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2020.06.07

奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか

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2020年は、永禄3年(1560)の桶狭間(おけはざま)の戦いから460年にあたる。大河ドラマ『麒麟がくる』でも山場の一つとして描かれる桶狭間の戦いは、大軍で攻め寄せる東海の雄・今川義元(いまがわよしもと)に対し、織田信長に勝ち目はほとんどなかった。それがなぜ、歴史的大逆転を起こすことになったのか。背景の紹介とともに、従来説が覆され、今も議論が続く近年の研究を踏まえながら、戦いの真相に迫ってみよう。

「申し上げます。今川勢本隊が沓掛(くつかけ)の城に入城。今宵、大高(おおだか)の城に兵糧(ひょうろう)を運び、潮の干満から、おそらく明朝には我らの砦(とりで)に攻め寄せ、清須(きよす)からの援軍到着前に落とす算段と見受けられます」

5月18日の夕刻、丸根(まるね)砦の佐久間大学(さくまだいがく)、鷲津(わしづ)砦の織田玄蕃(げんば)の手の者から至急の注進を受けた清須城の織田信長は、僅かに眉を上げ「大儀(たいぎ)」とねぎらうのみであった。

今川義元の大軍が目前に迫ったその夜、清須城に詰めた織田家重臣らは、信長が軍議を開くのを待ち続けた。ところが信長は、とりとめのない話をするばかりで合戦には一切触れぬまま、「世も更けた。皆、下がって休め」と告げて、自らも奥に引き上げてしまう。これには重臣たちもあきれ「運の尽きようとする時には知恵の鏡も曇ると申すが、まさにこのことよ」とあざ笑い、下城していったという(以上、太田牛一〈おおたぎゅういち〉『信長公記〈しんちょうこうき〉』をもとに記述)。

清洲城模擬天守(清須市朝日城屋敷)

まさに、絶体絶命であった。

尾張(現、愛知県西部)統一をほぼ成し遂げた織田信長は、直後の永禄3年(1560)5月、大軍を率(ひき)いた今川義元の侵攻に直面する。義元のねらいは信長を痛撃し、状況によっては一気に尾張全土を制圧することも視野に入れていた。今川軍は総勢2万5,000。片や信長が動員できる兵力は3,000。しかも隣国美濃(現、岐阜県)の斎藤義龍(さいとうよしたつ)とは敵対し、国内もいまだ不安定で、たとえ清須城に籠城したところで、援軍のあては全くない。この窮地にあって、信長はいかにして大逆転を起こしたのか。その謎に迫ってみたい。

桶狭間古戦場伝説地(豊明市栄町)

まず、桶狭間の戦いと聞いて、あなたはどんなイメージを思い浮かべるだろう。風雨をついた信長軍が、高所から奇襲をかける場面かもしれない。あるいは、大軍を擁(よう)することに油断した今川義元の愚将ぶりだろうか。これまでの映画やテレビドラマなどでは、たいていそのように描かれてきた。

しかし、奇襲であったかどうかは今でも研究者の間で意見が分かれている上、義元を愚将とすることは、研究の成果から明確に否定されている。むしろ同時代の武将の中でも、義元は群を抜く存在であり、決して、お歯黒をつけて公家のように振る舞うばかりの軟弱なイメージではなかった。大河ドラマ『麒麟がくる』では、片岡愛之助が風格ある義元を演じているが、実像に近いように筆者には感じられる。まず、今川義元とはどんな人物であるのかを紹介してみよう。

政治手腕に長けた新当主

駿河守護から戦国大名へ

室町時代、「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良(きら)が、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と俗に語られていたという。万一、京の足利将軍家の血筋が絶えた時には、足利一門の吉良氏が将軍家を継ぎ、さらに吉良氏が絶えれば、やはり一門で駿河(現、静岡県東部)守護の今川氏が継ぐという意味で、今川氏はそれほど足利将軍の血筋に近い名門と見られていた。

ちなみに守護とは、室町幕府が定めた国ごとの統治を行う役職で、多くは足利一門が任じられる。しかし幕府の権威を背景にしながらも、守護は次第にその国を我が物とする「守護大名」へと変質し、さらに戦国時代には、弱体化した幕府から一線を画して、実力で領土を広げる「戦国大名」へと様変わりする者が少なくなかった。今川氏はその代表的な存在である


