日本文化の
入り口マガジン
11月24日(火)
茶と和解せよ 信楽の看板
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
11月24日(火)

茶と和解せよ 信楽の看板

読み物
Culture
2020.11.14

武士の「シフト表」発掘!?企画展『掘り出された鎌倉の名品』から鎌倉時代の生活を探る!

この記事を書いた人

鎌倉市内で発掘された出土品をメインに、原始・古代か近現代に至るまでの鎌倉の歴史・文化を紹介する「鎌倉歴史文化交流館」。3万箱以上の出土品の中から特に状態の良いものをピックアップした企画展『掘り出された鎌倉の名品』が、令和2年(2020年)11月28日まで開催されています。

今回は、その中でも「鎌倉時代の人々の生活」に注目して取材に伺いました!

自然の要害「鎌倉城」?

鎌倉は、東・北・西を山に、南を海に囲まれています。山側から入ろうとすれば、細くて足場の悪い山道を通り、海は遠浅なので大きな船は入れません。攻めにくいその様子を、「城」になぞらえて「鎌倉城」と呼ぶ人もいるほどです。

天然要害「鎌倉城」。まさに武士の都に相応しい二つ名ですね! そんな鎌倉の町は「源頼朝が居を構えてから発展した。その前は辺鄙な所だった」とかつては言われていました。何故かというと、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』にそう記されていたからです。

謎に包まれていた古代鎌倉のベールを剥がした大発見!

しかし昭和54(1979)年の発掘調査で発見された木簡(もっかん)によって、古代鎌倉の様子が明らかになりました。

御成小学校校庭の発掘調査で発見された木簡 鎌倉市教育委員会所蔵

表には『糒五斗 天平五年七月一四日』。裏には『郷長丸子』と記されています。天平5年は西暦733年、奈良時代です。郷長の丸子という人物が、糒(ほしいい=保存用の米)を5斗を役所に納めた荷札と考えられています。(1斗は現在では約18リットルですが、奈良時代の正確な分量は分かっていません)

そして木簡が見つかった場所からは、鎌倉郡の郡衙(ぐんが=役所)の跡が見つかりました。しかも柱の穴は数名の人が入れるほど。それほど太い柱なのですから、さぞかし立派な建物だったのでしょう。

鎌倉郡は現在の鎌倉市・逗子市・藤沢市と横浜市の一部を含む広い地域です。古代の役所があったということは、頼朝が鎌倉に入るはるか以前、広い郡の中心地として賑わっていたことを示しています。

ちなみに丸子といえば、万葉集の防人の歌の詠み人に鎌倉郡の「丸子多麿(まるこ たまろ)」という人物がいます。何か関連があるのでしょうか……。先祖か子孫、あるいは親戚? まさか家族? ひょっとしてご本人!? 想像が膨らみますね!

中世の鎌倉市街地を出土品から探る!

先述した通り、鎌倉は3方を山、1方を海で囲まれています。
ではその街並みの様子がどうなっているかというと……。

鎌倉歴史文化交流館 企画展『掘り出された鎌倉の名品』キャプション

中世のタイムカプセル「経塚」

まず山側には寺社があります。鶴岡八幡宮も、すぐ後ろが山ですね!

経塚とは、お経を埋めたタイムカプセルのようなものです。日本では平安後期頃から「仏の教えが無くなってしまう」という末法思想がありました。そこで仏の教えを説いた経文を地中に埋めて、未来に残そうとしたのです。

鎌倉幕府を象徴する寺の1つである「永福寺(ようふくじ)」。その寺跡の経塚から見つかった経筒は特に注目を集めています。大きな渥美焼の甕の中に、銅製の経筒が、頭がお堂の方を向いた状態で発見されました。

残念ながらお経が書かれていた紙は、長い年月の間に腐食して無くなってしまいましたが、経筒の下に白磁の小壺と短刀、扇子、仏舎利(ぶっしゃり)というお釈迦様の骨とされる小さな金がありました。小壺の中には櫛と数珠が入っています。

当時、櫛は女性の持ち物とされていたので、この経塚に女性が関与したと考えられます。そして永福寺は源頼朝が建てたので、彼に関係が深い女性といえば……? そう、北条政子の可能性が高いです!

