「どっちが転がしてると思う?」
この記事を書きながら、ふと、聞いてみたくなった。パソコンの手を止めて、横でコーヒーをすすっている彼を一瞥する。聞こえてないのかと、もう一度重ねて訊いた。
「だから、どっちが、相手を手のひらで転がしてると思う?」
「俺やな」
「またまた、私やって」
こうして意味のない水掛け論を2往復ほどしたあと。
「やっぱり…そっちかな」
小競り合いから一転。急に譲られ、膝カックンされたような感じで議論が着地した。なんとも不信感が半端ない。理由を聞けば、これまた腹の立つロジック。
「自分が相手を転がしているって思う時点で、もう既に『相手の手のひらの中』ってコト」
沈黙は金なり。
もちろん何も反論せず、私が遠い目をしたことは、いうまでもない。
さて、前置きが長くなってしまったが。
戦国武将の中で、相手を手のひらでコロコロ、いや、人数が多いからゴロゴロか。とにかく、多くの人間を転がした人物といえば。間違いなくこの人だろう。
棚ぼた式で天下を簒奪したと、失礼な評価が多いこのお方。
2023年の大河ドラマの主人公となる「徳川家康」である。
じつに、大河枠で取り上げられるのは3度目という家康。今回は、そんな徳川家康のタヌキっぷり、いや、有能っぷりを是非ともご紹介したい。
三河(愛知県)統一後、苦難を乗り越え天下人となった家康。ある時はパワー押し、ある時は知恵を使ってスマートに。山積する課題を、並大抵ではない強靭な精神力で処理してきたに違いない。
そんな中で、今回取り上げる難題はというと。
「家臣の妓楼通いをどのように止めるか」という問題。
なんだか、コロナ禍での話と一部通ずるものがある気もするのだが。一体、家康は、経済とのバランスを取りつつ、どのような方法で解決したというのだろうか。
どうする、家康?
その華麗なる解決法を、早速、『名将言行録』よりご紹介しよう。
モットー1 冷静に状況を分析する
じつは、かつて静岡県にも有名な遊郭があった。
駿府の西端に位置する「安倍川町(あべかわまち)」。一般的には、「二丁町(にちょうまち)」という名の方が有名だろう。
この町は、徳川家康に長年仕えていた「伊部勘右衛門(いべかんえもん)」に預けられた町であった。勘右衛門が職を辞する際、家康より与えられた褒美だというのである。このとき、勘右衛門は、散らばっていた遊女を集めて、この町に遊郭を作ったという。これが「二丁町」の始まりだとされている。
この二丁町。名前の由来は、諸説ある。
初めは五丁(七丁とも)あったが、江戸の吉原へと三丁(五丁とも)移されて「二丁町」になったという説。いやいや、大門から右へと二丁(約218m)の間に、妓楼が軒を並べていたので「二丁町」と呼ばれたという説も。
どちらにしろ、その規模は大きかったようだ。当時、遊女屋は80軒ほどあったとか。最盛期では、遊女が300人以上いたとも。
さて、そんな遊女に骨抜きになる輩がいるという噂が。
なにしろ、それが家康の若い家臣たちとくれば、放置しておくことはできない。困ったのは、当時の町奉行「彦坂九兵衛光政」である。今はまだ噂にすぎないが、とにかく何か手を打たねばと考えた。
そこで、光政が出した答えとは。
この遊郭の町自体を、遠ざけようとしたのである。
確かに、一里、二里(約4㎞、8㎞)と場所が遠ければ、家臣らもそうそう安易に通うこともできないはず。安直だが、効果はありそうである。光政は、早速、家康にうかがい出ることに。
一方で、話を聞いた家康はというと。
遠くに移せば、その町の町人は一体どうなるか。こう、光政に確認したという。
もちろん、遊郭が遠ければ、家臣らは通いにくくなる。ただ、それは、家臣のみならず、他の者たちも同様である。つまり、妓楼側からすれば、客足が遠のくというコト。商売上、苦戦を強いられるのは目に見えている。
この見通しを考慮して、家康は以下のような考えを示したという。
「その方は、阿部川町を遠いところに移したらよいとの旨を申し出たということだが、阿部川町にいる遊女どもは売り物ではないのか。売り物であるとすれば、品物という点ではみな同じこと、遠いところに追いやれば、渡世もしにくくなろうから、そのままにしておけ」
(※名将言行録では「阿部川町」と記されています)
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