今川氏の家紋の一つ「赤鳥(あかとり)」

他の大名に先駆ける内政手腕

今川義元は永正16年(1519)に、駿河及び遠江(現、静岡県西部)守護の今川氏親(うじちか)の3男に生まれた。織田信長よりも15歳年長である。

2人の兄がいたため義元は仏門に入り、京都の建仁寺(けんにんじ)や妙心寺(みょうしんじ)で修行する。そんな義元の教育掛(がかり)が駿河出身の僧・太原雪斎(たいげんせっさい)であった。やがて駿河に帰った義元は、天文5年(1536)に兄たちが死去すると、弟との家督争いに勝利して17歳の若さで今川家当主となる。この時、義元を後押ししたのが、京都から戻っていた雪斎と、生母の寿桂尼(じゅけいに)であった。

太原雪斎像(臨済寺蔵)

当時、亡き父・氏親が駿河・遠江の地盤を固めていたとはいえ、東の相模(現、神奈川県)には北条(ほうじょう)氏が、北の甲斐(現、山梨県)には武田(たけだ)氏が、隙あらば勢力を広げようとねらっており、新当主の義元はいささかも油断はできなかった。しかし義元は、雪斎の補佐を受けつつ、ぬかりなく政治手腕を発揮していく。

今川義元像(名古屋市緑区)

内政では他の大名に先駆けて検地を行い、領国の農業生産力を把握した。また鉱山経営、商人の保護、税制の整備、関所の一部撤廃などを行い、領国経営を軌道に乗せている。さらに後年のことだが、分国法の制定も画期的で、父・氏親が定めた「今川仮名(かな)目録」に21ヵ条を加えた。これは室町幕府とは別の今川氏独自の法律であり、領国内に秩序をもたらすとともに、今川氏が戦国大名として幕府から半ば独立した構えを示しているという。

「海道一の弓取り」へ

織田信秀との抗争

一方、外交面では家督を継いだ翌年の天文6年(1537)、一族間の対立もあって援助を求めてきた三河(現、愛知県東部)の松平広忠(まつだいらひろただ、徳川家康の父)に力を貸し、広忠を岡崎(おかざき)城主とした。もちろんその裏には、松平氏に影響力を持つことで、いずれ三河も従属させるねらいがあっただろう。しかしその後、西から三河に侵攻する者が現われる。尾張の織田信秀(のぶひで)……信長の父親であった。

織田信秀像(愛西市勝幡町)

天文9年(1540)、西三河に侵攻した織田信秀は安城(あんじょう)城を攻略。それを足がかりに周辺に勢力を広げ始めた。松平広忠から支援要請を受けた義元は、天文12年(1543)頃から本格的に三河への進出を始め、三河をめぐる「今川対織田」の図式が鮮明となる。

三河の領国化と三国同盟

天文17年(1548)には、太原雪斎率いる今川軍が小豆坂(あずきざか)で織田軍を撃破。翌天文18年、松平広忠が家臣に殺されると、義元は岡崎城に今川家の重臣を入れ、松平氏を従属させるとともに、三河の領国化を進めた。そして同年、三河における織田方の拠点であった安城城を落とし、城将の織田信広(のぶひろ、信長の庶兄)を捕えると、織田方に奪われていた松平広忠の嫡男竹千代(たけちよ、のちの徳川家康)と交換。竹千代は今川家の人質となった。かくして義元は三河から織田の勢力を排除し、領国とするのである。

岡崎城跡(岡崎市康生町)

また、この間、義元の目は三河にのみ向けられていたわけではない。甲斐の武田氏と同盟を結ぶ一方、相模の北条氏とは長年にわたり抗争を続けていた。天文14年(1545)には北条氏と敵対する関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲政(うえすぎのりまさ)と結ぶことで、駿河に浸食していた北条氏の勢力を一掃している。

さらに天文23年(1554)には、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで「甲相駿(こうそうすん)三国同盟」が成立した。これによって駿河・遠江・三河を領国とし、押しも押されもせぬ「海道一の弓取り」となった義元は、後顧(こうこ)の憂いなく、矛先(ほこさき)を尾張に向けることが可能となる。

甲相駿同盟

桶狭間の戦いに至るまでの経緯

尾張侵攻の始まり

一方、尾張では、一時期三河にまで勢力を広げた織田信秀が病に倒れ、天文21年(1552)に没した。跡を継いだのは19歳の信長である。すると信長では心もとないと思ったのか、同年、三河国境に近い尾張鳴海(なるみ)城主の山口教継(やまぐちのりつぐ)が、今川に内通した。もちろん信秀を失った尾張国内の混乱に乗じ、義元も水面下で誘いをかけていたのだろう。山口教継は義元への手土産代わりに、尾張の沓掛城、大高城も内通させ、尾張東部に今川の勢力が侵食することになった。

鳴海城跡(名古屋市緑区)

