まじかよ…山内一豊の妻は馬なんか買ってない?「内助の功」の真相に迫る

まじかよ…山内一豊の妻は馬なんか買ってない?「内助の功」の真相に迫る

美談は、たいてい「盛って」語られることが多い。

それが意図的なのか、自然に発生したのかは別にして。人の噂と同様、何かしらの尾ひれがつく。恐らく「イイ話」を相手に伝えているうちに、自分の感情もヒートアップ。結果、逸話そのものに自分の熱量が入り込んでしまうのだろう。

こうして、美談は「真実の原型」をとどめることなく。全く別のモノにすり替わることもしばしば。

今回、ご紹介するのも、なぜだか内容がすっかり変わってしまった有名な美談。戦国時代を代表する賢婦人といわれる女性。「千代(ちよ、のちの「見性院」)」にまつわる話である。

はて……千代?
この名前だけを聞いても、なかなかピンと来ないだろう。

しかし、「山内一豊(やまうちかずとよ)の妻」と聞けば。
ああ。あの、馬を買った……となるワケで。後世においては、「内助の功」としても名高い女性と認知されている。

そこで、今回は、美談のあるべき姿、「原型」を探そうというもの。簡単にいえば、あの美談って、実際のところどうなのさという下世話な話。
山内一豊の妻、千代は、本当に、夫に馬を買わせたのだろうか。その真相に迫っていきたい。
※山内一豊の妻の名については諸説ありますが、ここでは「千代」で統一して表記しています。

賢婦人のベースとなる美談の真相はいずこ?

天正9(1581)年2月。京都で行われた織田信長の「馬揃え」。当時の正親町(おおぎまち)天皇の前で、信長はもとより家臣らも豪華な衣装に身を包み、名馬を披露。後世にでも語り継がれるほどの一大イベントだったという。

この「馬揃え」で、一大躍進、出世のきっかけを掴んだ男がいた。
それが、のちに土佐国(高知県)を与えられる山内一豊(やまうちかずとよ)である。

そのきっかけというのが、なんと「馬」。
織田信長に仕え始めた山内一豊。当時、安土城下には、ある男が馬を売りに来ていたという。売りに出された馬の中には、東国一の名馬も。なんとも見事な馬だったが、あまりにも高価すぎて一豊は買うのを断念。一豊以外にも、織田家家臣でその名馬を買える者などいなかったという。

そこで、妻の千代が登場。
夫の愚痴を聞いて、持っていた「鏡奩(かがみばこ)」から、いそいそと十両を取り出し、夫に渡す。一豊は驚きながらも感謝し、その名馬を早速買いにいくことに。こうして、無事、一豊は名馬で「馬揃え」に登場。

名馬はもちろんのこと。信長が評価したのは、織田家の家臣が、誰一人名馬を買えないという不名誉な事態を回避させたコト。これにより、一豊は1,000石を与えられ、出世していくというストーリー。

ブラボーな結末。山内一豊の妻、千代とは、なんたる賢婦人なのか。これこそ「妻の鑑(かがみ)」。いや、それ以上。そんな評価が下され、千代は「内助の功」の代表格として君臨する。この逸話は、尋常小学校の教科書にも採用されていたという。

しかし、である。
じつは、この話には不可解な部分がある。

どうやら、歴史的背景に合致しないと、指摘を受けているのである。というのも、山内一豊のみならず、織田信長の家臣ら誰一人として名馬を買えない……なんてことはない。既に天下統一を目前にした信長。家臣らも厳しい経済状態ではなかったはず。

そもそも、山内一豊は、織田信長の家臣というよりは、当時の木下藤吉郎(豊臣秀吉のこと)に仕えている。天正元(1573)年、越前(福井県)朝倉氏と戦った「刀根坂(とねざか)の戦い」では、顔に矢が刺さりながらも、敵兵を討ち取り、400石を与えられている。その後は順調に評価され、秀吉の中国攻めの頃には、播磨国(兵庫県)に2,000石も与えられているほど。

