上杉謙信はまさに戦国最強だった! 「毘沙門天の化身」が駆けた数々の戦場とは【謙信の謎に迫る 後編 】

上杉謙信はまさに戦国最強だった! 「毘沙門天の化身」が駆けた数々の戦場とは【謙信の謎に迫る 後編 】

目次

「上杉謙信が出てくると、敵は雷雨を避けるが如く城に籠(こも)ったものだ」。謙信はそう語られるほど、敵から怖れられていました。生涯の多くを戦場で過ごした謙信の合戦の回数は、確実なものだけで70余り。謙信の姿を見ただけで逃げてしまう敵も多く、それらまで含めるとどれほどの数になるのか。しかも、敗れたのは局地戦の2度のみという、驚異的な勝率を誇ります。後編では史上名高い第四次川中島合戦や、織田軍を粉砕(ふんさい)した手取川(てどりがわ)の戦いなど、戦場での活躍を中心に謙信を7つのポイントで紹介します。

1.なぜ領土欲の少ない謙信に家臣は従ったのか?

上杉家家紋「竹に二羽飛び雀」

依怙(えこ)によって弓矢はとらぬ

前編の続きを始める前に、まず謙信にとっての戦いとは何であったのかを明らかにしておきましょう。北信濃(現、長野県)の将に助けを求められれば信州川中島で戦い、関東諸将の要請を受ければ関東に出陣するなど、謙信の戦いは基本的に、他国を侵略して領土を拡大することが目的ではありませんでした。謙信は自らこう語っています。

「依怙(えこ、不公平なこと)によって弓矢はとらぬ。ただ筋目(すじめ)をもって何方(いずかた)へも合力(ごうりき)いたす」

好き嫌いや私利私欲ではなく、助けを求めてきた者に正当な理があれば、誰にでも力を貸すと言っており、敵の侵攻を受けて苦境に立つ者にとって、まさに「頼もしき大将」でした。しかし、これでは領土の拡大は望めず、上杉家の将兵は人助けをするだけで、何の見返りもないことになります。にもかかわらず、家臣たちはなぜ謙信に従ったのでしょうか。

謙信の軍資金

実は謙信は戦略戦術だけでなく、内政手腕にも優れており、越後(現、新潟県)で大きな財源を2つ確保していました。

一つは越後の名産・青苧(あおそ、越後上布の原料)の輸出です。戦乱で荒れていた直江津(なおえつ)港や柏崎港を整備し、越後の青苧座を統一。さらに自ら上洛した折に京の公家や寺院と交流して、販路を拡げていました。これによって「上流階級が愛用する越後上布」のブランドイメージが醸成され、上方で珍重された青苧は莫大な収入源となるのです。

もう一つは金の産出です。佐渡(さど)の金山が有名になるのは謙信よりも後の時代ですが、他にも山間部から豊富な鉱物資源を獲得できました。こうした財源があったからこそ、謙信は領土拡大をせずとも、軍資金を心配せずに戦いを続けることができたのです。

そして手柄を立てた家臣に対しては土地ではなく、十分な報奨金を与えていたと考えられます。だからこそ領土を拡げようとしない謙信に、家臣たちは納得して従ったのでしょう。

2.なぜ謙信と信玄は川中島をめぐって戦い続けたのか?

史上屈指の劇的な名勝負

鞭聲(べんせい)粛々(しゅくしゅく)夜河を過(わた)る 
暁(あかつき)に見る千兵の大牙(たいが)を擁(よう)するを
遺恨(いこん)なり十年一剣を磨き 
流星光底長蛇を逸す

幕末の詩人・頼山陽(らいさんよう)の漢詩でも知られる川中島合戦。実は謙信と武田信玄(たけだしんげん)は川中島で、12年間に5回も戦っているのですが、両者の一騎討ちが行われた激戦として知られるのが、永禄4年(1561)の第四次川中島合戦でした。劇的な名勝負とされるこの戦いには今、さまざまな疑問点も指摘されており、詳細を語ると、それだけで本稿が終わってしまいます。ここでは通説と疑問点を簡単に紹介しておきます。

川中島古戦場(長野市)