こうして、経済的なバランスを踏まえて、結局、策を打たずにそのままにしたのである。
モットー2 言葉を大事に
これで無事に終われば、苦労することなどないのだが。
なにしろ、血気盛んな若者たち。もちろん、中には分別がつかない者もいるだろう。そうこうしているうちに、遊郭は繁盛して。一方で、通い詰めて経済的に破綻する家臣が出始めたとの噂も。
そこで、今度は、家康の方から光政を呼んだ。
やはり妓楼対策かと思いきや。予想に反して、全くの別の用事である。
家康曰く、町で踊りをする声が聞こえたのだとか。どんな踊りをしているのか見てみたいとのこと。踊り連中を城内に入れよとの命であった。
町人からすれば、徳川家康公の面前での踊りとなる。ただし、帯や手拭いは新調しなくてもよいとのことだったので、そのまま城内へ。こうして三夜続けて盛大な踊りが行われた。これで、家康公もご満足かと思いきや、またしても光政が呼ばれることに。
今度は、遊郭のある阿部川町(安倍川町)の踊りはないのかとのこと。じつは踊り連中を招集する際に、遊女の町であることを理由に、光政がわざわざ除外したのである。
すると、家康は…。
「年をとると、女の踊りをこそみたいものだ。美しくもない男ばかりの踊りでは、おもしろくない」
(同上より一部抜粋)
そんな家康の言葉で、急遽、遊女らも召し出されることに。
しかし、ただ、踊らせるワケではない。家康からは、別の指示が出ていたのである。それは、その頃人気のあった遊女の名を差し出させ、その遊女らを板縁に上げておくようにとのことであった。
意図が分からないまま。
指示通りに、人気の遊女を分かるようにしておくと。
ちょうど、踊り休みに入った段階で。家康は、1人ずつ遊女を呼び出していく。
1人1人名前を確認し、菓子を渡す。
そして、帰り際。福阿弥(家康のお気に入りの茶坊主)から、大事な一言が。
遊女ら1人1人に伝えられたのである。
それが、コチラ。
「もしかして、名指しでお召のお呼びがかかることもあろうから、そのつもりでいるように」
(同上より一部抜粋)
この出来事は、瞬時に家康の家臣らにも広まることに。
ここで困ったのは、遊郭通いの家臣らである。
一体、誰が家康公に召し上げられるのか。
召し上げられる相手が分かっていれば、その遊女を選ばなければいいだけのこと。ただ、いかんせん、それが誰だか分からない。いうなれば、当時人気のある遊女全員にその可能性があるワケで。家臣らは、避けようにも避けられない始末。
万が一、自分の通いの遊女が召し上げられた場合。一体、何を告げ口されるやら。不要な言質を取られるようなことがあれば、目も当てられない。そんな危険を冒すくらいならと。その時から、家臣らの遊郭通いは、ピタッと止んだという。
全ては、家康の作戦勝ち。
遊郭を遠くに移動させずとも。遊郭通いをした家臣らを罰せずとも。
何も手を下さずに、結果だけしっかりと残す。
さすが、家康。
まんまと家康の策略に落ちた家臣たちであった。
最後に。
江戸時代中期の兵学者である「大道寺友山(だいどうじゆうざん)」が著した『岩淵夜話』。こちらに記されている家康の言葉をご紹介しよう。
「金は火をもって真贋を試み、人は言をもって試みる、というのは、古人の言い残した言葉である。このように、人々の知恵の深浅は、その者の一言でわかるものだ。それゆえ武士はかりそめにも、ものを言うのを大事と心得るがよい」
(二木謙一著『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』より一部抜粋)
何よりも、言葉を大事に。
家康が最も大事にしてきたモットーだろう。
多くを語らなくとも。たった一言でいい。いつ、何を言うか。その重みこそが、人の行動を左右する。
そう考えれば。
冒頭の話など、取るに足らぬこと。
誰が転がされていようが。
どちらの手のひらであろうが。
正直、なんでもいい。
互いに自分だと言い合える、そんな関係がいい。
何より、当たり前のようで、当たり前でない。
多くの縁が繋がって、互いの手が差し出されている。
そのことに、改めて感謝したい。
参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』 二木謙一著 中央公論新社 2019年2月
『静岡「地理・地名・地図」の謎 意外と知らない静岡県の歴史を読み解く!』 小和田哲男著 実業之日本社 2014年9月