つまり、天正9年の「馬揃え」の頃には、既に2,000石もあった山内一豊。そこまでボンビーではない。一豊の妻の逸話を全て否定するわけではないが。簡単にいえば、時代背景が合わないのである。

では、この逸話。出典元は何かというと、新井白石が記した『藩翰譜(はんかんぷ、はんかんふ)』。江戸時代中期の歴史書である。

新井白石は、この『藩翰譜』の執筆に力を入れ過ぎたせいで、白髪満頭になったと告白するほど。そんな『藩翰譜』だが、情景を際立たせるため、ところどころに作為がみられ、系図の部分にもかなりの誤りがあるのだとか。まあ、このような指摘は、別に『藩翰譜』に限らずなのだが。いかんせん、逸話の内容が誇張されて書かれた可能性もある。

それでは、一豊の妻、千代の逸話の真相はどこにあるのだろうか。
同じような話を探せば、『治国寿夜話』や『校合雑記』にも、一豊の妻の話が。ただ、そこには、似ているようで似ていない、全く別の内容が書かれていたのである。その驚きの内容を一部抜粋しよう。

「猪右衛門(一豊)小身の時に北国人の催促有りしに、手前すりきり故に軍役等ととのはず難儀いたし、是非なく切腹せんとて内室(妻)へ遺言などせられけるに、内室いかがせんと思ひ煩ひけれどもすべき様なくあきれ果てゐられけるが、ふと思ひ出したる事有り。…(中略)…此かがみの底を何やうに事ありともきつと見る事なかれ、一命に及ぶ程の事あるならば其時にひらき見るべしとて申されたり。…(中略)…入底にて其中に黄金三枚入置きたり、夫婦の歓び限りなし。此金を以って軍用相ととのひ、北国にも比類なきはたらき有て立身ありけるとなり」
(加来耕三著『山内一豊の妻と戦国女性の謎』より一部抜粋)

どうやら、この話での一豊のピンチは、北国出陣に際してのこと。せっかくの出陣にもかかわらず、軍備を用意することができないというのだ。一豊は途方に暮れ、已む無く切腹の覚悟までする。妻に遺言を残すほど追い込まれていたのである。全くもって、織田信長の馬揃えなど、そんなミーハーなものは出てこない。じつに現実味がある。

ちなみに、軍備を用意するとは、人も含めてというコト。ある程度の武将となれば、自腹で家来を召し抱えるのが一般的。というのも、家来の手柄は自分自身の手柄となるのだから。より多くの武功をとなれば、より勇猛果敢な家来を囲いこまなければならない。それには、元手となるカネが自然と必要になってくる。

山内一豊と妻の像

それでは、この話ならば、歴史的事実に合致するのか。少し検証してみよう。
一豊は、紆余曲折を経て、豊臣秀吉の家来となる。その秀吉の主君、織田信長が北国出陣をするのは、年代的に元亀元(1570)年と天正元(1573)年の2回だ。まだ400石も与えられていない時期と考えれば、一豊にとって、ちょうど経済的にも一番厳しい時期といえるだろう。

それにしても、軍備を用意できなければ切腹とは、一豊もよほど思いつめたものだ。妻、千代がその事情を聞くも、そこでハイハイと、おカネが出てくるワケではない。千代とて、どうすることもできずに諦めかけたのだ。コレも確かに現実味がある。

しかし、ふと、千代は母の臨終の際の言葉を思い出す。命にかかわるほど大事なことがある場合には開けと、持たされた「鏡奩(かがみばこ)」。その存在をすっかりと忘れていたという。

いよいよ、問題の「鏡奩」を取り出して、底を見るのだが、別段何の変わった様子もない。二人して様々な角度から見ると、どうやら「鏡奩」が意外にも重いのである。そこで、不審に思って、端の方を叩き切ったところ隙間があったとか。なんと、そこから黄金3枚が出てきたのである。

