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2021.01.28

調略の鬼・毛利元就の教えは「兄弟仲良く」?筆まめな父が3人の息子に伝えたかったこと

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「短い」に限るモノ。
校長の話に、上司の説教。
社長の訓示に、披露宴の祝辞…。

どれも、これも、伝えたい側からすれば、なかなか切り上げられない話ばかり。ただ、残念ながら、「伝えるコト」と「伝わるコト」は完全なるイコールとはならず。

そんな自明の理を、とてもシンプルに紹介したのが、『1分で話せ』というビジネス書。2018年に出版されて以来、多くのビジネスパーソンが読んだであろうその内容は、タイトルそのまま。短く、結果から、要点のみ伝える。これが話の基本なのだとか。

ふと、考えた。
それは、「話す」だけでなく、「書く」行為にも通ずるのではないかと。

確かに、一文を長々と書くよりも、短い文を重ねる方が分かりやすいだろう。全体的な総量もしかり。同じコトは繰り返さずに、サラッと1回。しかし、中には、そんな大原則を度外視し、真っ向から逆行する戦国武将も。

今回ご紹介するのは、そんな書くコトが大好きなあの方。
「長文上等」の信念を持つ、中国地方の策略家「毛利元就(もうりもとなり)」である。

筆まめとしても非常に有名な武将の1人である元就。彼が、3人の息子に宛てた書状は、とにかく長くてくどい。何をそこまで書くことがあるのか、というほどの長さ。

一体、毛利元就は息子たちに何を伝えたかったのか。
早速、ご紹介しよう。

※冒頭の画像は、栗原信充画「肖像集4. 北村季吟・毛利元就」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)となります

毛利元就の教えは「三矢」ではなかった…?

今でこそ、毛利元就は戦国大名として有名である。しかし、始まりは、ただの地方の国人であった。

国人とは、地頭や荘官や有力名主の総称のこと。当時、毛利家は、よくある地方の国人領主の1人であった。ちょうど、安芸(広島県)に30人ほどいた国人の中の1人。それに、元就はもともと長男でもない。そんな彼が、結果的に中国地方を代表するような戦国大名となるのである。

それは、ただの偶然か、それとも必然か。
まず、家督は、兄や兄の子が死んだため。二男であった元就が継ぐことに。その後、彼はその知略で頭角を現し、毛利家を国人のリーダー格へと押し上げる。天文24(1555)年10月の厳島(いつくしま)の戦いでは、圧倒的な兵力差を覆し、陶晴賢(すえはるかた)を撃破。こうして、中国地方制覇に向けて突き進むのである。

月岡芳年「大日本名将鑑」「毛利元就」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

さて、そんな毛利元就といえば、息子たちへの教訓である「三矢(さんし)の訓(おしえ)」が有名である。

「子供の数だけ矢を取り寄せて、『この矢一本ではたやすく折れる。だが、これをひとつに束ねると折れにくい。お前たちはよくこのことを考えて、仲良くしなければならぬ。けっして仲違いをするではないぞ』」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

『名将言行録』では、毛利元就の遺言として記録されているこの話。
じつは、後世での創作なのだとか。

もちろん、全くの創作というワケではなく。元ネタはあるようだ。事実、元就は事あるごとに「兄弟仲良く」を説き続けていたという。それは、残された元就の書状からも分かる。「口癖」というよりは「呪文のように」の方が近いかもしれない。

コチラは、弘治3(1557)年11月25日に書かれた書状。毛利元就の自筆である。

「一、いうことは古いことかもしれませんが、この際なので申しあげます。隆元・元春・隆景の三人の仲のことです。少しでも懸子(かけこ)のような仕切りや隔てがでてくると、三人とも滅亡すると思って下さい。他家の者は、毛利家にとって替わろうと思っています」
(小和田哲男著『戦国武将の手紙を読む』より一部抜粋)

「懸子」とは、弁当のおかずを仕切るような「バラン」のこと。3人の間に少しでも壁ができると滅びるという予言である。父の妄念のような気がしないでもないが。それほど兄弟間のことを気にかけていたのだろう。

この書状にも登場しているのが、毛利元就の3人の息子たち。
いや、実際に、子の数だけでいえばもっと多い。ただ、後継ぎ候補という意味であれば、3人。後継ぎとしての長男、そしてその長男に何かあった場合に備えての二男、三男である。

これは毛利家に限ったことではない。一般的に、だいたい三男くらいまでは後継者教育が施されるのだとか。一方で、四男以降の兄弟は、逆に遠ざけられることも。無駄に同族間で跡目争いとならぬよう、寺などに預けられるのである。

さて、毛利家の場合はというと。
後継ぎとしての長男・隆元(たかもと)、二男・元春(もとはる)、三男・隆景(たかかげ)がいたが、この二男と三男は他家へと養子に出されている。元春は、安芸の吉川(きっかわ)家へ。隆景は、備後の小早川家へ。

毛利家がここまで勢力を拡大できたのも、ひとえに、この養子作戦が功を奏したからであろう。毛利本家を外から中からと支えるこの体制。この「吉川」と「小早川」の2つの「川」を取って、「毛利両川(もうりりょうせん)」とも。

加えて、「吉川元春」「小早川隆景」という、後世にまで名を残す戦国武将を輩出したのも大きい。どちらも毛利本家と敵対することもなく。それは、長男の隆元が死したあとも同じであった。

なお、毛利本家の家督を継いだのは、長男・隆元の子である「輝元(てるもと)」。

毛利輝元の銅像

吉川元春、小早川隆景からすれば、甥にあたる人物だ。それでも、彼らはあくまで毛利本家を支え、「毛利両川」が大きく崩れることはなかったのである。

じつは、長男だけに宛てた手紙も?

