Culture
2021.05.20

1万年色褪せない住居デザイン「竪穴式住居」縄文マダムも一揆Guyも暮らす、機能美に満ち溢れた邸宅

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西麻布のバーで仕事帰りの2人がお酒を飲みながら何やら話している。

Aさん:え!まだ、竪穴式住居住んでないの?

Bさん:今度内覧会に行ってみようかな。

え、縄文時代の会話でしょ?時代遅れ?と動揺を隠せないそこのあなた。これは近い将来の話かもしれない。

えええ~!?

縄文土器の正体云々かんぬんが議論される中で、縄文ブームと言われている昨今。竪穴式住居が私たちのライフスタイルの根底を作ってきたことは事実だ。実際に竪穴式住居を作り始めるYoutuberさえ出現している。欧米では茅葺きブームだ。不良やギャルも「エコなライフスタイルかっこよくね?」と憧れる。アーティストも原始に想いを馳せて作品を作っている。

えええ! そうなの? 知らなかった!

やはり私たちは1万年前ごろに発明された素晴らしい建築「竪穴式住居」に立ち返りたいのかもしれない。現実的な話は抜きにして、東京都心にボコボコと穴が掘られ、そこに住んだり、オフィスとして仕事をしたり、カフェとしてお茶会をしたりできたら面白い。まずは土がむき出しになっている代々木公園あたりにモデルハウスができないかなと考えている。ひとまず皆さんが喉元まで出かかっている「竪穴式住居に住みたい」という言葉をここで代弁しておきたい。

お~い、ライター稲村さ~ん笑 ……楽しそうじゃないか!

竪穴式住居ができるまで

2万年前、古代の日本人はカレーのお皿っぽい形のイエに住み始めた。大阪府羽曳野市のはさみ山遺跡で、なんとカレー皿のような円形のくぼみが発見された。

カレー皿に住むヒト! 宮沢賢治の世界を思い出してしまう表現です。

くぼみの周りには径10cm前後の柱穴が弧を描くように並んでおり、柱穴の傾斜から推測するに円錐形の屋根があったことが判明したのだ。それまでの生活は、獣を追い求めてひたすらキャンピングという風な遊牧民的な生活で仮小屋暮らしが一般的だった。しかし、この時期あたりから「定住をする」という考え方も出てきた。

写真は実物と異なる場合があります
画像キャプション「写真は実物と異なる場合があります」笑

食料獲得技術の進歩などがあり、時を経て1万年~8000年前。竪穴式住居の時代に突入した。国内最古級の竪穴式住居としては鹿児島県の上野原遺跡などがあり、南方から島伝いに海を渡って北上してきた人が作ったとも言われている。ただしその後主流になるのは、北方系の住居。8000年前になると、大地を50cmから1m掘り下げた住居も出現した。主柱があることにより屋根が頑丈になり、寒さを防ぐために屋根の上に土を乗せたり、屋根裏にモノを蓄えたりと高度な技が光るようになる。

え! 竪穴式住居に屋根裏!?

竪穴式住居の暮らしはどんな感じだったのか

では、竪穴式住居に暮らしていた人はどのような生活を送っていたのだろうか。そのことを考える上で、残された「穴」はとても考えやすい材料と言える。「土は硬い?ふかふか?なんか跡がある?」、こんな風に穴の中の土と対話することで見えてくるものがある。比較的古い縄文時代から弥生時代にかけての竪穴式住居を基準に、その暮らしについて見ていこう。

縄文から弥生時代の暮らし、どんな感じだったんだろう?

竪穴式住居の形は

竪穴式住居には主に2つの形があり、上から見た形として丸いものと四角いものとがある。おでんの具の話ではない。

あ、またもや宮沢賢治の『注文の多い料理店』の影が……。

丸いものは弥生時代の終わり頃にはほぼなくなる。壁がないので、いきなり屋根を地面に葺き下す形で作られている。竪穴式住居なので、大小様々(10cmから200cm近くまで)な深さの穴が存在する。冬は暖かく夏は涼しいという構造だ。

へええ! 竪穴式住居とひと口に言っても、深さがかなり違ったのですね!