実は義元の父・氏親は一時期、尾張東部にまで勢力を広げており、信長が居城とした那古野(なごや)城(現、名古屋城二の丸付近)も、もともと築いたのは氏親であったともいう。それを信長の父・信秀が奪い取っていたのだ。義元にすれば尾張侵攻は、父の時代の勢力を回復し、さらにそれを超越しようとする試みであったのかもしれない。

信長の鮮やかな手際

尾張に鳴海城、大高城、沓掛城といった有力拠点を確保した義元は、天文23年(1554)正月、次なる手を打つ。すなわち尾張・三河国境付近に勢力を持ち、信長に味方する水野信元(みずののぶもと)の緒川(おがわ)城を落とすべく、緒川城北方に村木(むらき)砦を築いて、攻撃を始めたのである。当時、那古野城の信長は清須城の守護代(しゅごだい)家と争っており、身動きできないであろうことも計算に入れていた。

しかし、緒川城の危急を知った信長は、動く。舅(しゅうと)である美濃の斎藤道三(どうさん)に頼んで、那古野城の留守を美濃の兵に託すと、1月22日、自ら兵を率いて出陣し、同24日、僅か1日の戦いで村木砦を落としたのである。その鮮やかな手際(てぎわ)には斎藤道三も驚いたというが、義元も、信長が一筋縄ではゆかぬことに初めて気づいたかもしれない。

村木砦の攻略

もはや見過ごすわけにはいかない

その後、信長は尾張平定に向けて加速し始める。村木砦の戦いから3ヵ月後には、清須の守護代家を滅ぼし、本拠を清須城に移した。それから2年後の弘治2年(1556)、後ろ盾であった斎藤道三が息子の義龍に討たれ、美濃は敵国となってしまう。が、信長は手をゆるめず、尾張国内の反信長派を一掃していった。永禄2年(1559)には岩倉(いわくら)城にいた、もう一つの守護代家を滅ぼし、ここにほぼ尾張統一を成し遂げるのである。

また信長は、尾張国内に食い込む今川方の城に付城(つけじろ、敵城の近くに攻撃拠点として築いた城)を設け、封じ込めを図った。すなわち鳴海城には北に丹下(たんげ)砦、東に善照寺(ぜんしょうじ)砦、南に中島(なかじま)砦、大高城には北に鷲津砦、東に丸根砦という配置で、鳴海、大高両城を外部と遮断、孤立させて落とすねらいであった。

鳴海城、大高城と付城の位置関係。海岸線が現在よりも内陸に食い込んでいた

義元にすれば「尾張の若造が小癪(こしゃく)な」といったところだろうが、もはや見過ごすわけにはいかない。

「我ら今川の圧倒的な力を尾張の者どもに見せつけ、鳴海、大高両城周辺の織田方の付城をことごとく粉砕してくれよう。さらに両城を拠点に清須の信長を完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめし、好機があらば討ち取って、尾張を一息に制圧するのもよし」

そう肚(はら)をくくった。以上が、今川義元が大軍をもって尾張に侵攻するまでの経緯である。それはとりもなおさず、桶狭間の戦いの始まりでもあった。

今川の大軍、尾張へ

義元の出陣

永禄3年(1560)5月12日、今川義元は威風堂々と駿府(すんぷ)の今川館(いまがわやかた)を出陣した。率いる軍勢は2万5,000(『信長公記』には4万5,000とも)。義元は、足利将軍から使用を許されていたらしい塗輿(ぬりごし)を用意していたという。駿河及び遠江守護である今川家の格式を、沿道に見せつけるねらいだった。時に義元、42歳。5年前に他界した補佐役の太源雪斎にも、義元はその雄姿を見せたかったことだろう。今川軍は領国の駿河・遠江・三河を西へと進み、5月18日に尾張の沓掛城に入った。

桶狭間合戦直前の情勢

ところで、かつてこの義元の出陣は、京都への上洛(じょうらく)を目指していたと語られていたが、近年の研究ではおおむね否定されている。上洛目的の出陣であれば、途中の美濃の斎藤義龍や、近江(現、滋賀県)の六角義賢(ろっかくよしかた)らと事前交渉が必要になるが、その形跡はない。また、上洛を求める足利将軍の書簡も存在していない。義元の目的は前述の通り、尾張における今川の拠点を盤石(ばんじゃく)なものとし、信長を叩きのめして、事と次第によっては一気に尾張を制圧することにあっただろう。

瀬名氏俊が選んだ休息場所

義元が沓掛城に入った5月18日は、西暦の6月11日にあたる。梅雨の時期だが、晴れ間の日差しは強く、蒸し暑い。大軍であるだけに行軍の際には、全軍の休息場所をあらかじめ定めておく必要があった。その役割を負っていたのが瀬名氏俊(せなうじとし)で、200人ほどの手勢とともに本隊に先発し、休息場所をみつくろっては準備を調えたという。

