義久の引きこもりについては「引きこもることができた義久は名将」というように、好意的な文脈で語られることが多いように感じます。これは、ニコニコ大百科の記事で引用した「大将たる者は腹をすえて動じないこと、これ勝利の大本なり」という教えや、同じく忠良が伝えたとされる「三州の総大将たるの材徳自ら備わる」という評価からも理解できるでしょう。

まず、戦国大名が引きこもるには、言うまでもなく自身の手足となって働いてくれる武勇・忠義を兼ね備えた家臣の存在が欠かせませんでした。義久には深い絆で結ばれた3人の弟がおり、彼らの力があって初めて国元でどっかりと腰を据えていることができたのです。もちろん、裏切りが日常と化していた戦国時代において、弟たちをつなぎ止めていた当主としての器も評価すべきでしょう。

島津家の家紋

次に、遠く離れた地から戦場をコントロールできるセンスも必要でした。当然のことですが、ネットもスマホもない当時は直接戦場へ出向いたほうが陣頭指揮が執りやすいものです。それでも国元から戦況を見定め、的確な指示を出せたからこそ出陣を繰り返さなくてもよかったのでしょう。もっとも、義久とてオールウェイズ引きこもり大名であったわけではなく、必要とあらば前線に赴いて指揮を執っていたのも事実。確かに戦場での華々しい活躍は見られませんが、「弟任せで引きこもっていただけのビビり」という評価は適当ではありません。

そして、上記のようなロジックを踏まえたうえで、「引きこもって最前線に行かない」という強い決意も求められたでしょう。頻繁に最前線へ赴けば指揮も執りやすくなりますし、兵たちの士気も上がるかもしれません。しかし、もし仮に戦場で当主が討たれるようなことがあれば、家が一気に傾いても不思議はありませんでした。実際、義久が総大将として派遣した家久と肥前で力を伸ばしていた龍造寺隆信が刃を交えた「沖田畷(おきたなわて)の戦い」では、戦場で隆信が討たれたことによって軍勢が大混乱に陥り、その後龍造寺氏が急速に没落していくキッカケを作ってしまいました。

結果として彼らを退けたことで九州制覇を成し遂げた義久ですが、これは彼の哲学が証明された瞬間でもあったのです。

「引きこもらざるを得なかった」とも考えられる

義久の引きこもりは、これまで語られてきたようにプラスの意味合いで解釈することも可能です。ところが、個人的には「仮にガンガン前に出たくても、引きこもらざるを得なかった」という事情も少なからずあるのではないかと考えています。

第一に、義久が統一を果たすまで薩摩が分裂していたという点に着目します。統一中に動くことが叶わないのはもちろんですが、その後も「つい最近まで敵同士だった家々が、降伏という形で家臣化した」という状況になっていました。そのため、もし仮に義久が隙を見せれば、家中の反体制派にクーデターを起こされる可能性は十分あったと思います。義久が国元をなかなか離れなかったのは、彼らに対するけん制の意味合いも強かったのではないでしょうか。

第二に、近年の研究で「島津家は義久と義弘の二頭体制が敷かれていたのではないか」と指摘されるようになってきた点が挙げられます。

島津義弘像

島津家が秀吉に降伏して以降、秀吉は弟の義弘を島津家当主として扱うようになりました。実際に家督の継承があったわけではないようですが、「都では義弘が、薩摩では義久が当主」という複雑な体制になっていました。加えて、これまでは盤石とされてきた義久—義弘の兄弟関係も、それほど良好なものではなかった可能性さえ言及されるようになっています。実際、関ケ原の戦いには義弘だけが参戦し、敗戦後に義久は「あくまで義弘が勝手にやったことで、島津家としては知ったこっちゃない」というスタンスをとりました。これは、「一見冷たいように思えるが、義久は島津家を守るために非情に徹した」と語られがちですが、家中に義久・義弘という2つの命令系統が存在していたとすれば、本当に義弘の独断であったと考えてもよいでしょう。

さらに、秀吉の指揮下で島津家が参加した朝鮮出兵において義久の後継として有力視されていた義弘の次男・島津久保(ひさやす)が亡くなると、その代わりに浮上してきた同じく義弘の三男・島津忠恒とも良好な関係を築けなかったと言われます(義久には子がなかったので、義弘の子が後継候補者でした)。事実、島津家中は「義久派」「義弘派」「忠恒派」の三派がいがみ合い、家臣同士で殺し合いが発生するほど殺伐とした状況下にありました。このあたりは秀吉の支配下に入ってから顕在化した問題なので、この時期は島津家にとって苦難の時代であったと言えそうです。

結論をまとめると、義久の引きこもりはプラスの側面とマイナスの側面の両方から考えることはできますが、特に後半生においては「引きこもらざるを得なかった」という事情が大きくかかわっていそうです。関ケ原の戦いに敗れた後、何度も上洛を要請する家康と、頑としてそれを受け入れない義久の姿が現代にも伝わります。ここに至る背景には、「自分が薩摩を離れるわけにはいかない」という強い意志があったのではないでしょうか。

【参考文献】
「国史大事典」
三木靖『薩摩島津氏』新人物往来社、1972年
新名一仁編『中世島津氏研究の最前線 ここまでわかった「名門大名」の実像』洋泉社、2018年

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?