「信長公は勇将であるが良将ではない」
あらま、潔い。
ホントに、そんなズバリと言い切っちゃっていいのと、思えなくもないが。きっと、この言葉を聞いた相手も、ギョギョッと目を白黒させたに違いない。
じつは、このあとには、どうして良将ではないのかと、その解説が続く。
「剛をもって柔に勝つことを知ってはおられたが、柔が剛を制することをご存じなかった。ひとたび敵対した者に対しては、その憤りがいつまでも解けず、ことごとくその根を断ち葉を枯らそうとされた。だから降伏する者を誅戮し、敵討ちは絶えることがなかった。これは人物器量が狭いためである。人には敬遠されるが、衆からは愛されない」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
ああ、器量が狭いだなんて。
なんとも身も蓋もない言い方。しかし、そんな方に認めてもらえたからこその「今」じゃないのか。
さて、この言葉。
誰の口から洩れたのかというと。
もちろん、織田信長に大恩のある「豊臣秀吉」その人である。
今は亡き主君について、こんな大それた発言ができたのも、全ては信長が果たせなかった夢を自分が実現したからだろう。天下人になれたゆえの言葉である。
この、天下取りのきっかけの1つとなったのが「織田信長の葬儀」。
もちろん、プロデュースしたのは、いつもやらせ疑惑が取りだたされる太閤秀吉。
今回は、この絢爛豪華な織田信長の葬儀についてをご紹介。内容やその隠された意味まで。秀吉の計算し尽されたイベントを、とくとご覧あれ。
(この記事は、「豊臣秀吉」の名で統一して書かれています)
織田信長の葬儀はやっぱり絢爛豪華!
織田信長の葬儀が行われたのは、京都にある大徳寺。
天正10(1852)年6月2日。
戦国時代、天下人に一番近かった男が死んだ。織田信長である。家臣の明智光秀の謀反により、本能寺にて自刃。火を放ったため、遺体も見つからなかったという。あれほど剛毅な戦国武将も、死するときは驚くほど潔かった。
そんな信長亡きあと。
本来であれば、謀反を図った明智光秀が織田軍を掌握するかと思いきや。それこそ、あっという間に追われる立場に。主君の弔い合戦とばかりに、遠く離れたところから帰還して、明智光秀を討ったのが、豊臣秀吉であった。
ただ、敵討ちをしたはいいが。織田信長の次期ポストが決まらない。誰が織田家の家督を継ぐのか。嫡男である「織田信忠(のぶただ)」も本能寺の変で同じく自刃していたため、次男、三男、嫡男の長男など。三つ巴で大混乱。
一方、『多聞院日記』によれば、織田家家老の「柴田勝家(しばたかついえ)」や、丹羽長秀(にわながひで)、池田恒興(いけだつねおき)、堀秀政(ほりひでまさ)、そして豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)らの5人で、同年6月27日に話し合いが持たれたという。行われた地名が名前となった「清州(きよす)会議」である。
そこで、織田家の家督は、嫡男の信忠の長男である「三法師」が継ぐことに。会議には参加していないが、次男の「信雄(のぶかつ)」も三男の「信孝(のぶたか)」もこれに賛同。家臣らは、これまで通りに織田家を盛り立てていくとの認識で一致したようだ。
実際に、織田信長の葬儀が執り行われたのは、その約3か月半ののち。
同年10月11日より7日間にわたって行われたという。なかでも、一番の目玉となったのは、15日の葬儀である。
その様子は、『総見院殿追善記』や『天正記』に記されている。
大徳寺から蓮台野(れんだいや)までは約2.7㎞(1500間とのこと、1間は約1.82m)。ちなみに、「蓮台野」とは、蓮台に乗って浄土へ行く野という意味で、墓地や火葬場を意味する。この2.7㎞もある沿道を、3万人の軍勢が警護にあたったとか。率いたのは、豊臣秀吉の弟である「豊臣秀長(ひでなが)」。
一方、蓮台野には、約210m四方にぐるりと幔幕(まんまく)が張り巡らされた。「火屋(ひや、葬儀場のこと)」の設置である。幔幕の内側にお堂を建て、その前には白木の鳥居まで用意。周囲には白い玉砂利を敷いて、即興の葬儀場が造られたのである。
錦紗金襴(きんしゃきんらん)で包まれた柩。運ぶ御輿(みこし)も、やはり豪華である。御輿の欄干の擬宝珠(ぎぼし)にも金銀がちりばめられていたほど。御輿の前に「池田輝政」、うしろには秀吉の養子となった信長の四男の「秀勝」が。位牌を持つのは信長の八男の「長麿」。そして太刀は秀吉が拝持したという。
柩の中に納める遺体はなかったため、沈香(じんこう、香木のこと)で彫刻した仏像が代わりに納められていたようだ。これらのあとに、およそ3,000人の葬列者が2列で続く。烏帽子(えぼし)と喪服である藤衣の装束で、一様に神妙な様子。僧侶の数も半端ないばかりで、盛大に執り行われたことが、容易に想像できる。
ああ、それにしても、壮大な光景。つい、夢想してしまう。
威厳高く、それでいてきらびやかな葬儀。後世まで語りがれるのも、納得の葬礼であった。
あれっ?柴田勝家は参列しなかったの?