沓掛城跡(豊明市沓掛町)

沓掛城に入った翌日の19日には、今川軍は東浦(ひがしうら)海道から大高道(おおだかみち)を西進し、直線距離にして約8kmの大高城に入る予定だった。そのため瀬名は17日に先発して道程を検分、ほぼ中間地点を休息場所とする。大高道と三河街道などが交差し、周囲には高根(たかね)山、巻(まき)山などの丘陵と、湧水が豊富なくぼ地があるその一帯は、「桶狭間」といった。炎暑の行軍で、大人数が水分補給できる場所は貴重であっただろう。同地には、瀬名氏俊が設営準備の際に布陣した陣所跡の伝承も残る。

瀬名氏俊陣所跡碑(名古屋市緑区)。地元では「セナ藪」と呼ばれていた

また18日の夜には、青年武将に成長した竹千代こと松平元康(まつだいらもとやす)が、義元の命で三河衆を率い、大高城に兵糧を運び入れた。織田方の目をかすめての、危険な任務である。さらに大高城到着後は、城将の朝比奈泰朝(あさひなやすとも)と協力し、夜半より元康は丸根砦を、朝比奈は鷲津砦を攻めることになっていた。これら邪魔な付城を落としたのちに、義元率いる今川軍本隊が悠々と大高城に入る予定なのである。

大高城跡(名古屋市緑区)

なぜ家臣に知らせなかったのか

未明の出陣

ここで話は、本記事の冒頭に戻る。18日の夕刻、丸根・鷲津砦の使者から今川軍が沓掛城に入り、今夜半にも両砦に攻め寄せる危険があると知らされた清須城の信長は、何の行動も起こさず、その夜、重臣らと軍議すら開かなかったことはすでに紹介した。さらにその後を『信長公記』などをもとに追ってみよう。

「申し上げます。丸根・鷲津砦より火急の使いがまいりました」。その声を聞くや、信長が床を蹴ったのが午前2時過ぎであったという。予想通り、両砦に今川勢が攻め寄せたという知らせであった。

「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度(ひとたび)生を得て 滅せぬもののあるべきか」

日頃から好む敦盛(あつもり)の一節を舞うと、「貝を吹け(法螺〈ほら〉貝を吹け)、具足を持て」と命じ、小姓(こしょう)たちが信長に手際よく鎧(よろい)をまとわせる。さらに立ったまま湯づけをかき込むと、兜(かぶと)を着けた信長は「出陣じゃ」と声を上げた。黎明の清須城から馬で駆け出す信長に従ったのは、僅か5騎の小姓衆だったという。

イラスト:諏訪原寛幸

情報漏えいを逆手に

『信長公記』には、清須城から熱田(あつた)神宮まで約12kmの美濃路を一気に駆けたと書かれているが、実際には3時間ほどを要している。おそらくは途中の寺社に立ち寄り、各所から駆けつけてくる兵たちを合流させていたのだろう。

一説に信長が熱田神宮で戦勝祈願を行うと、二羽の白鷺が飛び立ち、本殿の奥から鎧の触れ合うような音が聞こえたという。「吉兆(きっちょう)である」と信長は喜び、集まった200の将兵の士気を高めた。東の空を仰ぐと、黒煙が昇っている。丸根・鷲津砦が落ちたらしい。信長は南へと馬を急がせた。

熱田神宮(名古屋市熱田区)

海沿いの道は潮が満ち、騎馬での走行は難しいと見た信長は、内陸の道を疾走する。丹下砦を経て、鳴海城の東、善照寺砦に入ったのは午前10時頃であったという。ここで信長は軍勢を整え、参集した将兵の数はようやく3,000を数えるまでになった。

善照寺砦跡(名古屋市緑区)

それにしても信長は、なぜ出陣することをあらかじめ家臣たちに伝えなかったのだろう。考えられるのは、情報漏えいを防ぐためである。

織田家中はまだまだ一枚岩とはいえず、つい先頃まで敵対していた者も少なくなかった。この度の今川軍の来襲に、敵に内通して信長の動きを伝える者がいてもおかしくはない。信長はむしろそれを逆手にとり、直前まで出陣を明かさず、敵に「信長は清須に籠城するようだ」と思わせるよう仕向けたのではなかったか。そうと知れば今川義元は警戒せず、予定通りに大高城に向けて進軍するであろう。そう、この「予定通り」こそが、信長にとって重要ではなかっただろうか。

