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2021.02.17

戦国随一のド正直者!?徳川家康から厚く信頼された家臣「高力清長」のモットーとは?

この記事を書いた人

「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」

どのようなリズムかは定かでないが。当時の岡崎(愛知県)あたりで流行った俗謡だとか。どうやら、三河三奉行の人選についてのコトらしい。人名とあだ名が、ごちゃっとミックスした感じ。正直、じつに分かりにくい。

切り離して、省略部分を補えば。
仏の「高力清長(こうりききよなが)」、鬼の「本多重次(ほんだしげつぐ)」、そして、どちへんなし(公平)の「天野康景(あまのやすかげ)」となる。三者三様の性格に応じて、まさしく適材適所の登用である。

さて、コチラ。一体、いつの時代の話かといえば。徳川家康が「天下人」となるずっとずっと前。未だ、織田信長もしっかりと存命だった頃の話である。

永禄8(1565)年、家康は三河(愛知県)を統一。ようやくの悲願達成である。思えば、今川義元の死、織田信長との清州同盟、家臣が真っ二つに分かれた三河一向一揆など苦境の連続。それを乗り越えての統一である。もちろん、この三河をうまく治めたい、そんな思いは人一倍であっただろう。

そこで、家康が民政のために置いたのが「三河三奉行」。
これに抜擢されたのが、先ほどの3人というワケである。

今回の記事の主役は、そのうちの1人。
「仏」と称されている「高力清長」である。

よっ!仏高力!

じつは、この3人。
三河三奉行に抜擢されながら、その後の人生が順調かといえば、そうでもない。晩年になってから、その待遇に大きな差が生じる。うち2人は、残念ながら、家康から冷遇される格好に。それでも、ただ1人。高力清長は、相も変わらずそのままで。最後まで家康に頼りにされたという。

今回は、そんな高力清長の生き様に触れてみたい。キーワードは「正直者」。世間を驚かせるほど、ブレないその真っ直ぐな生き方を、早速、ご紹介していこう。

※この記事は、当時の名にかかわらず、「徳川家康」「豊臣秀吉」の表記で統一しています
※アイキャッチ画像出典:シカゴ美術館

どうして「仏高力」なのか?

まずもって、疑問である。
世の民から「仏」と呼ばれるとは。一体、どのような理由があるというのだろうか。

最初に考えつくのは、穏やかな性格だから。
だいたい、「仏」というネーミングからは、寛容、寛大、何をしても許してくれる、そんな「慈悲深い」イメージが浮かび上がる。

ただ、高力清長の場合は、少し事情が違う。
確かに、そのような一面もあったかもしれないが。それだけの理由ではない。れっきとした、「仏」と呼ばれる所以の出来事があるのだとか。

その出来事とは。
のちに、家康の人生の三大危機の1つに数えられる「三河一向一揆」でのことである。

月岡芳年 「本朝智仁英勇鑑」「一」「徳川内大臣家康公」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

一向一揆とは、浄土真宗(一向宗)本願寺派の門徒が起こした一揆のこと。門徒といっても、実際は、信者である士豪、名主、百姓らが武力で対抗するのだが。その時々で、門徒のみならず反勢力らも合体して、複雑な様相となる。

そんな「一向一揆」といえば。枕詞として有名なのが、「加賀(石川県)」という地名。つい、北陸だけで盛んに行われたと思いがちだが、実際は違う。一向一揆が起こった範囲は、予想外に広大だ。北陸のみならず、近畿、そして、この三河がある東海でも、同じく蜂起されている。

特に、この三河は、本願寺派の有力な拠点の1つであった。矢作川(やはぎがわ)周辺で、土呂本宗寺(とろほんしゅうじ)、そして、佐々木の上宮寺などの「三河三ヶ寺」が中心となって、教団を形成。守護が立ち入ることのできない「不入特権」などを持ち、西三河の流通経済を掌握するほど。非常に、強大な勢力となっていたのである。

この本願寺勢力に対し、家康は、不入特権を侵害。そもそも、家康が三河を統一するためには避けては通れない、そんな相手だった。そういう意味では、対立は必至、辿るべくして辿った過程だといえるだろう。

こうして、永禄6(1563)年9月。
とうとう始まった「三河一向一揆」は、翌年まで長引くことに。それだけではない。さらなる悲劇は、この一向一揆が、家康の家臣団をも引き裂いたというコト。家臣の中には、一向宗門徒の立場を貫いて、結果的に一揆側に加わる者も。

ちなみに、高力清長はというと。
岡崎城の南、額田郡高力(額田郡幸田町)での守備を担当。もちろん、家康側としてである。高力清長のみならず、家康の下で結束した家臣らは、最終的に一揆軍を平定。家康の三河統一が果たされるのであった。

さて、そんな中。
高力清長が、土呂(とろ)の善宗寺の一揆軍を平定したときの話。

もちろん、武力で対峙するからには、戦場となる場所は荒廃する。かつて、信仰を集めていた場所も、悲惨な状況となるのはいうまでもない。そんな状態を見かねてか。一揆を鎮圧した高力清長は、散乱していた経典などを拾い集めて、持ち主に返したというのである。

仏像や経典などの保護に努め、破却された寺社を元の姿に戻す。

ほ、仏だ〜!