ちなみに渥美焼は、愛知県の渥美半島で作られていた焼き物です。平安末期から鎌倉中期にかけて作られていて、その後はパッタリと生産が途絶えています。なぜ途絶えてしまったのでしょう……ちょっと気になりますね。

鎌倉時代特有のお墓「やぐら」

お寺と言えば、現代でも死者を弔うためにお墓がありますが、鎌倉には独特のお墓「やぐら」があります。

山に横穴を掘って骨壺を安置します。この様式は鎌倉時代中期から、室町時代にかけて鎌倉を中心に三浦半島や房総半島南部によく見られます。

こちらは鎌倉市材木座にあった新善光寺跡のやぐらから出土した骨壺です。「耳」と呼ばれる出っ張りが4つついている白磁の壺なので「白磁四耳壺(はくじ しじこ)」と呼ばれています。どこも欠けていない状態で発見され、鎌倉の出土品の中でも群を抜いた美品です。

鎌倉の中でもとりわけ格式高い方法で埋葬されていて、この壺も中国からの輸入品です。よって新善光寺の特に位が高い僧のものだと考えられます。

執権だって質素倹約!

武家屋敷は、山側と街中にありました。主人の屋敷の門前には家臣の屋敷が並びます。

3代目将軍実朝が亡くなって以降、鎌倉幕府の実質的支配者だったのは、執権を務めた北条氏でした。北条氏の屋敷はさぞかし贅を凝らしていたのでしょう……と思いきや。北条義時の息子で7代目執権となった北条政村(まさむら)の別荘跡からは不思議な形の硯が出て来ました。

これはおそらく、一度落として割れてしまった硯を修復したものだと考えられます。

新しく買えばいいのに……! と思った瞬間、ふと思い出しました。北条家の家訓には「質素倹約」があります。それは4代目・5代目の執権の実母に当たる松下禅尼(まつしたの ぜんに)は質素倹約を心がけていました。障子の張替え作業も自ら行うほど。

その教えを子供に伝えたので、彼女の息子たちも倹約の心を持ち、特に5代目の時頼(ときより)は名執権と名高いです。

7代目の政村から見ると、時頼は兄の孫なのですが……やはり贅沢三昧の施政者よりも質素倹約している施政者の方が、庶民としては好感度は高いです。

それから政村は、執権就任時は60歳。まだ年若かった北条時宗が成人するまでの中継ぎとしての執権だったので、やはり心情的には派手な生活はできなかったのかもしれませんね。

武士もシフト制で働いていた!

北条に「質素倹約の心」を伝えた松下禅尼。彼女の実家は有力御家人の安達氏です。その安達氏の屋敷跡からはとても面白いものが見つかっています。

『一番』『二番』といった番号の下に、3名づつ人物名が書かれています。それから『文永二年五月日』の日付。文永2年は1265年。鎌倉時代の中期で、ちょうど松下禅尼が暮らしていた頃のものです。

これは安達氏の屋敷の警護の当番表。「結番交名(けちばん きょうみょう)」と呼ばれるもので、現代風に言えば「シフト表」です。鎌倉時代にもシフト勤務があったかと思うと、妙に親近感が涌いてきますね!

ちなみにこの板、裏側は刃物の傷だらけだそうです。実はまな板に転用しているようなのです。松下禅尼の「倹約の心」! 単なる逸話じゃなくて実際にあったんですね!!

みんなの道はみんなで管理

鎌倉の道路には、両脇に「側溝(そっこう)」と呼ばれる溝がありました。

蒙古襲来合戦絵巻(国会図書館デジタルコレクション)

側溝は、どうやら御家人たちが分担して工事していたようです。側溝跡からは、北条氏の家紋が彫られた木材や、御家人の名前が書かれた木札が出土しています。

おそらくこれは「ここからここまで、お前の担当ね~」と持ち場を決めて、そこの担当者が負担して工事していたと考えられています。

あの御家人やその御家人も、こうやって名前が書かれた札を立てて、何かあれば家紋を彫った木材で工事していた……と考えると、御家人ファンとしては胸が熱くなりますね……!

キラリと光る、鎌倉時代の職人技!

出土品の中には、生活を彩る工芸品や美術品もあります。

これは2枚1組となっている木の彫りものですが、版画の板(版木)ではないかと考えられています。日本の版画といえば、江戸時代の浮世絵が広く知られていますが、版画自体は奈良時代からあったようです。

しかし江戸時代より前の版画は、主に仏教の経文や仏の姿を描いたものでした。これは雀と笹ですので、仏教的なものでもなさそうです。もしかしたら、この発見によって日本の美術史に影響が……!?

失われたと思われていた、古の技術!

複雑な文様が彫られた板は、布に文様を染めるための道具です。「板締め」と呼ばれる手法で、二枚の板に布を挟んで強く締めます。

奈良時代にはよく見られた技法ですが、とても難しく、鎌倉時代には用いられなくなったと考えられていました。しかしこの板の発見によって、鎌倉時代にも板締め職人がいた事が判明しました!