信長の賭け

佐々、千秋らの壊滅

信長が善照寺砦で軍勢を整え終えた正午頃、今川軍本隊が東の桶狭間一帯に到着したらしい。すると、善照寺砦から佐々政次(さっさまさつぐ)、千秋四郎(せんしゅうしろう)の二将が300ほどの手勢で突出、今川軍の前衛部隊に挑み、あえなく壊滅してしまった。その知らせに今川義元は「わが矛先の前に、織田勢など物の数ではない」と大いに喜び、丸根・鷲津砦の戦勝もあって、本陣で謡(うたい)を口ずさむほどの上機嫌であったという。

丸根砦跡(名古屋市緑区)

佐々、千秋が、僅かな手勢で何のために今川軍に挑んだのか、今もよくわかっていない。信長の馬前で抜け駆けの功名(こうみょう)を上げようとしたのだ、ともいう。だとすれば、なけなしの貴重な兵を失った両将の抜け駆けは、信長にとっては嬉しくないものだったろう。しかし、信長は何の感想ももらしていない。あるいは別の目的があったとも想像できるが、これについては後述する。

運ハ天にアリ

佐々、千秋らの壊滅を見た信長は、さらに南の中島(なかじま)砦に移動する。重臣らは「中島への道は両脇が深田の細い一本道で、移動すればこちらが少人数であることを敵に悟られるのは必定(ひつじょう)」と止めようとするが、信長は聞く耳を持たなかった。信長とともに移動した将兵は、2,000に満たなかったという。中島砦は善照寺砦よりもさらに今川軍に近いが、手越(てごし)川沿いの低地で、守りが堅いとはいえない。が、信長も中島砦に立て籠もるつもりはなかった。

中島砦跡(名古屋市緑区。なお石碑は個人宅の敷地内にあるため、撮影は許可が必要)

「これより、砦を打って出る」。信長が中島砦からの出撃を告げると、重臣らはすがるようにして止めるが、『信長公記』によると信長はこう言ったという。

「おのおのよく聞け。今川の者どもは昨夜、大高城に兵糧を入れたのち、夜半より丸根、鷲津の砦を攻めて疲れ切っておる。かたや、我らは新手である。『小軍ニシテ大敵ヲ怖ルルコトナカレ、運ハ天ニアリ』の言葉もあろう。敵が攻め来たらば引き、退けば追い、突き崩せばよい。たやすいことだ。敵の首は無用、打ち捨てにせよ。戦(いくさ)に勝てば、本日働いた者は家の面目、末代までの功名となろうぞ。皆の者、励めや」

もちろん今川軍本隊は、丸根、鷲津砦を攻めた軍勢とは別である。信長はそれを承知で、士気を高めるために敵は疲れ切っていると言ったのだろう。そして敵の首は打ち捨てにし、戦に勝つと鼓舞した。

しかし正面からまともに戦って、小勢が大軍に勝てる道理はない。もし、奇跡的な逆転が起きるとすれば、それは小勢が何らかの方法で、敵の大将を討ち取ることができた時ぐらいではないか。果たして信長は、そのための秘策を何か用意していたのだろうか。それとも運を天に任せて、ノープランで今川軍に挑んだのだろうか。

一つの仮説として

梁田出羽守(やなだでわのかみ)という人物がいる。『信長公記』には登場しないが、小瀬甫庵(おぜほあん)の『信長記(しんちょうき)』や、『三河後風土記(みかわごふどき)』(いずれも『信長公記』より後に成立)に登場し、一説に桶狭間合戦の最中、信長に義元本陣の場所を伝えて奇襲を成功させ、信長が勲功第一と評して、のちに沓掛城を与えたといわれる。しかし同時代史料には登場せず、多くの研究者は梁田の活躍について否定的である。

筆者は、梁田の活躍についてはよくわからない。休息時の義元本陣の位置を探り出して信長に伝えるとしたら、事前に複数の手の者が今川軍に紛れ込んでいなくてはならないだろう。しかも義元は一時休憩しているに過ぎず、素早く信長に伝えることができるものなのか。しかし、義元本陣の場所は、合戦前に見当がついていた可能性があるのではないか。思い起こして頂きたいのが、今川軍本隊に先発して休憩場所を設営していた瀬名氏俊の存在である。

瀬名氏俊陣所跡(名古屋市緑区)

瀬名は桶狭間の戦いの2日前(5月17日)に現地を視察し、本陣の設営準備を行っていた。その姿を織田方の者が目撃し、密かに信長に知らせていたとは考えられないだろうか。

