日本文化の
入り口マガジン
11月24日(火)
茶と和解せよ 信楽の看板
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
11月24日(火)

茶と和解せよ 信楽の看板

読み物
Culture
2020.07.20

豊臣秀頼は生きていた⁉︎薩摩でピタリと符合する生存説。大坂城からの脱出方法は?

この記事を書いた人

歴史上の人物には、なぜか生存説がついて回る。

今をときめく『麒麟がくる』でおなじみの明智光秀。彼は徳川家康のブレーン、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)となって長寿を全うした。いやいや、世界を巻き込んでなら、源義経はじつはモンゴル帝国の創建者、チンギス・ハーンだったなんてものまで。

死んだことを信じたくない、そんな願望から出た噂なのか。それとも、火のない所に煙は立たぬ……なのか。

どちらにせよ、生存説にはそれなりの根拠がある。
まず、死亡時の状況が明確でない場合には、生存説が出る可能性が高い。だって、死体がないんだもの。そりゃ、ひょっとしたら、生きてるかもってなるじゃない?

一方で、たとえ死体があったとしても、やっぱり生存説が出ることも。この理由は、ズバリ影武者の存在。影武者がいるとなれば、当然、本人は別の場所でピンピンしているワケで。死亡という事実に疑いが残る。

死んだのになぜか死んでない……。いや、そもそも死んでない……のか。とにかく、1人の人物の死を巡って、不可思議な現象が起こるのである。

そして、今回取り上げるのは、前者、つまり「死体がない」との理由で、生存説が囁かれているお方。
薩摩(鹿児島県)での生存の可能性が高い、「豊臣秀頼(ひでより)」である。

調べれば、面白いように、噂、仮説、証拠がぞろぞろと出てくるのだが。
さて、真実はいかに。早速、ご紹介していこう。

実際のところって、豊臣秀頼の死体は出たの?

まずは、今回の主人公である豊臣秀頼のおさらいから。
豊臣秀頼とは、天下人である豊臣秀吉の嫡男。出生時から数奇な運命を持つ人物である。

秀吉の側室である淀殿を母に持ち、秀頼が無事に生まれたことで、実子が少なかった秀吉を狂喜乱舞させたのは有名。甥の豊臣秀次(ひでつぐ)を次期承継者としていたが、秀頼の誕生で一転。秀次を高野山で切腹させ、一族を処刑。こうして、次期政権を秀頼に継がさんため、秀吉は多大な犠牲を周囲に強いたのである。

ただ、番狂わせが起こる。慶長3(1598)年8月18日、秀吉死去。愛すべき秀頼を遺して、無念にも長生きできず。

豊臣秀吉像

当時、秀頼は6歳。そこで登場したのが、徳川家康である。秀頼が成長するまでの臨時政権だったはずが。家康の征夷大将軍就任、徳川将軍家の世襲制と、次々に繰り出される施策の連打で方向転換。遂には、豊臣方が徳川家康を呪ったとする方広寺鐘名事件に発展。こうして、豊臣家と江戸幕府を開いた徳川家の争いが勃発。これが慶長19(1614)年と同20(1615)年に起こった「大坂の陣」である。

そして、肝心の豊臣秀頼の最期はというと。
慶長20(1615)年5月8日午の刻(午後12時頃)。『駿府記』では、このように記されている。

「慶長二十年五月八日…(中略)…午の刻(午後十二時ごろ)、大御所様は井伊掃部助直孝を召し、秀頼様と母君以下帯曲輪に籠っている人びとに対し切腹を命じた。自害した人々 従一位右大臣秀頼公(二十三歳)・母君(淀殿と号す)」
(歴史読本編集部編『ここまでわかった!大坂の陣と豊臣秀頼』より一部抜粋)

じつは、秀頼が自刃した事実は、これ以外にも複数の書状の中に登場する。

徳川家康に仕えた南禅寺の住職、金地院崇伝(こんちいんすうでん)の日記には、以下の記述が。

「五月八日…(中略)…秀頼並に御袋、大野修理・速水甲斐守以下付女中衆、余多籠り居り降を乞う。…(中略)…何れも残らず生害、火掛る也」
(前川和彦著『秀頼脱出 豊臣秀頼は九州で生存した』より一部抜粋)

さらには、「大坂の陣」に参戦していた伊達政宗の書状にも、似たような記述が登場する。

「秀頼又御袋も焼残りの土蔵にはいり御座候、御腹を切らせ御申候、御袋もかねての御口ほどなく候て、むざと御果候」
(同上より一部抜粋)

「秀頼自刃」の事実が、こうして複数の文書に表れる。追いつめられて、逃げ場がないのだから仕方ない。徳川家より切腹を申し付けられ、きっと最期は自刃したのだろう。確かに、そんなふうに思えてしまう。

