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2021.11.16

江戸の町も“韓流ブーム”!?物価が高騰するほど江戸の人たちを夢中にさせたアレとは

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平成15(2003)年、ヨン様こと、ペ・ヨンジュン主演の『冬のソナタ』がNHKのBSで放送されたのがきっかけとなり、日本全国で韓流ブームが巻き起こった。当時、空港にはヨン様を一目見ようと出待ちする中高年の女性が殺到。そんなニュースを見聞きした人は少なくないはず。

その後、BoAや東方神起、KARAなどの韓国アイドルが続々登場と同時に、韓国の文化に興じる人たちは低年齢化。今では中高生に好きな歌手を聞けば、日本の歌手やアイドルよりも韓国の歌手やアイドルの名前が出てくるというほどに、若者の間ではK-POP文化が定着している。

現代の日本においてお馴染みのそんな光景は、江戸の町でも見られたかもしれない。
それほどまでに江戸の人たちを熱狂させたモノとは……。

日朝の外交の歴史

本題に入る前に、日朝の外交の歴史を軽く振り返るとしよう。

古代から親密な関係で結ばれていた日本と朝鮮。白村江(はくそんこう)の戦いの結果、百済(くだら)と高句麗(こうくり)が滅亡。その直後の統一新羅(しんら)の誕生当初は緊張状態に陥ったものの、奈良時代に古代律令国家体制が確立するまでの間は概ね両国は良好な関係にあり、外交が中断されることはなかった。

唐との関係を強化していくにつれて、日本と朝鮮との関係は疎遠となり、8世紀後半には交流が途絶えた。そのような状態は高麗(こうらい/朝鮮語ではコリョ)王朝が成立後も数世紀にわたり続いた。

日本国内において50余年にわたる南北朝の時代が続いた後、室町幕府が開かれると、国の状態が安定。足利義満(あしかがよしみつ)の指令により、日朝間の国交が再開された。その後、2国間における国交は室町末期の応仁の乱まで続いた。

当時の東アジア社会では、中国だけが文明国でまわりの諸国は未開の国であるという中華思想・華夷思想の世界が形成されていた。それは、進んだ文明を持ち、長い歴史のある中国を宗主国として、まわりの国々はその臣下の国であることを国際秩序の基本理念とする考え方である。ここでは、朝鮮の国王も「日本国王」の足利将軍も、ともに中国皇帝から冊封をうけて中国とは上下関係となるが、朝鮮・日本は互いに対等、友好の対外関係が成立していたのである。こうして、国内的にはいつも政情不安定な状況におかれた足利将軍家も、国王として国際的に認知され、安定した平和な対外関係を維持することができるようになった。

(辛基秀『新版 朝鮮通信使往来-江戸時代260年の平和と友好』)

朝鮮通信使人物図-Colbase(東京国立博物館)

日朝関係に多大な影響を与えた朝鮮出兵、その真相とは?

日朝関係を破綻させた出来事と言えば、やはり秀吉の朝鮮出兵であろう。2度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は歴史教科書でもお馴染みの出来事だが、なぜそのように戦火を交える事態へと発展したのだろうか。

天下を統一し、日本の実権を握った秀吉は、次なるターゲットとして朝鮮と明を支配下に置く計画をひそかに企んでいた。そこで、侵略征服のための九州平定の折、対馬藩主の宗義調(そうよししげ)に対し朝鮮国王の入朝の交渉を命じた。ところが、対馬藩主は秀吉を裏切る行為をとってしまったのである。

対馬藩主は家臣神谷康弘を「日本国王使」として朝鮮に派遣し、秀吉による天下統一を告げ祝賀の朝鮮通信使派遣を要請した。東アジアの歴史情勢を知らない秀吉をだまし、朝鮮入朝を朝鮮使派遣要請にすり替えて、双方を欺く苦肉の策により、長い間途絶えていた通信使派遣を実現しようとした。

(辛基秀『新版 朝鮮通信使往来-江戸時代260年の平和と友好』)