「なに? 義元が休息をとる場所がわかったと申すか?」
うなずいた家臣は、地図を示しながら言う。
「本日、200の手勢を連れた今川の侍大将が念入りに検分しており申した。聞くところでは、今川義元は明日にも沓掛の城に到着するとか。されば大高道に沿ったこの地を下調べするのは、義元が明後日に大高城を目指す途中、ここで休息をとる算段ではあるまいかと」
「なるほど。で、この地は何と申す」
「地元では桶狭間と。浮かべた桶が回るほど、豊かに水の湧く所にございます。周辺は丘が連なり、そのうちの一つに念を入れて準備をしており申した。丘を下れば、池や深田ばかりでございます」
「面白い! このこと、他言無用ぞ」

僅かな光明

以上の信長と家臣の会話は全くの想像だが、義元が桶狭間で休息する可能性に、信長は賭けたのかもしれない。

少年の頃に野山を駆けていた信長は、桶狭間周辺の土地鑑はあっただろう。池が点在し深田が多く、大軍は展開できない。今川勢は周辺の山々に、分散して布陣することになるはずだ。義元の本陣周辺も、平地のように何重も護衛をつけることは難しいだろう。つまりうまく接近さえすれば、信長の手勢だけでも義元を討つチャンスが訪れるかもしれない。信長はその状況に僅かな光明を見出し、命運を賭けたのではないか。

織田信長像(清須市清洲)

そう考えると、実はつじつまの合うことが多い。
まず信長が当日まで出陣意思を家臣に明かさなかったのは、今川方に信長は清須城に籠城すると思わせて、義元の大高城への進軍を予定通りに行わせようとしたのだろう。そうなれば当然、桶狭間で休息をとることになる。信長にとって、これが重要だった。丸根、鷲津砦を見殺しにしたのも、戦いは順調と義元に思わせ、予定通りの行動を取らせるためではなかったか。

次に丹下、善照寺、中島砦と信長が敵へと接近していったのは、もちろん信長自身が敵陣に斬り込むためである。

そして善照寺砦から佐々、千秋らが今川軍前衛に突出して、あえなく壊滅したのは、織田勢は取るに足らないと敵を安心させるためのいわば「見せ球」であったかもしれない。それによって信長が中島砦から出撃しても、今川軍がさほど警戒しないよう仕向けたのではなかったか。

信長の進撃ルートの謎

今川軍の布陣

中島砦で出陣を告げた直後、信長のもとに、前田又左衛門利家(まえだまたざえもんとしいえ)や毛利河内守長秀(もうりかわちのかみながひで)、毛利十郎(じゅうろう)ら10人ほどの武者が、討ち取った敵の首を見せようと駆けつけてきた。佐々、千秋らとともに戦っていたのだろうか。信長は彼らにも首は打ち捨てにし、敵本陣を目指すことを告げると、いよいよ出撃する。それからの信長の進撃ルートについては、現在も研究者の間で議論が続いているのだが、その前に今川軍の布陣について紹介しておこう。

中島砦と桶狭間の位置関係

今川義元の本陣は、大高道と三河街道が交差する地点からやや北の丘陵に置かれていた。『信長公記』は「おけはざま山」と記すが、昔も今もおけはざま山という名の山は存在しない。ただし義元本陣が山上にあるのは疑いなく、映画やドラマのように信長が「攻め下る」ことはできないことがわかる。付近の高根山には松井宗信(まついむねのぶ)、巻山には井伊直盛(いいなおもり、井伊直虎の父)など、今川軍は山々に分散して布陣していた。

おけはざま山推定地。標高64.7mの丘だが、勾配はきつい(名古屋市緑区)

これまでの通説「迂回奇襲説」

さて、信長の進撃ルートである。これについては従来、迂回して奇襲したと語られてきた。現在では否定されている説だが、まずこれまでの通説から紹介しよう。

善照寺砦の信長のもとに、梁田出羽守の手の者が「今川義元は田楽狭間(でんがくはざま)に休息中」の情報をもたらした。これを受けて信長は、善照寺砦に1,000の軍勢を置いて信長が在陣しているように見せかけると、自らは2,000の手勢を率い、今川方に気づかれぬよう北方に大きく迂回し、丘陵地帯を進んだ。そして低地の田楽狭間を見下ろす太子ヶ根(たいしがね)山に至る。と、急に激しい風雨が起こり、義元本陣が混乱。やや雨脚が弱まるのを見計らい、信長は太子ヶ根山を田楽狭間へ駆け下り、義元を討った……というものである。

迂回奇襲説のルート

この説は小瀬甫庵の『信長記』などをベースに、明治時代の陸軍参謀本部が編纂(へんさん)した『日本戦史 桶狭間役』に載るもので、軍事の権威がまとめたものであることから長く信じられ、多くの映画やドラマもこれに基づいてつくられた。しかし近年、信憑(しんぴょう)性の低い『信長記』をベースにしていることからいくつも問題点が指摘され、現在では大半の研究者が否定している。