この行為が評判となり、のちに「仏高力(ほとけこうりき)」という名で呼ばれるようになったという。

「どんなときでも神仏を敬い、心を磨くことを怠けてはならぬ。それが、真の武士というものだ」
(山下昌也著『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団』より一部抜粋)

これが、高力清長のモットーだとか。
なるほど。さすが「仏」と呼ばれるだけのことはある。言葉だけではない。行動で見せるその心意気。世の民には、大いに支持されたことであろう。

正直者ゆえの驚くべき結末

「仏高力」の由来を説明したところで。
高力清長の出自に話を戻そう。

高力清長の「高力氏」だが。その先祖は、鎌倉時代の武将である「熊谷直実(くまがいなおざね)」といわれている。当初は平家方だったが、のちに源頼朝に従い戦功をたてたことでも有名なあの人である。

この高力氏、じつは、14代まで「梁田(やなだ)」と名乗っていたという。15代、つまり清長の祖父である「重長(しげなが)」の代で「高力氏」となり、家康の祖父である「松平清康」に仕えることに。その後、代々、徳川家に臣従することとなる。

なお、清長が6歳のときに、祖父と父は戦死。幼い清長を立派に育てたのは、叔父の重正。そんな清長もまた、松平家に仕える身となる。その相手は、駿府(静岡県)で今川義元の人質であった11歳の家康(当時は竹千代)。当時、23歳の清長は、家康よりも12歳年上。よき理解者であったことは、容易に想像できる。

竹千代像

清長は、順調に武功を上げていく。
三河統一後は、三河三奉行にも抜擢され、家臣団の中心的人物に。特に、その政治的能力がいかんなく発揮されたのが、天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」の和議であろう。「小牧・長久手の戦い」とは、織田信長が自刃したあと、次の天下人に名乗りを上げた豊臣秀吉との戦(いくさ)である。

家康側は、織田信長の次男である信雄(のぶかつ)との連合軍である。秀吉と対戦するも、膠着状態に突入し、結果的に和議が結ばれることに。この和議の使者を務めたのが、高力清長である。その誠実さ、実直さは、あの秀吉からも気に入られたとか。実際に、その後、清長は「豊臣姓」を賜るほどである。

あの人たらしの秀吉のコト。早速、高力清長の能力に目をつけたのだろう。重要なポイントで、高力清長を重用した。例えば、京都の「聚楽第」の造営では普請奉行を務めさせ、さらに、朝鮮出兵の際には、造船にも携わらせている。わざわざ、名護屋城(佐賀県唐津市)まで呼び、渡海用の軍船を造らせたのだから、よほど気に入られていたのだろう。

じつは、このときの逸話が、後世にまで伝わっている。
高力清長らしいというか。その人柄が非常によく分かるエピソードである。

渡海用の軍船を造るにあたって、清長には、その建造費が渡されていた。しかし、実際に造ってみたところ、建造費が思いのほか、多かった。具体的には、金20枚が余ったというのである。

うまくやれば、そのまま余った金を懐に入れることもできたはず。しかし、高力清長は、この余った金20枚を、そのまま家康に返上したという。

正直者すぎるぞ清長!

これには家康も感心し、その正直さを褒め称えたとか。こうして、返上された金20枚は褒美として、そのまま清長に与えられたという。なんとも、「金の斧、銀の斧」の昔話を地で行く清長である。

じつに、ド正直といわれるだけのことはある。
だからこそ、家康の信頼は一度も揺るがなかったともいえるのだが。

天正18(1590)年の「小田原征伐」により、家康は、秀吉の命じるままに関東へ。このとき、高力清長は武蔵国岩槻(埼玉県岩槻市)に2万石を与えられる。

最後まで家康に目をかけられたまま。慶長13(1608)年に死去。享年78。
子に先立たれる不幸はあったものの、比較的穏やかな晩年だった。こうして、清長はその生涯を閉じたのである。

最後に。
「正直者」の話を1つ。

清長に与えられた岩槻2万石だが。
じつは、これと同時に、足立郡浦和(埼玉県さいたま市)1万石も預けられている。

このような土地を「預け地」と呼ぶ。
「預け地」は、一般的に、預けられた者の領地とほぼ同然の扱いに。つまり、「預け地」から上がる年貢は、役得として、自分のものにしても構わないのが通例なのである。

しかし、である。
清長は、この「預け地」からの年貢に、一度も手をつけなかったという。
徴収した年貢は、そのまま江戸城へ。右から左へと、直接運ばせていたようだ。

どこまでも正直な生き方を貫いた高力清長。
ある意味、私からすれば羨ましい限りである。
正直者は損をする、そんな風潮が世の中にはあるように思う。人間だもの。ほんの少しだけ、我欲に惑わされることもある。無意識に、見栄だって張ってしまう。なんせ、人間なんだもの。

ただ、高力清長には、そんな後ろめたいところがない。きっと、生きていて、判断に迷うこともなかっただろう。我欲に、他人に、振り回されず。忖度など無縁の人生だったはず。

モノサシは、ただ1つ。
正直であれ。

だからこそ、今の時代を生きる私たちは、ちょっとだけ憧れてしまう。
すがすがしいほどの信念。嘘のない生き方。

ひょっとすると、「仏高力」の「仏」は。
そんな生き方を表しているのかもしれない。

参考文献
『徳川四天王』東由士編 株式会社英和出版社 2014年7月
『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団』 山下昌也著 学習研究社 2011年8月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。

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