信玄を討ち果たす覚悟

そもそもなぜ、謙信と信玄は川中島をめぐって戦い続けたのでしょうか。川中島は千曲(ちくま)川と犀(さい)川に挟まれた中洲で、信濃(現、長野県)一といってよい穀倉地帯でした。甲斐(現、山梨県)から信濃全土の制圧を目指す信玄にとって、残すは北信濃の川中島一帯であり、何としても押さえたかったのでしょう。当時、信玄は相模(現、神奈川県)の北条(ほうじょう)氏、駿河(現、静岡県)の今川(いまがわ)氏甲相駿(こうそうすん)同盟を結んでおり、領土拡大は西か北に限られていたのです。一方、謙信にすれば川中島は居城の春日山から約70kmの近距離であり、越後防衛の観点からも奪われるわけにはいきませんでした。

永禄4年6月末、謙信が1年近くに及ぶ関東の陣から越後に戻ると、京都の将軍足利義輝(あしかがよしてる)から書状が届いていました。内容は信玄によって信濃を追われた信濃守護小笠原長時(おがさわながとき)の帰国を、(関東管領として)支援してほしいというもので、ここに武田信玄に付与されていた信濃守護は将軍によって否定されます。一方の信玄は、川中島に実効支配のための海津(かいづ)城を完成させていました。関東では信玄に小田原城攻略を妨害された謙信は、川中島を死守するため、さらに将軍からの武田討伐の大義名分も得て、信玄を討ち果たす覚悟を固めます。時に謙信32歳、信玄41歳。

3.第四次川中島合戦は、どのような戦いだったのか?

千曲川

退路を断たれたらどうするつもりなのか

永禄4年8月14日、謙信は1万3,000の軍勢を率いて春日山城を出陣。16日には千曲川を渡って川中島の妻女山(さいじょさん)に布陣しました。妻女山は武田方の海津城の西に位置し、城を見下ろせたといいます。一方、烽火(のろし)によって謙信出陣を知った信玄は、8月18日に甲府を出陣。24日には妻女山西北の茶臼山(ちゃうすやま)、もしくは雨宮(あめのみや)に布陣しました。その数約2万。

ここで信玄が怪しんだのが、千曲川を渡った謙信の意図が読めないことでした。「退路を断たれたら、どうするつもりなのか。越後勢はたちまち死地に陥(おちい)るではないか」。おそらくそれは謙信の、今回はこれまでのような睨(にら)み合いでは済まさないという、強い意思表示であったのでしょう。信玄は警戒しつつ、29日に海津城に入城。しばらく妻女山の上杉軍、海津城の武田軍の睨み合いが続きますが、謙信は悠然としていました。

松代城跡。築城当時は海津城と呼ばれた

武田軍の奇襲の裏をかく

動く気配のない上杉軍に、武田軍が先に仕掛けます。1万2,000の別働隊を妻女山の背後から襲わせ、驚いて下山してくる上杉軍を八幡原(はちまんばら)で待ち受ける8,000の本隊で挟撃するという作戦でした。山本勘助(やまもとかんすけ)の献策による「啄木鳥(きつつき)戦法」として知られます。決行は9月9日の夜でした。

9月9日の夕刻、重陽(ちょうよう)の祝宴を終えた謙信は、海津城を望み、妙なことに気づきます。炊煙が、いつもよりも長い時間立ち上っていました。謙信は瞬時に武田方の夜襲の意図を見抜き、その裏をかく作戦に出ます。深夜、篝火(かがりび)や陣幕はそのままに、上杉軍は物音を消して妻女山を下ると、粛々と千曲川を渡り、信玄が出張ってくると思われる八幡原に向かいました。夜半から湧き出した濃霧が、上杉軍の動きを隠します。

イラスト:森 計哉

一騎討ち

やがて東天が白み、八幡原に進出した信玄ら武田軍本隊は、妻女山で起こるはずの戦いの物音を待っていました。ところが八幡原を覆う濃霧が薄れ始めるや、仰天します。目の前に無傷の上杉軍がいたからです。信玄は即座に、妻女山に向かった別働隊が来るまで、鶴翼(かくよく)の陣形で支えることを決断。支えきれば、別働隊の来援で上杉軍を挟撃できるからです。一方の謙信は、武田の別働隊が八幡原に駆けつけぬうちに、信玄を討てるかが勝負でした。そのために謙信がとったのが「車懸(くるまがか)り」の陣形とされます。ただし諸説あるものの、車懸りは陣形ではなく戦法と考えた方が正しいように思います。

