Culture
2020.09.15

クイズ!今日は何の日?戦国時代15万人が集結した「天下分け目の戦」あなたは知ってる?

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秋風に吹かれて、どことなく寂しさの漂う9月。14日は「セプテンバーバレンタインデー」といって緑色のインクで書いた別れの手紙を女性から直接手渡し、別れ話を切り出してもよいとされる日なんですって。さて、その翌日にあたる15日は、かつて日本の歴史を大きく変えた合戦が起こった日でもあります。その戦の名前は……?

徳川家康vs石田三成! といえば…

慶長5(1600)年9月15日、美濃関ヶ原(現在の岐阜県関ケ原町)で、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した戦い。もうわかりましたね……?
そう、9月15日は「関ヶ原の戦い」が繰り広げられた日です。

全国から集まった東西両軍およそ15万人の兵士が朝7時頃から一進一退の戦いを繰り広げます。
情勢が大きく動いたのは、午後2時頃。
西軍についていた小早川秀秋が、合戦半ばに東軍へと寝返るのです。
合戦が始まっても寝返ることを迷っていた小早川に対し、しびれを切らした徳川家康が「内応する気はあるのか」と迫り、鉄砲を撃ち、小早川は寝返りを決意するのです。結果はご存知のとおり、東軍が勝利をおさめ、徳川家康が天下を取りました。

えっ!?小早川の裏切りが敗因じゃないの?

映画やテレビドラマでもよく描かれる小早川の寝返りのシーン。
ところが近年、小早川の合戦最中の裏切りを含め、従来語られてきた関ヶ原合戦のさまざまなエピソードに多くの研究者が疑問を投げかけ、その全体像が大きく変わろうとしているのです。

小早川の裏切りはドラマチックな展開ですが、どうやら実際は、石田三成ら西軍諸将にとって、より非情な展開だったようです。
続きは「小早川の裏切り、毛利輝元の本心…本当の関ヶ原合戦はまったく違っていたんだっ!」でお読みください!

家康の息子が大遅参!?

裏切りがあった一方、とんだ大遅参によって後世の人にまで「ダメなやつ」のレッテルを貼られてしまった人物がいます。
その人物とは、徳川家康の息子、徳川秀忠。
父・家康の生涯をかけた大勝負である関ヶ原の戦いの際、3万の大軍を預けられていながら、なんと遅参してしまったのです。家康の勝利となったものの、怒った家康は秀忠が到着しても面会を許さなかったんだとか……。

しかしこの世紀の大遅参、すべてが秀忠の失態によるものではなかったよう。むしろ秀忠は不運と理不尽の連続がありながら、やっとの思いで到着したのかもしれません。こちらの記事「徳川秀忠。家康の息子が関ヶ原の戦いで「世紀の大遅参」をした理由とは?」では、秀忠が遅参してしまうまでの過程を追いながら、一体何が起きていたのかを探ります。

歴史の教科書で誰しも一度は耳にしたことのある「関ヶ原の戦い」。しかし、そこで起こっていた事件や人物の動き、政治的背景はあまり知られていないのかもしれません。和樂webでは関ヶ原の戦いとそれにまつわる武将たちのストーリーを数多く紹介しています。ぜひご一読ください!

アイキャッチ画像:国立国会図書館デジタルコレクションより