窓と入り口はどうなっていたか

発掘調査では地面の上に乗っている上物は残っていないので窓があったか、入り口がどうなっていたかを推測するのは難しい。しかし、銅鐸や鏡などが古墳時代に出土しており、そこに描かれた絵をみると、竪穴式住居には窓がついていなかった。また、入り口に関しては、絶えず人が出入りしていたからか他の部分に比べて床面が硬くなっているという特徴がある。また、一部出入り口に小さな階段がついていた場合もあることもわかっている。

窓はなくて、入り口に階段がついていた場合もあるのか! たしかに2メートルくらい掘り下げた場合には必須だよなあ。

暖をとる場所は

ほぼ建物の中央か柱と柱の間には暖をとる場所があった。これは地面を直径70~80cmの大きさ、10cmくらいの深さで掘って、そこで火を焚くというシンプルなものだった。そこに石を置いてその上に器を置くと、ご飯や汁やらいろんな食事が作れるというわけだ。

囲炉裏みたい!

日本の古民家をみると、農家の囲炉裏などには自在鉤があるが、そういうものがあったかは定かでない。また、東北や北陸などでは10から20cmの河原石を重ねて70~80cmの大きな炉を丁寧に作るという風習もあったようで、寒い地域ならではの発想とも言えるだろう。このことからもわかるように、炉が室内温度の調節の役目を果たしていたこともわかっている。

料理も暖房も。優れものですね!

神棚の存在は?家族でオマツリをする

縄文時代中期の長野県では、住居の中に直径約10cm・長さ30cmくらいの石の棒を壁際に立てるということが行われた。その石の棒の周りにまた石をいくつか置くということもされた。

ストーンサークル?

これがすなわち原始信仰であり、部屋の一角に設けたお祭コーナーであったわけだ。これは家ごとにではなく、家族ごとに持っていたもので、引越しの際にはこれを移動させたようだ。

1人に1こ、ストーンサークル!

祭りには色々な段階があって、家で行う祭り、村で行う祭り、いくつかの村が行っている祭りという3段階があるとすれば、家で行う祭りがあったのが縄文時代。弥生時代以降に、石棒や土偶などを家の中で祀っていた形跡は見られない。コミュニティのスケールは時代とともに大きくなったことが読み取れる。

夜事情はどんな感じ?ベッドはあったのか

竪穴住居にはベッドがあったという説もあり、幅1メートル、長さ2メートルほどで、弥生前期以降に普及したという。

え! この時代にベッドがあったんだ!

普及後間も無く土のベッドはなぜか衰退して、木のベッドになったとも考えられている。土のベッドのあると考えられる箇所に杭列があるからだ。ベッド数が家族数であると短絡的に結びつきはしない。竪穴住居から発見された人骨を見てみると、一人の夫が二人以上の妻を持つ一夫多妻制やその逆の一妻多夫制などが想定される。

へええ! そうなんだ!

また、兵庫県神戸市の玉津田中遺跡では、低い床と土間の空間に分かれており、土間の方に土器がかたまって置かれていたという。物置と寝室で分けていたのか、あるいは男の部屋(物を持たない)と女の部屋(物を持つ)という風に区切っていたのか、様々な見解がある。

住居の外には何があったのか

縄文時代の人は小川や湧水が出るところの近くにムラを作ったようで、井戸を掘り始めるのは弥生時代以降である。トイレに関しては、竪穴式住居内に見つかった例がない。弥生時代の集落では、ムラの近くに作られた溝というのがいくつか発見されている例はあり、それがトイレだった可能性がある。

公衆トイレだったかもしれないのかな?

また、福岡県犀川小学校遺跡などではゴミ捨て場の穴も見つかっており、とりわけ弥生時代には各家一つのゴミ穴を持っていたかもしれない。ゴミは当たり前のように全て自然に還るものだったのであろう。縄文時代には決してムラを溝や柵で囲うことはなかった。これは米作りなどによる富の蓄積が始まった弥生時代以降の事と考えられている。

竪穴式住居はいつ時代遅れと言われ始めたのか

竪穴式住居は床の出現とともに衰退した。建物は床の高さから、穴屋、平屋、高屋に分類ができる。竪穴式住居が穴屋であれば、高床倉庫などは高屋ということだ。祭祀的な性格や米などを保存するなどのため、床の高さが地中から地上へと上がっていった。それとともに、竪穴式住居の緩い減少が始まった。基本的には、西日本では7世紀以降、東日本では12世紀以降、穴屋に変わって平屋や高屋が主流になったと言われる。

ライフスタイルの変化も大きく影響している?

写真は実物と異なる場合があります

穴屋の最たる利点を挙げるとすれば防寒性。しかし、炉で火を焚く技術の進歩や、衣服の防寒性の向上などが人々を地上へと向かわせたとも言われている。また、稲作が広まり水田が作られたので、水と湿気を避けるために床を高くする必要もあった。

そうか、いろいろな要因があったと考えられるんですね!