思いもよらない結果に、夫婦二人は喜んだという。こうして軍備も整い、一豊は比類なき働きをして、武功を上げたとされている。実際、一豊は天正元(1573)年の「刀根坂(とねざか)の戦い」で認められ400石を与えられている。

そういう意味では、よほど、織田信長の「馬揃え」よりは、整合性が合うのではないだろうか。救ったのは、千代がずっと隠し持っていた持参金ではない。千代すらその存在を知らなかった黄金3枚。「内助の功」というよりは、亡き母の教えを忠実に守った千代の素直さが際立つ話といえるだろう。

果たして、山内一豊はダメンズだったのか?

さて、先ほどの妻、千代の「内助の功」の話。
逸話の真相について推測したわけだが。この内容が大きく変われば、これまでの「山内一豊」の人物像も怪しくなってくる。

だって、夫の評価が100と仮定したとき、「内助の功」ゆえとなれば、夫一人ではその評価が叩き出せない。そう、宣言しているのと同じこと。つまり、「内助の功」が高く評価されるほど、反比例して夫の評価は下がる。じつは「覇気がなかったんじゃない」「自ら率先するタイプじゃない」と思われがちになる。

それが、「内助の功」というよりは、自然発生的な結果だとすれば。夫である山内一豊の評価は再考すべきであろう。では、実際のところ、山内一豊とは、どんな人物だったのか。やはり、妻と関係なく、彼は「ダメンズ」だったのか。

否(いな)。
普通に考えれば、まさかと否定されるだろう。あの戦乱の世を生き残った武将なのだから。それなりの、苛烈な面を持ち合わせているのは確か。実際に、豊臣秀吉に仕えた山内一豊は、順調に出世していく。派手な戦いはせずとも、堅実に武功を立て、気付けば天正18(1590)年、遠江国掛川(静岡県)5万石を与えられるほど。

その後、一豊のターニングポイントとなるのが、この掛川城。
天下分け目の戦いとなる「関ヶ原の戦い」では、大きな役割を果たすことに。

掛川城

豊臣秀吉の死後、次の天下人になるべく動き出したのが、徳川家康。当時、一向に上洛しない上杉景勝(かげかつ)の討伐を名目に、家康らは会津に向けて出陣する。これに素早く反応したのが、石田三成。家康の目論見通りなのか、石田三成が畿内で挙兵。まさに、進軍中の徳川家康らは、上杉景勝討伐か、石田三成討伐かの二択を迫られる。

この大事な場面で、豊臣恩顧の大名である福島正則(ふくしままさのり)が、石田三成の討伐を表明。これより、軍議は大きく前進する。というのも、未だ、徳川家康は諸大名らに命令できる立場ではなかった。彼らは家臣ではない。

しかし、このときの福島正則の第一声で、諸大名らが会した軍議の方向性は大きく決定づけられる。そういう意味で、彼の発言は非常にポイント高め。「関ヶ原の戦い」後は、徳川家康より安芸(広島県西部)と備後(同東部)、合わせて49万8,000石を与えられるのも、頷ける。

じつは、このあと。
さらに、第一声を上げた人物がいた。それが、あの山内一豊である。彼の第一声も、徳川家康より高く評価されたといわれている。

山内一豊像

先ほどの福島正則の第一声が、「目的」に関するものであれば。この山内一豊の第一声は、「手段」に関するもの。

石田三成討伐に変更したはいいが。進軍の方向を反転させ、東海道を駆け上がるには、その道すがらの城を傘下に置かねばならない。徳川家康からすれば、これこそスピード勝負。いちいち争っていては、時間を要するだけである。城問題が解決すれば、軍事装備の調達や食料の補給など、兵站(へいたん)の問題も一気に解決する。ここでこそ、ウルトラ発言が必要であった。