一説に車懸りとは、敵の前列部隊に上杉の前列部隊が攻撃を仕掛け、敵の次列部隊に上杉の次列部隊が攻撃と、次々と攻めかかりながら敵本陣を丸裸にした後、謙信率いる本隊が敵本陣に突撃する戦法ともいわれます。いずれにせよ戦いが始まるや、上杉軍の凄まじい攻勢に武田方は押しに押され、副将格の武田信繁(たけだのぶしげ)や山本勘助が討死。乱戦の中、謙信本隊が信玄本陣に突入し、両雄は一騎討ちに及んだといわれます。謙信は自ら信玄を討ち果たさんと何度か信玄に斬りつけますが、討ち取るには至りませんでした。

イラスト:森 計哉

川中島合戦通説への疑問点

午前10時頃、武田軍の別働隊がようやく八幡原に到着。これによって戦局が逆転し、数で劣勢となった謙信は、兵を引くことになりました。勝敗は「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」といわれますが、歴史に残る名勝負として語り継がれることになります。

以上が川中島合戦のおよその通説ですが、さまざまな疑問も指摘されています。たとえば謙信が布陣したとされる妻女山は、長期間大軍を収容するには狭く、周辺には武田方の砦(とりで)もあった。むしろより海津城に近い西条山(さいじょうさん)ではなかったか。また「啄木鳥戦法」で、武田の別働隊が上杉方に悟られずに真夜中に迂回して奇襲するのは、非現実的である。そもそも別働隊の人数が本隊より多いのもおかしい。さらに両軍合わせて死傷者は8,000の多数に及んだとされるが、これは想定外の遭遇戦により、乱戦になったためではないかなど、戦いの実態について今も研究者の間で議論が続いています。

4.出陣すること13回。謙信はなぜ関東平定にこだわったのか?

三国峠

困難を極めた関東平定

謙信を主人公にした海音寺潮五郎の小説『天と地と』や、山本勘助を主人公にした井上靖の小説『風林火山』(どちらも大河ドラマになっています)は、第四次川中島合戦をクライマックスに物語が終わりますが、謙信はこの時、32歳。戦いの日々はまだまだ続きます。

実際、第四次川中島合戦のわずか2ヵ月後には関東に出陣。武田信玄と連携する北条氏康(ほうじょううじやす)が攻勢に出たためで、謙信は関東で越年しました。永禄3年(1560)の初めての関東出陣以来、謙信は生涯で関東に出陣すること実に13回、合戦は37回を数えます。まさに謙信の主戦場は関東だったといっていいでしょう。

逆にいえば、それほど関東平定は困難を極めました。北条に向かえば武田が信濃を狙い、武田と対峙(たいじ)すれば関東で北条が蠢動(しゅんどう)する。謙信が関東に出陣すると関東諸将は従うものの、常に形勢をうかがい、離合集散を繰り返すばかり。諸将にすれば生き残るためにやむを得ないことだったのでしょうが、謙信の徒労感は募ったはずです。そんな情勢に、謙信を支援しようと滞在していた関白近衛前久(このえさきひさ)は、永禄5年(1562)に京都に帰ってしまいます。それでも謙信は三国峠を越えて関東出陣を続けました。関東管領としての責務を果たし、秩序回復をまず関東で実現させたかったのでしょう。

将軍義輝暗殺の背景

謙信は永禄4年の暮れに京都の将軍義輝より「輝」の字を与えられ、名を政虎から輝虎(てるとら)に改めます。将軍義輝は、謙信の関東平定への努力を最もよく知る理解者でした。ところが永禄8年(1565)、凶報が届きます。義輝が三好(みよし)三人衆や松永久通(まつながひさみち)らによって暗殺されたのです。享年30。義輝は永禄7年(1564)と死の直前の2度、北条氏康に謙信との和睦(わぼく)を呼びかけていました。もし北条との和睦が成れば、関東平定はほぼ実現でき、謙信軍の上洛が可能になります。三好三人衆や松永は、軍勢を率いた謙信が畿内に現われることを最も恐れていました。

義輝の死に対する謙信の悲嘆は、想像するに余りあります。「上洛の折、わしが三好勢を討っていれば、あるいは関東が平定できていれば、わしが駆けつけ、お守りできたものを」。謙信は喪に服しますが、義輝の死によって時代はまた動き始めていました。義輝の弟・義昭(よしあき)と、台風の目となる男・織田信長(おだのぶなが)の登場です。

5.北条氏康と武田信玄・・・ライバルたちは謙信をどう見ていたのか?