建築家の藤森照信氏(『フジモリ式建築入門』, 筑摩書房, 2011年)によれば、竪穴式住居は凍結深度よりも深く地面を掘り防寒を心がけ、高床式住居は水位より高く床を張り防暑を心がけていたという。つまり、竪穴式住居が減少し始めた時期に、建築は正反対の方向へと舵を切ったというわけである。

大富豪さえも住んだ竪穴式住居!高床式住居と共存の時代

しかし、水田が普及したのちも、竪穴式住居がすぐになくなるということはなかった。例えば灌漑による水田稲作で知られる弥生時代の登呂遺跡では、田んぼの中で土盛りして竪穴式住居が建てられている。また、古墳時代の青銅鏡である家屋文鏡(かおくもんきょう)には、大王に関わる四つの建築が描かれており、竪穴式と高床式の混合形式で作られたことがうかがえる。中には立派な竪穴式住居も存在しており、稲作の富の上に勢力を築いた大王でさえも竪穴式住居を使用していたらしい。

どちらにも利点があって使い分けていたのかもしれませんね!

のちに竪穴式住居は衰退するが、土間や炉、掘立柱、茅葺き、芝棟、土壁など日本の民家の様々な特徴が竪穴式住居に由来するものでもある。現存する日本最古の民家は室町時代後期に作られた兵庫県の箱木千年家であるが、日本人でも頭を打つほどに軒が低く、土壁で固められており、どこか竪穴式住居を連想させる外観だ。

竪穴式住居の発想が、他の建築様式にも活かされていたんですね!

江戸時代にもあった!ストイックな一揆Guyも住んだ竪穴式住居

竪穴式住居はなんと江戸時代にも見られる。日本最大規模の一揆の1つ、島原の乱(1637~38年)を描いた「島原陣図屏風」にも竪穴式住居は登場するのだ。島原の乱は飢饉の被害やキリシタンの迫害などを遠因として、過酷な取立てに耐えかねた島原の領民が16歳の少年・天草四郎を総大将として決起した戦いである。この一揆軍が原城に立て籠もった際に住んでいたのが竪穴式住居(竪穴建物)だった。

へええ! そうなんだ!

平成13年度に行われた原城跡発掘調査で詳しいことが明らかになった。1辺が2~3mの方形で竪穴式住居が作られ、これが石垣に沿って9区画作られていたという。通路や畑などもあり、計画的に整然と設計されていることがわかる。同じ集落をひとまとまりとして家族単位で使用したようだ。また、驚くべきことに冬場に住んでいたにも関わらず炉や竃などの遺構は見つかっていない。籠城中に失火で火災を起こさないように決まりが定められ、遵守されていたということだろう。つまり、食料の調理は一箇所で集中管理され、配給されたということのようだ。これは当時の一揆軍の暮らしの実態を垣間見ることができる貴重な場所である。

江戸時代にも竪穴式住居があったこと、初めて知りました!

それにしても、江戸時代の人々が長屋だけではなくこのような竪穴式住居のような建物にも住んでいたというのにはびっくりだ。日本人が竪穴式住居を使っていた期間の長さというのは特筆すべきである。この他にも長野県飯田城や岩手県盛岡市浅岸などで江戸時代の竪穴式住居が発見されている。(参照:長崎県南島原市のHP、こちらのHPでは、「竪穴式住居」ではなく「竪穴建物」という記述となっている。)

竪穴式住居の歴史は階級モデルが通用しない!まるでつららのようだ

こう考えてみると、竪穴式住居は「この時代に使われていた建築様式だ」と簡単に括ることはできない。縄文時代に使われていた日本の古い建築様式という認識も強いが、意外と後世まで作り続けられてきたというわけだ。柳田國男に始まる日本の民俗学の世界では、表層の階級的な時代認識が民衆の暮らしには通用しないという考え方がある。すなわち原始・古代・中世・近世・近代・現代という時代区分で区切ることができない曖昧な世界があって、例えば江戸時代であっても原始時代の層を掘り当てることができるというわけだ。

時代区分でぱきっと完全に分けられるものではない、ということなのですね!