しかし、いざ、死体となれば、話は別。
『大坂御陣覚書』では、肝心の秀頼の死体について「御死骸見え分らず」と記されているという。『難波軍実録』では、首はなく黒焦げの死体のため、秀頼かどうかは判別がつかないとのこと。ただ、秀吉の秘蔵であった吉光の名刀と一緒であったため、秀頼だと判定されたようだ。

ちなみに、昭和55(1980)年5月。大坂城の旧三の丸を発掘中に偶然にも頭蓋骨が発見された。貝殻を敷いた上に丁寧に埋葬され、唐津焼の陶器なども副葬品として出土。頭蓋骨を鑑定した結果、20~25歳までの男性と判明。高貴な人物で亡くなったとなれば「豊臣秀頼」だと思うワケで。

自刃した場所からは離れるが。誰かが持ち去って埋葬したのだろうと、秀頼死亡説はこのようにとらえている。確かに条件は合っているのだが。ただ、発見された場所が問題であった。というのも、発見された地下3メートルのところでは、当時の大坂城のあった場所には程遠いのである。そのため、結果的にこの頭蓋骨も秀頼の首だとは、断定できない。

こうなってくると、本当に何が真実なのかわからなくなる。
特に、「歴史」は、大抵の場合、勝者に優しい。じつに、「歴史」には、そんなバカげた特性がある。「勝てば官軍」の通り、事実を歪曲して、いや、否定、隠匿、捏造、なんのその。好き放題の事実が後世に伝えられることも。

だからこそ。
敗者となった「豊臣秀頼」にまつわる事実は、真実なのかが分からないのだ。

果たして大坂城から抜け出すことは可能なのか

豊臣秀頼の生存が、世間で囁かれ始めたのは、案外早い。

「花のようなる秀頼さまを
 鬼のようなる真田がつれて
 退(の)きも退いたよ加護島へ」
※「退きも退いたり薩摩まで」と伝わっている歌もある
(川口素生著『戦国武将 逸話の謎と真相』)より一部抜粋 

こんなわらべ歌が、「大坂の陣」の直後に京都や大坂で流行したというのである。

ポイントは、豊臣秀頼と共に真田幸村(さなだゆきむら)も生きていると、人々が信じていたことである。幸村の場合は、死体がなかったのではなく、あり過ぎたのが問題となった。要は何人もの影武者を立てていたのである。

それもややこしいのは、幸村の影武者は長い年月をかけて仕込まれていたということ。開戦前に真田幸村として戦国武将らを訪問したのも、影武者だったとか。そのため、徳川方の武将らは、自分が知っている人物こそ「真田幸村」だと信じ、彼らが口にする幸村の容貌は、どれも一致しなかったという。何より、幸村と思われる首を挙げた西尾仁左衛門に恩賞が与えられなかったのが、その証拠。まさかの徳川家康も、これが幸村だと決めきれなかったのかもしれない。

そんな真田幸村が生き残り、豊臣秀頼を薩摩(鹿児島県)まで連れて逃げたというのである。

さて、この説を検証する前に、まず、クリアしなければならないハードルがある。それが、「大坂城」からの脱出である。

秀頼が自刃したとされる「大坂夏の陣」。この戦いの当時、ぐるりと徳川方の戦国武将らが、大坂城を取り囲んでいた。そんな包囲網をかいくぐって、本当に大坂城から脱出することが可能なのかというコト。これが一番のカギとなる。

もともと「現在の大阪城」は、秀吉が築いたものではない。というのも、「大坂夏の陣」で天守閣をはじめ、ほとんどの建物が焼失しているからだ。じつは、江戸幕府は豊臣時代を彷彿とさせるモノを嫌がった。秀吉が築いた大坂城の城跡には、7メートルの盛土をしたといわれている。つまり、秀吉の大坂城は、完全に埋没。その上で、徳川時代の大坂城を再築したのである。ちなみに、先ほどの話にあった、地下3メートルの地点で発見された頭蓋骨も、そこが問題といわれている。

話を戻すが。つまりは、「大坂の陣」の当時の大坂城は、その構造が今となっては分からないというコト。ただ、言い伝えには「真田の抜け穴」と称する抜け道があったとされている。確かに、神出鬼没な真田隊の活躍を考えれば、抜け穴の存在も頷ける。

さて、今回の記事を執筆するにあたって、参考文献として挙げさせて頂いたのが『秀頼脱出 豊臣秀頼は九州で生存した』という書籍。この本の著者である前川和彦(まえかわかずひこ)氏は、大がかりな取材をもとに「秀頼生存説」を主張されていた方。その前川氏が著書の中で、大坂城の抜け穴のヒントとして触れたのが「姫路城」である。