兄弟間が大きくこじれることがなかったそのワケは、やはり、父の教えが根本にあるからだろう。実際に、先ほどご紹介した自筆の毛利元就の書状には、更なる続きがある。

「一、我等の子孫は諸人から憎まれているわけなので、一族の人間は結束を固め、1人も洩らしてはいけません。三人の結束が大事で、一人、二人では何の役にもたちません」
(同上より一部抜粋)

人間誰しも、胸に手を当てれば、1つや2つ。後ろ暗いところもあるだろう。しかし、毛利元就は、それどころではなかったのかもしれない。自ら「憎まれている」と自覚するほどのこと。これまで知略を重ねてのし上がってきた。そのツケをいつか払わされるかもしれない。そんな危機感があったに違いない。

だからこその「兄弟仲良く」である。
これほどまで、3人の結束を呼び掛けたのは、少しの綻びがあれば、敵方から付け込まれることを知っていたからだ。

「一、隆元は、弟の隆景と元春を力にして下さい。また、隆景・元春は、毛利本家さえ堅固であれば、その力で家中を治めることができます。毛利本家が弱くなれば、当然、人の心持も変わってきますので、隆景・元春の両人は、この心持を大事にして下さい。
一、この間も申し上げましたが、元春・隆景が隆元と意見が違うことがあった場合、隆元が堪忍することも大事ですが、元春・隆景も兄の意見に従うようにして下さい。…(中略)…意見が違うことがあっても、できるだけ表には出さず、うちに秘めるようにして下さい」
(同上より一部抜粋)

裏切りの発端は、他家に限ったことではない。家中の者でも容易に裏切る。実際に、元就が敵方の家中の者にそう促してきたこともあっただろう。

そういう意味で、この書状をもう一度見直すと。
じつに、これは毛利元就の「懺悔録」ともいえるのではないだろうか。

自身がこれまで行ってきたことを振り返り、その手法をあえて公開する。家臣の弱みに付け込むこともあれば、恨んでいる他家を引き入れることも。これまでの「調略の集大成」を、違う立場から書き残したとも取れるこの書状。

ただ、これほどまでに「兄弟仲良く」を繰り返しても。
やはり心許ないと思ったのか。
3人に申し付けるのみならず、ここは長男にも1つと。

先ほどの書状とは別に、長男にだけ宛てた書状がコチラ。

「三人の間が露塵(つゆちり)ほどのわずかであっても悪くなっていき、お互いに悪く思うようになれば、三家は滅亡したも同然と思われるがよい。当毛利家のためには、特別な防衛も思慮もいらぬ。ただひたすらに、兄弟の仲が悪くなったら滅亡だ、ということを定め固めることが、おまえと元春・隆景両人のためであることはいうまでもなく、子どもの代までのお守りとなろう」
「もし仮に少しでも三家の仲が悪くなったらば、まずはそれぞれの家中の者どもから主君を侮りはじめて、いっこうに事が成らなくなるであろう。…(中略)…露ほども兄弟の仲に悪い兆しがあれば、それは三家が滅亡する原因となると思われるがよい」
(吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』より一部抜粋)

「調略の鬼」と呼ばれた毛利元就。
そんな彼の本音が表れている箇所がある。「特別な防衛も思慮もいらぬ」という言葉。そんなモノは何の役にも立たない。どのような状況に立たされても、最後は1つ。相手を信じられるかどうかである。言い換えれば、日頃から兄弟仲が良ければ、何の問題もないというコト。

だからこそ、あえて毛利元就は、何度も何度も繰り返したのかもしれない。

最後に。
往々にして、人は勘違いする。
「大切だからこそ、何度も伝えたい」と。その気持ちは、痛いほど理解できる。

一方で、同じ内容を呪文の如く繰り返せば、またかと、右から左へと相手の耳を通過するのも、これまた事実。要は、受信者側の目線が重要なのだ。冒頭で紹介した『1分で話せ』にも、そのような内容が書かれている。

しかし、毛利元就の書状を紹介して。
少し、自分の考えが変わった。

単に繰り返すだけではない。ただ多いというだけではない。「多い」という基準を思いっきり突き抜ける。突き抜けることで、新たな思いが加わるのだと。

言い続ければ、自然と覚える。
言い続ければ、意識が無意識に変わる。

そうして。
言い続ければ、いつしか願いは叶う。

案外、毛利元就は『引き寄せの法則』を実践していたのかもしれない。

参考文献
『戦国武将の手紙を読む』 小和田哲男著 中央公論新社 2010年11月
『戦国武将50通の手紙』 加来耕三著 株式会社双葉社 1993年
『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』 吉本健二著 学研プラス 2008年5月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月