社会学者の鶴見和子さんは柳田國男のこの考え方を「垂氷(つらら)モデル」と名付けた。新しいものの中にも古いものはあり、古いものの中にも新しいものがある。歴史の大きな流れとは違って民衆の歴史は変化が緩やかであり、つららのような凹凸感が存在するというわけだ。このような時代認識において、その突端が現代に表出したら面白い。竪穴式住居が現代の日本に姿を現した時、どのようなライフスタイルが提示されうるのだろうか。この点について以下、検討していきたい。

自然と繋がりたい私たち

竪穴式住居が作られ始めてから、約1万年の歳月が過ぎた。周りを見渡せば、マンションやビルなどの高層建築が立ち並び、地中には地下街や地下鉄が幅を利かせ、地表付近を所狭しと建築が埋め尽くしている。我々は土を踏みしめずして、道路や床を踏みしめる。これが当たり前である。

たしかに足の裏で土を踏みしめる機会って、私もあまりないなあ。

竪穴式住居の場合は無論、土の中に住むわけだから、幼虫などが土の中から湧いてきて住人の寝床に入り込んだこともあったろう。現代の日本人は抗菌をして住環境に潜む生物を殺している。しかし一方で、地球温暖化やヒートアイランド現象などもあり緑化によって再びそこに生物を這わせようともしている。結局、人間は自然に還りたいのかもしれない。

その気持ち、とっても分かる。

そうは言っても、暮らしやすさは大事。竪穴式住居こそ日本人にとって最も長く愛されてきた建築様式なのだが、なぜ竪穴式住居が使われ続けたのか。そこには少なくとも現代にも通じる機能美があった。

冬は暖かく夏は涼しい!快適だ!

結局竪穴式住居というのは、地上から地下に向けて穴を掘りそこに住む建築様式だ。穴であることを踏まえれば、原始の洞窟住居を連想させる。それを人間の住みやすい形で意図的に作り上げたのが竪穴式住居なわけで、人間の第二の衣服というか、衛生や安全、防寒、防暑などの観点から外界と切り離すという意図を持って作られた。動物だって穴を掘って冬眠する。冬眠は冬の寒い時期に行うものだから、気候と穴を掘る行為とは密接に結びついている。つまり、温熱を担保するという機能美が存在するのだろう。

住まいは第2の衣服! たしかに。

竪穴式住居は北に行けば行くほど床のレベルが深くなっていき、秋田などでは深さ2mの物もあるという。人間が立ち姿でもすっぽり隠れるような大きさなわけだ。冬の地中は地表と比べ暖かい。炉で火を絶やさず燃やし続けることで、室内の相対湿度も下げられる。暖かく軽い暖気によって室内空気の換気を促す役割を果たしている。それに加え、夏は穴の中なので涼しい。

屋根に草を生えさせる!美しい!

加えて竪穴式住居は植物を屋根に乗せることで棟を固定した。屋根に土を乗せ、草を生い茂らせていたのだ。外見的にも美しさがあり、癒される。この芝棟と呼ばれる技術は、竪穴式住居ののちに続く茅葺民家などにも継承された。

計画的に植物を屋根に這わせていたのですね! 現代では日よけのグリーンカーテンが人気ですね。

ちなみにフランスのマリーアントワネットはアモーという擬似田園を作り、そこの茅葺にイチハツを植えるなど芝棟を意識した家を作った。水戸黄門もこのような芝棟の家を作ったと言われる。上流階級の人でさえも、実は心の何処かで竪穴式住居を意識していたのかもしれない。

あなたが輝ける場所「竪穴式住居」に住もう

ところで私は庭に穴を掘って秘密基地を作り一晩そこで明かそうとしたことがある。しかし、危ないからと言われ止められた。住まいに対する遊び心というのにも限度がある。ただ竪穴式住居を作って1年ほったらかしにしたら、穴の部分が池になってしまったというYoutubeの動画を見たことがある。建築家が竪穴式住居を作ったり、竪穴式住居を宿泊地として開放するという取り組み(吉野ヶ里遺跡など)も行われていたりする。私は最近パソコンと携帯を触るばかりで、土にはあまり触れていない。もっと土に対して想いをぶつけねばならない。先人に学びながらも、機能美溢れるエコハウス「竪穴式住居」への居住を検討したい。

ちょっと竪穴式住居の体験居住をしたくなってきてしまいました!

参考文献
野沢 正光,『パッシブハウスはゼロエネルギー住宅竪穴住居に学ぶ住宅の未来』,農山漁村文化協会,2009年
石野 博信,『古代住居のはなし歴史文化セレクション』,吉川弘文館,2006年
藤森 照信,『フジモリ式建築入門』, 筑摩書房, 2011年

書いた人

千葉県在住。国内外問わず旅に出て、その土地の伝統文化にまつわる記事などを書いている。得意分野は「獅子舞」と「古民家」。獅子舞の鼻を撮影しまくって記事を書いたり、写真集を作ったりしている。古民家鑑定士の資格を取得し全国の古民家を100軒取材、論文を書いた経験がある。長距離徒歩を好み、エネルギーを注入するために1食3合の玄米を食べていた事もあった。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。