こうして、無事に織田信長の葬儀は執り行われたのだが。
じつに不可解なコトが1つ。
もともと、葬儀は、生前に関係のあった人たちが参列するもの。織田信長の場合、天下人となる一歩手前ではあったが、上洛も叶い、その道筋がほぼ確定的であった。そのため、葬儀の参列者も多く、盛大に執り行われたというワケだ。
しかし、である。
じつは、この織田信長の葬儀に、大事な人が出席していない。
それが、あのお方。
織田家家老の柴田勝家である。
なんと、蓋をあければ、彼が参列していないのである。清須会議では、集まった宿老たちが、織田家を盛り立てていく意思を確認したばかりだというのに。一体、これはどういうことなのだろうか。
先ほどの「清須会議」に話を戻そう。
ここで決めた内容につき、7人が誓紙を交わしている。この7人とは、織田信長の次男「信雄」と三男「信孝」、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、豊臣秀吉らの4人、そして、織田家と当時同盟関係にあった徳川家康。
徳川家康は、関東の旧織田領を治める担当であった。というのも、多大な労力をかけて、ようやく織田軍が確保した領地である。この旧織田領を敵方に渡さないようにするため、織田軍からは援軍を派遣しつつ、なんとか治めてもらおうとしたのである。一方で、4名の宿老はというと。今後は協力して、織田家を盛り立てるようなイメージである。
ただ、4人もいれば、いずれは誰かがその代表者となる。これは、至って自然の流れだろう。
ここで、頭1つ出ていたのが、豊臣秀吉。秀吉はこの状況を、さらに自分の有利な方へと動かしたかったようだ。これに対して、立ちふさがったのが、柴田勝家。あくまで宿老全員が納得する形が望ましい。こうして織田家を支えるのが、勝家の目指す方向だった。
一方、豊臣秀吉はというと。
現在の織田家家臣団のトップに立つ、そしてうまく織田家をコントロールすれば、そのまま天下取りへの道筋が確保されるのではないか。そう、秀吉は考えたのではないだろうか。
確かに、秀吉は、信長のように圧倒的な「剛」の者ではない。だが、逆に「柔」の者としての強みもあると自認していたのだろう。信長と比較すれば、天下人への道筋は点線くらいのもの。薄くしか見えてはいなかったはずだが、確実にレールは敷かれていた。そこに注目したように思う。
こうして、他の宿老を取り込みつつ。世間に対して、織田信長を引き継ぐのは「己」なのだと、知らしめる。その一番の機会はないものかと考えた末。未だ行われていない「織田信長の葬儀」のプロデュースに目を付けた可能性が高い。
残された記録によると。葬儀の約1ヵ月前。
同年9月9日までに、秀吉は信長の四男で自分の養子にしていた「信勝」を喪主にすることを決定していたという。
同年9月18日、秀吉は他の宿老である丹羽長秀、堀秀政と会合を持ち、21日には大徳寺を訪れている。柴田勝家は蚊帳の外。信長の葬儀に関して、通常であれば相談すべき相手であるにもかかわらず。彼を外したのである。
実際に、葬儀が行われたのは同年10月15日。
現代の暦に直せば、11月下旬となる。柴田勝家の居城である越前北ノ庄(福井県)では、この時期からは豪雪の季節。なかなか、軍事行動も難しい。そう踏んだのではないだろうか。
全ては計算された上での、織田信長の葬儀。
亡き主君の仇を討ち、葬儀も自身がプロデュース。
いうまでもなく、この効果は絶大で。
結果的に、世に広く、「織田信長のあとの豊臣秀吉」というイメージを植え付けることができたといえる。
このあと、秀吉は着々と反柴田勝家体制を築いていく。こうして、最終的に両者は武力で衝突。柴田勝家を討ち破った秀吉は、徳川家康らを臣従させていく。
秀吉が、真の天下人となるのは、もう少し先の話。
最後に。
自分の葬儀くらい、天下取りの計画には含めないで欲しい。そう思うのは私だけだろうか。ひょっとすると、織田信長もそんな感想を持っているのかもしれない。
盛大でなくていい。荘厳でなくていい。
ただ、心の底から、自分の死を悼んでくれる。そんな人が1人でもいればいい。立派な柩よりも、簡素な木箱で結構。それよりも、きちんとお別れしてくれる、そんな葬儀がいいではないか。
ただ、一般人とは異なる独自の価値観を持つ織田信長のこと。
あの世で笑い飛ばしているようにも思う。
「猿、してやられたぞ」と。
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参考文献
『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』 二木謙一著 中央公論新社 2019年2月
『お寺で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2017年2月
『秀吉の虚像と実像』 堀新ら著 笠間書院 2016年7月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月