これに気付いたのが、山内一豊。あの有名な第一声を発する。
その言葉とは。
「掛川城を、内府(家康のこと)殿に明け渡し、進上致しまする」

これを聞いた諸大名らは絶句。
その後、一豊の発言の意味を理解した順から、一様に「我も我も」と、もう、市場のセリ状態。こうして、徳川家康は、この山内一豊の発言で、東海道筋の城を瞬時に手中に収めたのであった。それゆえ、徳川家康の山内一豊の評価は高い。「関ヶ原の戦い」の実戦では目立った武功がなかったものの。結果的に、山内一豊は土佐一国(高知県)20万石を与えられるのである。

このような経緯をみれば、千代の働きよりも一豊自身の働きがあってこその大加増。つい、「関ヶ原の戦い」の場面では、どうしても妻、千代の逸話が表舞台に出てしまう。笠の緒により込んだ千代からの密書を読み、妻からの文箱を開封せずに家康の元へ。確かにそれはそれで、徳川家康への忠儀を証明でき、助けになったのだろう。しかし、「関ヶ原の戦い」後の大躍進は、なんといっても、一豊の発言がモノをいったワケで。全てが千代のお蔭ということでは、全くない。

そう考えれば。
山内一豊は思いのほか、剛毅な男と考えて間違いなさそうだ。そんな人物像は、土佐国での統治の場面にも表れてくる。

土佐国の前任者は、「長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)」。
山内一豊が入封する前に、井伊直政が領地の接収へ赴いたのだが。旧臣らの反発は凄まじいものだったという。一豊は懐柔政策で、一部の長宗我部家の家臣をそのまま召し上げる一方で、反発する者らには強硬姿勢を一切崩さず。例えば、一豊の執政を受け入れられない者らを一挙に捕縛、磔にするなど、強気な一手を打っている。

旧臣の動向に注意を怠らず。一豊は、自身と全く同じ格好をさせた家臣を5人率いて、高知城築城の査察などを行っている。影武者を用いて策を講じていた。かといって、領民たちには食中毒を心配し、刺身で鰹(かつお)を食べることを禁止する一面も。これが、のちに「鰹のたたき」として、土佐名物になるとは露知らず(諸説あり)。

様々な顔を持つ、山内一豊。
千代に操縦されるような男ではないことが、十分、お分かり頂けただろうか。

最後に。
先ほどの「関ヶ原の戦い」前の軍議(小山評定)での山内一豊の発言。

じつは、あの大胆な発言は、一豊が最初から考えたワケではない。どうやら、浜松城主の堀尾忠氏(ほりおただうじ)の発案だったという。

というのも、もともと浜松城と掛川城は近く、小山でも陣屋が隣同士で、何かと話し合っていた間柄。そんな二人の会話の中で、堀尾忠氏が先にこんな話をしていたのだとか。

「いざ石田三成討伐となれば、浜松城に兵糧をつけて家康に進上する」と。

じつは、これを思い出して、一豊は軍議で先に発言してしまったのだ。なんとも、一豊とは、計算高い一面も持ち合わせた男なのである。そういう意味では、案外、山内一豊と千代は聡明さでは、似た者夫婦だったのかも。

それにしても。
大事なところで先を越された堀尾忠氏。そんな山内一豊に対して怒るどころか、帰りの道すがら。

「いつもは律義者なのに、今日の山内一豊は違ったなあ」
堀尾忠氏も山内一豊も大笑いしたそうな。

結局のところ。
山内一豊はダメンズなんかではない。逆に切れ者の一面も。そんでもって、先を越しても笑って許してくれる隣人もいる。

案外、良い男だったのではないだろうか。

参考文献
『47都道府県の戦国 姫たちの野望』 八幡和郎著 講談社 2011年6月
『戦国の城と59人の姫たち』 濱口和久著 並木書房 2016年12月
『戦国を生きた姫君たち』 火坂将志著 株式会社角川 2015年9月
『戦国武将50通の手紙』 加来耕三著 株式会社双葉社 1993年
『山内一豊の妻と戦国女性の謎』 加来耕三著 講談社 2005年10月

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