Culture
2021.04.18

源義経は何をした人?もう1人の「九郎判官」が経歴とやったことを超解説!

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今回解説するのは……その名を知らない日本人はいるのか!? 日本の歴史上のヒーローといえばこの人!「源義経(みなもと よしつね)」(ドンドンパフパフ)

でもまぁ、源義経と聞いてピンとこない顔をする人もまれに見かけるが……。そんな人には「牛若丸(うしわかまる)」といえば「ああっ」と合点がいくようだ。「九郎判官(くろう ほうがん)」という別名も有名だな。

歴史人物の名前ってすごくややこしくて……。たぶん年号覚えるより、名前覚える方が大変だって人もいるんじゃないかな。オレ、世界史の人物名よく分からないもん。なんで親子で同じ名前なの!? って、それはおいといて。

昔の日本人の名前は出世魚みたいなもんだ。義経殿の例で言えば、幼い頃の名前である幼名が「牛若丸」。寺に預けられて「遮那王(しゃなおう)」という名前を貰い、その後元服して「義経」と名乗る。ちなみにこの「義経」という名は諱(いみな)と言って、本来なら隠しておく名前だった。

前の大姫の記事の時に解説した通り、名前を呼ぶとその人物を操れるという風習があったからだ。鎌倉時代では男の諱は秘匿される事はなくなったとはいえ、やっぱり目上の者以外が諱で呼びかけるのは無礼とされた。

だから、通常呼ぶ名前(通名)がある。義経殿の場合は「九郎」だ。そして出世して官職につくと、その官職名をつけて呼ばれる。現代でも「鈴木社長」とか「島課長」とか「野原係長」なんていうだろ? 義経殿は「判官」という、今でいうところの警察官みたいな職についていたから、「九郎判官」と呼ばれるんだ。

ちなみにオレの場合は、幼名は伝わってないが、諱は「胤義」、通名は「平九郎」もしくは「九郎」、そして官職は……「判官」!

そう、オレも九郎判官なんだよ!!

おっと、紹介が遅れたな。鎌倉御家人・三浦胤義(みうら たねよし)が語るシリーズ! オレが何者かは第1回参照なッ!

義経殿と三浦胤義の意外な関係

義経殿とオレ、名前が一緒ってだけじゃなくて、なんかこう共通点や対になっている所が多いんだ。例えば……。

源氏と平氏のW九郎判官

義経殿は、言わずと知れた源氏の御曹司。そしてオレは三浦だけど、本姓は平氏なんだ。オレが平氏な理由は清盛殿の記事を参照してくれ。

頼朝様とW九郎判官

義経殿は、我らが初代将軍・頼朝様の異母弟だ。そしてオレは、頼朝様の猶子(ゆうし)!

猶子っていうのは、養子みたいなもの。養子は名字も養父と同じになるし養父の財産や家督の相続権もある。実の親子と同等になるんだ。だけど猶子には基本的には相続権がない。まぁ、そんぐらいの違いかな? 有力者の猶子になると、元服とか婚姻とか昇進とかで、実の子並みに便宜を図ってもらえるんだ。……でも、頼朝様はオレが元服する前に亡くなっちゃったんだけどね。

山と海のW九郎判官

義経殿は京で生まれて幼少期に鞍馬山へ預けられ、寺を脱出して奥州(おうしゅう=東北地方)の平泉(ひらいずみ)に身を寄せた。平泉は現在の岩手県の内陸部にあるんだ。だから源平合戦まで義経殿は山育ちだな。

『源義経』一勇斎国芳 国立国会図書館デジタルコレクションより

対してオレは、相模国三浦郡。現在の神奈川県の横須賀市~三浦市にあたる。海に囲まれた三浦半島のバリバリ海育ち! 今も三浦は魚が美味しいから、三浦においでよ京急でおいで。京急のみうら1DAYきっぷがお得だよ。

強弓と弱弓のW九郎判官

弓の扱いが上手い事が、当時の武士のステータスだった。引くのに筋力が必要な弓を「強弓(つよゆみ)」、逆にそこまで筋力が必要ない弓を「弱弓(よわゆみ)」という。

身のこなしが軽々として武芸が達者なイメージがある義経殿だが、実は弓は弱弓だったというエピソードが『平家物語』にある。戦の最中に義経殿が海に弓を落としてしまい、それを拾おうとした所を狙われてしまう。しかし義経殿をかばい、郎党(ろうとう=家来)の1人が身をていして命を落としてしまった。

弓なんて放っておけばよかったのに、なぜ危険を冒して拾いに行こうとしたのかと聞かれて、義経殿はこう答える。

私の弓は弱弓なので、もし敵に拾われたら『あっちの大将はこんな弱弓だぜぇ!』と、バカにされてしまうだろう?