『信長公記』をベースとする「正面攻撃説」

代わって改めて見直されているのが、『信長記』よりも早く成立し、信憑性も高いとされる太田牛一の『信長公記』である。『信長公記』には、信長が迂回したとは一言も書かれていない。これに基づき、信長は正面から今川軍に挑んだとする「正面攻撃説」が生まれることになった。

とはいえ、小勢の信長軍が正面から戦いを挑んで、義元本陣にまで攻め上れるものなのか、常識的に考えて疑問である。また『信長公記』のこのくだりの記述が至って簡素なので、「正面攻撃説」をベースとしつつ、さまざまな解釈も付加されることになった。

「正面攻撃説」のバリエーション

中島砦を出たのちの信長について、『信長公記』には「山際迄(やまぎわまで)人数寄せられ候(そろうろ)の処(ところ)、俄(にわ)かに急雨(むらさめ)石氷を投げ打つ様に」とある。

信長の行動としては山の近くまで軍勢を進めたことしかわからず、そのあと急に強い風雨が起こり、それが収まってから信長軍が今川勢を突き崩す記述が続く。これをどう解釈するのか、「正面攻撃説」のいくつかのバリエーションを見てみよう。

①正面突破説…中島砦から東海道を東に進む信長軍は、今川軍前衛を破り、これを見た義元本隊が応援のため山を下る。その時に暴風雨が起こり、今川軍が混乱する中、信長は一気に本隊に攻め込んで義元を討った。それを可能にしたのは、信長が率いたのが馬廻(うままわり)の精鋭だったのに対し、今川軍の大半が農民だったことによるという。ただし、前衛を破られたとはいえ、いきなり今川義元が自ら応援に向かうものなのか、疑問も残る。

正面攻撃説のルート(①正面突破説に対応)

②側面強襲説…中島砦から東海道を東に山際へと進む信長軍に対し、急な雹(ひょう)まじりの暴風雨で今川軍前衛の対応が遅れた。信長は東海道から南に下り、備えの手薄な今川軍本陣の右手に攻め上る強襲をかける。信長の動きはある程度、今川軍もつかんでいたが、本陣強襲は意表をつかれたかたちとなり、義元は討たれた。強襲とは作戦行動を隠さず、強引に攻める意味合いである。しかし姿を隠さず攻めかかってきた信長軍に、今川軍は意表をつかれるものだろうか。

織田信長像(清須市清洲)

③正面・迂回併用説…信長は軍勢を二つに分け、一隊は東海道を東に進んで今川軍前衛と戦い、もう一隊は迂回して今川軍本陣の背後をつき、義元を討ち取ったとする。ただし根拠となるのは『信長公記』ではなく、江戸時代前期に成立した『松平記』の記述で、その信憑性は『信長記』と同等以下という評価もあり、決定的な史料にはなり得ないとされている。

他にもバリエーションは存在するが、いずれの説にも問題があり、決定打とはなっていない。今後、同時代史料の新発見でもない限り、まだ議論は続くことと思われる。今のところ信長の進撃ルートは、不明といわざるを得ない状況なのだ。

蛇足ながら

専門の研究者たちの説を紹介したあとで恐縮だが、信長の進撃ルートについて蛇足ながら、私見も述べてみたい。

中島砦から東海道を東に山際へと進んできた信長軍に、高根山の今川軍前衛は奇異な印象を受ける。その前の織田勢(佐々・千秋ら)は接近すると南下して今川軍に向かってきたが、今度の織田勢(信長軍)は南下せず、今川軍の北方を横切るように進んでいる。意図がわからず、前衛の対応がやや遅れたところへ、急な暴風雨が西から襲った。石のような大きさの雹が降り、楠の大木がなぎ倒されるほどの強風、そして激しい雷光である。今川の兵は戦いどころではなくなり、槍などの金属類を手放して身を隠す場所を探した。その間、暴風雨を背に受ける信長軍は東へと駆け続け、今川軍の視界から姿を消す。高根山の東に釜ヶ谷(かまがたに)という池が広がるくぼ地があり、そこに身をひそめたのだ(地元の伝承による)。

釜ヶ谷(名古屋市緑区)