牛つなぎ石(松本市)。謙信が送った塩を運ぶ牛がつながれたという伝説がある

謙信の「敵に塩を送る」は史実なのか

謙信と信玄が第四次川中島を戦う1年前、東海では一大変事が起きていました。駿河・遠江(とおとうみ、現、静岡県)・三河(みかわ、現、愛知県)を領する今川義元(いまがわよしもと)が尾張(おわり、現、愛知県)の桶狭間(おけはざま)で織田信長に討たれたのです。義元の跡を継いだ息子の氏真(うじざね)は将器に乏しく、家臣の離反が続きました。川中島の激闘後、武田信玄は甲相駿同盟の外交方針を転換。今川氏と距離を置き始め、永禄11年(1568)には同盟関係を破棄、駿河への侵攻を始めます。対する氏真は北条氏と相談し、海のない甲斐に塩を輸出することを禁じました。一種の経済制裁です。

これを知った謙信は「甲斐に塩止めをして、困るのは領民である。不勇不義の極みである。わしは武田と矛(ほこ)を交えて久しいが、米や塩で民を苦しめようと思ったことはない」として、越後から甲斐に塩を流通させました。有名な「敵に塩を送る」逸話ですが、実際は謙信が塩を送らせたのではなく、武田領に向かう塩商人を止めなかったということのようです。ただし謙信は塩商人に「武田の足元を見て高く売ってはならぬ。必ずいつもと同じ値段で売るように」と厳命しました。相手の弱みにつけ込むことを嫌う、謙信らしい逸話です。なお信玄はこれに感謝し、返礼の太刀(塩留めの太刀)を謙信に贈りました。

北条氏の家紋「三ツ鱗(うろこ)」

ライバルたちの言葉

永禄12年(1569)、信玄に駿河を奪われた今川氏真は、正室の実家である北条氏を頼って落ち、大名としての今川家は滅びます。この事態に北条氏康は、謙信に和を請い、「越相(えつそう)同盟」が結ばれることになりました。関東平定を目指す謙信にとっても、歓迎すべきことだったでしょう。同盟の証として、氏康の7男で17歳の三郎が人質として送られてきますが、謙信は三郎を養子にして景虎(かげとら)と名乗らせ、長尾政景(ながおまさかげ)の娘(景勝〈かげかつ〉の姉)と娶(めあ)わせます。氏康は息子の厚遇に感激し、「愚老において本望(ほんもう)満足これに過ぎず候」と礼状を送りました。謙信は北条の血を引く景虎に関東管領上杉家を継がせて、関東の平穏を図り、もう一人の養子景勝には謙信の越後長尾家を継がせるつもりではなかったか、ともいわれます。

越相同盟により、関東が落ち着きを見せ始める中、京都では前年に織田信長に奉ぜられて上洛した足利義昭が将軍に就任。殺された将軍義輝の弟です。信長は京から三好勢を追い払いますが、次第に義昭と対立を深め、義昭は諸勢力に「打倒信長」を呼びかけました。

武田信玄像(甲府市)

そんな中の元亀2年(1571)10月、北条氏康が没。すると息子の氏政(うじまさ)は掌(てのひら)を返して謙信との同盟を破棄、再び信玄と同盟します。これによって謙信はまたも北条・武田と敵対しますが、信玄の目は西に向いていました。北条との再同盟で後顧の憂いが消えた信玄は、将軍義昭の呼びかけに応じ上洛戦を開始。徳川家康(とくがわいえやす)を打ち破り、三河に至りますが、病に倒れ、元亀4年(1573)4月に陣没しました。相次いで世を去った好敵手・氏康と信玄。二人の謙信についての言葉が伝わります。

氏康「信玄と信長は表裏常(ひょうりつね)なく、頼むに足りぬ。謙信のみは請け合ったら、骨になっても義理を通す」

信玄「わしの死後、甲斐に何かあれば謙信を頼れ」

6.謙信、最後の合戦! 織田軍を粉砕(ふんさい)した手取川の戦いとは?