姫路城は、当時の姿がそのまま残されていることでも有名なお城。その姫路城には、昔は33ヵ所もの井戸が城内にあったとされている。そのうちの幾つかは抜け穴の出入り口なのだとか。確かに、築城する際は、籠城戦に備えて城を設計するのが当然。それなら、同時に城から脱出する方法も視野に入れるだろう。

じつは、これを証明するような話も残っている。
慶長19(1614)年の「大坂冬の陣」。徳川方の使者が大坂城へ遣わされた際、その接待に、新鮮な鯛の刺身が食膳に並んだというのである。どうやら、天守閣の下の帯曲輪(おびぐるわ)の抜け穴から城外に出て、堺の方まで生魚を買い出しに行っていたとの噂も。コレが本当だとしたら。つまり、大坂城の周囲を完全に包囲されていても、城より出ることは可能ということになる。

何より、秀頼の正室であった「千姫」は、戦いの最中に大坂城より出てきたではないか。のちに処刑となった秀頼の子の「国松(くにまつ)」も、大坂城からの脱出に成功。大坂を離れて京都の伏見の商家に潜んでいるところを捕らえられたのであった。

そう考えると、大坂城からの脱出は全く可能性がないワケではない。
だからこそ、秀頼の生存説は荒唐無稽とは言い難いのである。

驚くべき日出藩の家系図にある「宋連」たる人物

つい、興奮して、ここに至るまでに、多くの字数を費やしてしまった。

さて、ここからは。
秀頼が無事に薩摩に逃れたとして、実際にどのような人生を送ったのか。そのサイドストーリーを追っていこう。

『備前老人物語』では、裸の秀頼を菰(こも、マコモやわらで編んだむしろのこと)でくるみ、水門から堀に流したという。待ち受けた織田有楽斎(おだゆうらくさい)が舟に乗せて淀川まで運び、加藤清正の子、忠広(ただひろ)が肥後(熊本県)へ軍船で運んだという流れ。

まずもって、秀頼は190㎝オーバーのガタイのいい23歳男性。そんな若者を水門から流すとは、バレるに決まっている。というか、抜け穴使ってないじゃんっていう話。

他にもある。
薩摩側の資料では、島津家の家臣、伊集院半兵衛が、京橋口の抜け穴より城内へ迎えに行って秀頼を脱出させたのだとか。そして、大坂から薩摩へと連れ出したという。ただ、秀頼の側近らはどうしたという話。島津家にいきなり引き渡すはずもなく、資料として残っているのがなんとも怪しいではないか。

薩摩富士

それでは、実際に大坂城からの脱出はどのように行われたのか。
ご紹介した前川和彦氏は、前著の取材の中で、とある2人から別々の立場の「一子相伝(いっしそうでん)」を聞いたという。一子相伝とは、自分の子一人だけに口伝でその奥義を伝えるコト。豊臣秀頼の生存の話は、この一子相伝によって、受け継がれてきたというのだ。

一体どんな話なのか。
まず、1人目の木下俊熈(としひろ)氏から。祖先は、秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の兄である豊臣(木下)家定だという。

木下家定の三男の延俊(のぶとし)とは、「関ヶ原の戦い」の功績で家康より豊後国(大分県)日出(ひじ)に3万石を与えられた人物。この日出藩、豊臣方と縁が深いにもかかわらず、じつは「大坂の陣」では冬の陣、夏の陣と共に、徳川方で参戦。備中島に陣取っていたというのである。

この備中島の場所とは、大坂城外の天満川の上流左岸周辺あたり。どうしてこの場所にこだわったのか。それは、備中島には、なんと城内に通じる抜け穴があったというのである。どうやらここから秀頼は城外に脱出して、無事に薩摩へと逃げ延びたのだとか。つまり、日出藩は「大坂の陣」で、わざと徳川方で参戦し、秀頼の脱出路を確保していたことになる。

その証拠となるのが、日出藩の初代藩主、木下延俊が書いたとされる「木下家系図」。家定には7人の男子がおり、そのうち6人までが、この家系図に名前が書かれているのだとか。何者でどうなったのかまで、記載済み。

しかし、残りの1人である「六男の出雲守(いずものかみ)」については、名前すらない。何者かもわからない。幼くして亡くなったワケでもない。外記には「宋連(そうれん)と号す」との解説が書かれていたのだとか。

「宋連」とは誰なのか。
その答えは薩摩藩の『井知地文書』にあった。この文書の中に、薩摩に逃げ延びた豊臣秀頼が「宋連」と号していたと書かれてあったのだという。

なお、「宋連」となった秀頼は、鹿児島の谷村という場所に住んだとされている。「大坂夏の陣」のあと、200人もの移住者がいて、その周辺の福元村は「木下郷」と名付けられることに。