釜ヶ谷から今川軍本陣は指呼(しこ)の距離である。本陣の位置の見当がついていたからこその、信長の策であった。暴風雨で今川軍本陣でも混乱が起きており、信長は頃合いを計ると、釜ヶ谷から本陣右翼へ一気に攻め上った。今川軍は驚きあわて、算を乱して崩れる中、信長は塗輿(ぬりごし)を見つけ、「敵の旗本はこれぞ。これへかかれ」と大声で下知。信長の手勢は義元の旗本らに襲いかかり、服部小平太(はっとりこへいた)が義元に突きかかるが、膝(ひざ)を斬られる。しかし続く毛利新介(もうりしんすけ)が義元を押さえ込み、ついに首を上げた。義元は首を斬られる際、毛利の指を食いちぎったという。

「今川義元桶狭間討死之図」(『国史画帖 大和桜』より)

②の側面強襲に近いが、地元に伝わる釜ヶ谷からの奇襲説を取り入れてみた。土地鑑のある信長だからこそ成し得た戦法とも思えるのだが、いかがだろうか。

桶狭間の戦いとは何であったのか

戦国史に与えた影響

以上、桶狭間の戦いの背景と概要、そして信長の逆転勝利の真相を探ってみた。
桶狭間の戦いが戦国史に与えた影響は大きい。義元と有力部将を失った今川家を息子の氏真(うじざね)は維持することができず、桶狭間の戦いから8年後に、戦国大名としての今川家は滅んでしまう。代わって武田氏が駿河を領有した。また桶狭間の敗北で今川の勢力が尾張、三河から撤退する中、松平元康は岡崎城に入り、独立大名となった。そして織田信長と清須同盟を結び、三河平定を進めていく。

清洲城模擬天守(清須市朝日城屋敷)

一方、桶狭間で勝利した信長は、東からの最大の脅威が消滅したことに加え、松平元康と同盟を結ぶことで、東を警戒する必要がなくなった。その分、北方の美濃攻略に全力を注ぐことができるようになり、「天下布武」に向けての新たなステージが始まるのである。

勝敗を分けたもの

それにしても、なぜ信長は逆転勝利を収めることができたのだろう。一ついえるのは、絶体絶命の状況に置かれていたからこそ、作戦目的がしぼり込まれたであろう、ということだ。今川の大軍に小勢の織田が勝つには、義元の首をとる以外に道はない。では、どうしたらそれができるか。答えは、義元の守りが手薄になった瞬間を襲うしかないだろう。そこから導き出された具体策が、行軍中に休息をとる瞬間をねらうということではなかったか。あるいは信長は、今川軍が休息をとる場所の情報を、念入りに収集していたのかもしれない。

もう一つは運である。今川軍の休息場所が、大軍を展開しにくい丘陵地帯の桶狭間であったこと。実際、信長が義元本陣を襲った際、付近の山々に布陣していた今川の将兵は、山を下り、池や深田を迂回したため、救援が遅れた。大軍の強みが封印される場所であったことは、信長にとって幸運だった。

また、天候の急変も大きい。信長が今川軍に接近する間、暴風雨が今川軍に向かって吹きつけ、戦うどころではなくなった。もしこれがなかったら、義元本陣に至るまでに信長軍はかなり損耗していたかもしれない。『信長公記』は「余りの事に熱田大明神の神軍(かみいくさ)か」と記すが、まさに神がかった僥倖(ぎょうこう)だったといえる。

桶狭間古戦場公園の今川義元墓碑。手前の墓碑には「駿公墓碣(すんこうぼけつ)」とあり、付近の「ねず塚」から発掘された。地元では「ねず塚」に触れると熱病にかかると恐れられていたという(名古屋市緑区)

一方、今川義元は、映画やドラマで描かれるような大きな油断をしていたわけではない。ただそれまでの経験から、小勢力は大勢力に服従するものという先入観があり、追い詰められた敵が、まさか「窮鼠猫を噛む」行動に出るとは想像できなかったのではないか。そこに信長を軽く見ていた、大大名の「驕(おご)り」がなかったとはいい切れないだろう。

桶狭間古戦場伝説地の今川義元墓碑。古戦場跡は名古屋市緑区、豊明市栄町の2ヵ所にあるが、この一帯が戦場であったことを意味している(豊明市栄町)

戦いは時の運であると、当時の武将たちは皆心得ていた。では、運を呼び寄せるものは何か。ほとんど勝ち目のないぎりぎりの状況で、義元の首をとるという万に一つの可能性に、迷うことなく突き進んだ信長。片や今川の大軍が織田に敗れることなどあり得ないと、高をくくっていた義元。あるいはこの両者の差に、ヒントがあるのかもしれない。あなたはどう考えるだろうか。

参考文献:日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(洋泉社y新書)、小和田哲男監修『戦況図解 信長戦記』(サンエイ新書)、太田牛一原著、榊山 潤訳『原本現代訳 信長公記』(ニュートンプレス)他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。