この板には、蹴鞠の毬と、松・楓・柳・桜の4つの木が彫られています。この4つの木は、蹴鞠会場の四隅に植えられる木なので、蹴鞠をモチーフにしたデザインです。

鎌倉で蹴鞠といえば、2代目将軍の源頼家(みなもとの よりいえ)が思い浮かびますが、何か関連しているのでしょうか……。

漆器がリーズナブルだった鎌倉時代

現在、一般的な食器といえば「陶磁器」です。しかし鎌倉時代の陶磁器は高級品で、一般的には「漆器」が使われていました。現代と逆なのが面白いですね。

鎌倉時代は庶民から貴人まで、みんな漆器の食器で食事をしていたので、多くの漆器が発掘されています。

すごく保存状態がいい! 下の3枚なんて、そのまま使えそうです。楓の文様がカワイイ!

実は鎌倉は地下水の水位が高く、乾燥と温度変化に弱い漆器にとても良い環境が地面の下にあります。そのため現在でも色鮮やかに残っています。

漆を塗る職人の道具も多数発掘されていて、鎌倉内で作られていたことが伺えます。同じ文様が繰り返されているのは「型押(かたおし)」といって、スタンプをポンポンと押してつけています。これは鎌倉の特徴的な技法です。

陶磁器を持つのはステイタス!

一方、鎌倉時代で高級品だった陶磁器は持っているだけでステイタスでした。特に磁器は、鎌倉時代は国内で生産されておらず、中国からの輸入品で、鎌倉初期は白磁、それ以降は青磁が尊ばれました。磁器の食器は日常的に使用されたというよりは、どうやら床の間などに飾っていたようです。

鎌倉では多数の磁器が発見されていますが、これは鎌倉が直接中国と貿易をしていたことを物語っています。鎌倉は武士の都というだけでなく、人工港の和賀江嶋(わかえのしま)もある、商業都市としても栄えていました。

もっと鎌倉の文化を知りたいなら「鎌倉歴史文化交流館」へ!

展示から人々の生活は、武士だけでなく僧侶や職人、商人や町の人々など多くの人々の賑やかな生活が垣間見えてきます。耳を澄ませば、町の喧騒も聞こえてきそうですね。

企画展『掘り出された鎌倉の名品』は令和2(2020)年11月28日(土)まで行われます。

鎌倉歴史文化交流館について

鎌倉歴史文化交流館は、鎌倉市内で発掘された出土品をメインに鎌倉の文化を紹介しています。建物は、世界的に著名な建築家ノーマン・フォスター氏の設計事務所が手がけた個人宅を活用しています。

それ以前では、大正時代に三菱財閥の岩崎小弥太の別荘があり、江戸時代には刀鍛冶の職人の屋敷があったと伝わっています。さらに遡れば鎌倉時代には安達氏ゆかりの「無量寿院(むりょうじゅいん)」という広大な寺院があったと言われています。

建物内部はこの土地の歴史を活かした造りとなっています。

刀鍛冶の工房をイメージした薄暗い廊下や、

鎌倉時代の面影が残る庭の風景。

常設展では、坂東武者の鑑と言われた鎌倉御家人・畠山重忠(はたけやま しげただ)が、埼玉県の御嶽(おんたけ)神社に奉納したと伝わる、国宝「赤糸威大鎧(あかいと おどしの おおよろい)」の精巧なレプリカや、鎌倉時代の信仰や暮らしがわかる出土品。そして中世だけでなく近現代の鎌倉ゆかりの人物の資料も展示されています。

特に注目したいのは、映像と音声による鎌倉の歴史解説プロジェクションマッピング!

鎌倉市街地のジオラマに映し出されるプロジェクションマッピングの映像

そして源頼朝が建立した、鎌倉幕府を代表する寺院の1つ「永福寺」の復元VR!

感染症対策もバッチリ!

そして毎週土曜日11時からは、学芸員による展示解説もあります。鎌倉の歴史や文化を楽しく知ることができる注目スポット「鎌倉歴史文化交流館」。訪れる前と後では、鎌倉の風景が変わって見えるかもしれませんね!

鎌倉歴史文化交流館

住所: 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-5-1
営業時間: 午前9時~午後4時(入館は午後15時半まで)
定休日: 日曜日・祝日、展示替期間、年末年始等
入館料: 一般300円 小中学生100円
公式webサイト: https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/koryukan.html

アイキャッチ画像:蒙古襲来合戦絵巻(国会図書館デジタルコレクション)

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。