当時の後水尾(ごみずのお)天皇も豊臣秀頼が生存していることを知っていたのだとか。そのため、島津藩主に密かに勅書を送り、宋連を置くようにと指示したとも。その宋連は、谷村で妻を娶り45歳で病死したという。なお、追加情報として、秀頼の子である「国松」も薩摩に逃れており、生存していたのだとか。

なんとも驚くべき話である。

一方で、もう一つの一子相伝がある。
一族の間でずっと口伝され、受け継がれてきた内容。木場貞幹氏に伝わったとされる内容は、先ほどの秀頼の脱出ルートと異なるもの。
まず慶長20(1615)年5月7日に大坂城の山里曲輪(やまざとくるわ)の避難用の矢倉に、豊臣秀頼や長男の国松、側近の木村重成(しげなり)などが入ったという。そこから抜け道を通って城外へ脱出。淀川を下り、大坂湾口付近で陣取っていた島津家の軍船で、薩摩まで運ばれたという。

ちなみに、この脱出劇は、随分前から計画されていたことなのだとか。徳川家康が天下人になった際に、いずれは豊臣氏が滅ぼされると予測。大坂城に出仕していた馬場文次郎(ばんばもんじろう)が島津義弘らに相談し、亡命の受け入れ態勢を整えていたというのである。

一行は薩摩へ到着後、「古屋敷」という場所に上陸。島津家の出迎えを受けて、谷山という村に落ち着いたという。やはり、秀頼はここで妻を娶り、子をもうけたようである。一方、国松については日出藩木下家より引き取るとの申し出があったようだ。秀頼のことは、六男の「宋連」として幕府に届けたので安心してほしいとまでいわれたようである。

なお、江戸幕府は秀頼の生存をずっと疑っていた。そのため、秀頼は新しい仮の家名を使ったという。それが、木下の「木」と馬場の「場」を合わせた「木場」。薩摩では「コバ」「コバン」と発音するのだとか。

なお、秀頼はというと45歳で自刃。これまでの無念な思いが積もりに積もった結果だという。ただ表向きは病死として葬られたのだとか。

さて。以上のように、2つの一子相伝をご紹介したわけだが。
調べれば調べるほど、悩みは増える。ジレンマに陥るこの胸中。真実は何処に?

ただ、こうしてまとめてみると、豊臣秀頼の生存説は、じつに多くのストーリーが存在する。特に、徳川方が出所だとされる話はひどい。秀頼は薩摩へ逃れたものの、大酒飲みの上、無銭飲食をしまくって村人らに嫌われたという話。江戸幕府も秀頼の生存を掴んではいたが、そんな人物だからと、あえて放置したというのである。

なんだか、これこそ、江戸幕府がわざと秀頼を悪人に仕立てて作ったっぽい話ではないか。公に伝えられた話か、一子相伝として限られた者だけに伝わる話か。なんとも両極端な話ではある。

脱出経路、薩摩での生活、死因。多種多様な説がある中。
いずれにしろ、秀頼は生存していたとなるワケで。そこだけは、共通項といえるのではないだろうか。

最後に。
お伝えしたいストーリーは、こんなものでは終わらない。
全くもって、とどまることを知らないが如く、様々な歴史的事実が繋がっていく。

もし、機会があれば。
秀頼が薩摩で娘を娶って、その間にできた子の驚くべき将来について。
いやいや。それよりも秀頼の子である「国松」は処刑されずに薩摩で生き延びた話。それは、鹿児島の三大行事の1つ「妙円寺詣り」に繋がったりもする壮大な話となる。

予告編ではないが。
そんなところまで、いつの日かお伝えできればと願うばかりである。

それにしても。
疑心暗鬼となりつつ、日々驚かされる日本の戦国史。

だから、書いてる私も、読んでるあなたも。
こうして、やめられないのかも。

参考文献
『秀頼脱出 豊臣秀頼は九州で生存した』 前川和彦著 国書刊行会 1997年12月
『ここまでわかった!大坂の陣と豊臣秀頼』歴史読本編集部編 株式会社角川2015年8月
『戦国武将 逸話の謎と真相』 川口素生著 株式会社学習研究社 2007年8月
『お寺で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2017年2月
『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年2月

書いた人

生粋の京都人。生まれも育ちも京都で、大学時に未生流の華道師範代を取得。教育業界を飛び出し2年半、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その反動で、現在は北陸で馬車馬の如く執筆する日々。法律、ビジネス系記事から日本文化まで。日本の歴史、なかでも戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。北陸文化も発信中。