まぁ、当時の価値観的に「ナメられる=死」みたいな所があってさ。大将が弱弓だったら弱い軍勢ということで、敵に勢いがついてしまうだろう。それに味方も「え……うちらの大将、そんな子供みたいな弱弓使ってたの……?」って多少テンション下がるかもしれない。ぶっちゃけ当時の戦は、よりバイブスぶち上がってる方が勝ちな所あってさ……。指揮官としては、判断迷う所だよな~。

で、対してオレはというと……まずオレの家である三浦は、「お家芸」と呼ばれるほど弓に長けた一族。当然オレも強弓だ。なんせ、承久の乱当時、京一番の弓上手と呼ばれていたんだからな! ほんとに! マジで!

……そりゃ、1本の矢で船を沈めて、現代でも平安ガンダムって呼ばれるようなエピソードはないけどさ……。放った矢が大黒柱に半分までぶっ刺さるっていうめちゃくちゃリアルな強弓描写が『承久記』に残ってんだよ。

つーか『吾妻鏡』さー、承久の乱の時に宮方軍が一矢も放たないで逃げたって書いてるけどさー。じゃぁなにかい? オレが討ち取った23騎は自分で首や頭に矢をぶっ刺して川で溺れたっていうんかい? まぁ、それは置いといて。

兄と対立したW九郎判官

義経殿は頼朝様。オレもオレの兄上と対立した。しかも決定的に対立する前に兄に手紙を送って既読スルーされたというエピソード付き!

しかも……

新旧で命日が一緒なW九郎判官

義経殿の命日は文治5(1189)年閏4月30日。これは旧暦の命日で、新暦に直すと6月15日になる。

そして! オレの命日は旧暦で承久3(1221)年6月15日! しかも2人とも「戦に敗れて追い詰められた果ての自害」という。 

いやぁ、ここまで一致してたり対比している項目が多いと、運命を感じちゃうな! ちなみに、オレと義経殿は面識はない。オレの生まれ年は不明だけど、義経殿が亡くなった年に生まれていてもギリッギリ辻褄は合う、とだけ言っておく。

ちなみに、bot仲間にも、義経殿はいるぞ~!(@myoshitsune_bot) ものすごくハッチャけたタイプの義経殿だけど……。

源義経役、菅田将暉殿について

SSR源義経キターーーーーー! 顔も声も動きも喧しい義経殿になりそうな予感がする。

そして……菅田将暉殿が義経殿なら、W九郎判官的にオレ役が桐山漣殿だったりしたらどうしよう。楽屋裏的な感じで「九郎判官W」ってあのポーズでオフショットのインスタ上げて欲しい……。

菅田将暉殿のコメント

頼朝の弟。次々と奇跡を起こす悲劇の天才武将

いつも歴史上の人物や実在の方を演じるときに心がけているのは、“血の通わせ方”“綺麗事(きれいごと)で終わらせない”ということ。特に義経は綺麗なイメージがあるので、生々しく、義経は生きていたんだと僕自身も実感しながら演じていきたいです。

NHK_PRサイト 菅田将暉のコメントより抜粋

うむ。義経殿は理想化される事が多いし、その逆張り的に必要以上に悪く描かれることも、たまにある。どちらでもあってどちらでもない「生きていた」義経殿を期待しているぞ! 同じ九郎判官として! 同じ九郎判官として!!

『土佐坊昌俊義経が宿所に夜討の図』一勇斎国芳,朝桜楼国芳 国立国会図書館デジタルコレクションより

関連人物

主君:源頼朝
父:源義朝 母:常盤御前 養父:一条長成
同母兄弟:阿野全成、義円、
異父兄弟:廊御方?、一条能成、一条長成の娘
異母兄弟:義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、坊門姫
正室:河越重頼の娘(郷御前) 妾:静御前、平時忠の娘(蕨姫)、ほか
子:女児、男児

人物相関図:
『鎌倉殿の13人』予習にぴったり!源平合戦~鎌倉初期を相関図で解説!

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)

アイキャッチ画像:『芳年武者无類』武蔵坊弁慶・九郎判官源義経(国立国会図書館デジタルコレクション

書いた人

承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 当事者目線の鎌倉初期をTwitterで語ったり、話題のゲームをしたり、マンガを読んだり、ご当地グルメに舌鼓を打ったり。 草葉の陰から現代文化を満喫中。