七尾城跡

信玄が陣没し、窮地を脱した信長は元亀4年、将軍義昭を京都から追いました。しかし義昭は亡命先の毛利輝元(もうりてるもと)領備後(びんご、現、広島県東部)より、しぶとく反信長勢力の結集を図り、謙信に信長打倒と幕府再興への協力を求めます。秩序回復を願う謙信にすれば、拒む理由はありません。また天正4年(1576)には、信玄と結んで越中(えっちゅう、現、富山県)の一向一揆(いっこういっき)で謙信を苦しめてきた石山本願寺(いしやまほんがんじ)が、謙信と和睦。ともに信長と戦うことになります。これにより越中、加賀(かが、現、石川県)の一揆勢は味方となり、謙信の前に上洛への道が豁然(かつぜん)と開けました。しかし信長の手は北陸にも及んでおり、能登(のと、現、石川県)七尾(ななお)城の守将長続連(ちょうつぐつら)が謙信に抵抗。天正5年(1577)8月、信長は柴田勝家(しばたかついえ)を主将とする3万の大軍を七尾の援軍に送ります。

謙信は織田軍が接近する中、七尾城を落とすと、加賀の手取川(てどりがわ)の東にある松任(まつとう)城に入ります。一方の織田軍は9月23日、雨続きで水かさの増えた川を渡り終えたところで、七尾城がすでに落ち、すぐ近くの松任城に謙信がいることを初めて知りました。信長ですら恐れる謙信との予期せぬ遭遇に、柴田勝家は形勢不利と見て、すでに夕刻ながら川を再び渡って撤退することを決します。が・・・。雨が降り始め、増水した川を渡るのに手間取るところ、頃合いを計っていた謙信率いる8,000の上杉軍が襲いかかりました。逃げ腰の織田軍はひとたまりもなく、踏みとどまる者は討たれ、逃げる者は溺れ、夜明けまでに数千の織田の兵が急流に呑まれたといいます。一方的な勝利を収めた謙信は、「織田勢は存外弱かった。この分では天下の事(将軍義昭の帰京)も容易に片づこう」と語りました。これが謙信最後の合戦となった、手取川の戦いです。

7.四十九年一睡夢 謙信が最後まで目指したものとは?

春日山城跡

手取川の勝利で越中、加賀、能登を勢力下に収め、上洛の道を確保した謙信は、春日山城で越年すると、正月19日に陣触れし、3月15日に関東へ出陣すると告げます。上洛前に関東を固め、あるいは関東の兵も加えた大軍で上洛戦に臨むつもりであったのでしょうか。この頃、謙信が詠んだという漢詩があります。

「四十九年 一睡夢(いっすいのゆめ)一期栄華(いちごのえいが)一杯酒(いっぱいのさけ)」

「49年に至る我が人生も一夜の夢の如く、一期の栄華も一杯の酒の如きものだ」という意味でしょうか。謙信の人生観と、酒をこよなく愛した彼らしさが伝わってきます。

しかし、出陣6日前の3月9日、謙信は城中で突然昏倒し、4日後の13日、そのまま帰らぬ人となりました。

謙信が最後まで目指したもの、それは世の中の秩序を回復し、乱れを収めることでした。具体的には将軍を頂点とする武士の秩序を明確にすることで、それを乱す者と戦うことを自分に課し、無類の強さを発揮します。

しかし戦国最強ともいわれながら、謙信は自ら将軍にとって代わり、新秩序を建てようなどとはしません。そうした点で、信長に比べて発想が古いと評する人もいますが、古い、新しい、の問題ではない気がします。謙信は力を背景に権力を握ることを嫌い、「われは毫(ごう)も天下に望みなし」と語ったともいいます。力を背景にした「覇権」が、所詮は私利私欲の産物であることを見抜いていたからでしょう。そんな謙信は、戦国の天下人と呼ばれる人々とは全く異なります。

乱世に私利私欲を持たず、筋目(物事の道理)を重んじ、秩序回復に生涯をささげた人物がいたこと自体、稀有(けう)なことですが、謙信の存在は、すべての人間が欲得ずくだけで生きているわけではないことを語りかけているのかもしれません。しかもそんな謙信が戦国最強といわれる武将なのですから、真の強さとはどこから生まれるものなのかも考えさせられます。皆さんはどう思われるでしょうか。

参考文献:今福匡『上杉謙信』他
トップイラスト:諏訪原寛幸

上杉謙信はまさに戦国最強だった! 「毘沙門天の化身」が駆けた数々の戦場とは【謙信の謎に迫る 後編 】
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