対馬藩主がこのような対応に出た理由として、対馬は耕地面積が少なく、朝鮮との貿易なくして島民の生活が成り立たないというやむを得ない事情があった。

対馬藩主・宗家に伝わった大名家文書。宗家の文書が対馬に存在していたこと、対馬と宗家とは密接な関係にあったことを証明するための文書として、江戸幕府の将軍や老中の書状を含む約1万4千点が国の重要文化財に指定されている。-Colbase(九州国立博物館)

対馬藩の欺瞞外交はひとまず成功し、天正18(1590)年4月には朝鮮通信使の日本への派遣が復活。秀吉と朝鮮の使節団とが会う機会も設けられたものの、秀吉側はあくまでも朝鮮国王が入朝したものと認識していた。そして、この時に朝鮮通信使が持参した国王の国書が後の朝鮮出兵の引き金となったのである。

朝鮮通信使が持参した国王の国書は、秀吉の天下統一を祝い、應仁の乱以来とだえがちであった交隣関係を正したいという内容である。対する秀吉の返書は、中国に対する侵略「征明」の道案内を求めるもので、この返書を、小西行長とその女婿である宗義智は「仮途入明」、つまり道を借りるだけだというごまかしの弁明を行ったのである。この秀吉の返書こそ百五十余年続いた善隣関係の終焉を告げるものであった。

(辛基秀『新版 朝鮮通信使往来-江戸時代260年の平和と友好』)

秀吉の死後、戦後賠償に注力した家康

秀吉への反発は、家康を支える知識人たちを中心に凄まじいものであった。江戸儒学の開祖である藤原惺窩(ふじわらせいか)は秀吉を徹底的に批判したひとりであった。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、対馬藩主の宗義智(そうよしとし)との和平交渉を命じ、数回にわたり朝鮮に使者を送った。この時、藤原の思いを引き継いだ雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)が、対馬藩の真文役として朝鮮外交の先頭に立った。戦後処理の折り目をつけることを目的に、3日目までは回答・刷還使(さっかんし)という名称で外交が展開された。

しかしながら、日朝間の関係修復は容易なものではなかった。朝鮮の対日感情は厳しく、使者が日本に戻ってくることなく、朝鮮に抑留されたり、殺されたりすることもあった。第1回目の回答・刷還使の使節団一行が大坂の淀川河口に到着し、大坂城を遠望した時の気持ちとして「毛髪が凛々として逆立ち、怒りがこみあげてきた」と書き記しているように、この時点では侵略戦争の傷はまだ癒えていなかった。

宗義智は不信感を和らげようと、和平交渉を必死になって続けた。その一方で、朝鮮の国土は秀吉の侵略軍により荒廃し、戦後の復興がままならないうえ、明が衰え、清が東アジアを支配下におさめようとするなかで、朝鮮側も和平交渉は急務であると考えていた。そのような政治的な事情もあり、最終的に宗義智の決死の努力は実を結び、3年に1度、参勤交代のため江戸に参るという内容で交渉に応じてもらえ、戦後賠償はひとまず成功に終わった。

回答使や刷還使は寛永13(1636)年、初めて「朝鮮通信使」に変わり、その後8回目までは日本の泰平や将軍の襲職を祝賀を目的に来日した。ただし、秀吉の侵略イメージもあってか、中国の北京へ派遣された燕行使(えんこうし)よりも低く見られたこともあり、当初は来日を拒否する人は少なくなく、人員選びが難航した。

出だしはどうであれ、江戸時代の約260年は概ね比較的友好的な関係が保たれていた期間であり、後にいわゆる“韓流ブーム”も巻き起こることとなった。

朝鮮人参が火付け役となり、江戸の町は“韓流ブーム”に

朝鮮人参の価格が高騰し、超高級品に

古代より東アジアでは万病、不老長寿の薬として珍重されてきた朝鮮人参。綱吉の時代から人気が高まり、対馬藩の江戸直営店には早朝から行列ができるほどに、江戸の町は朝鮮人参に魅了された人で溢れかえった。需要に対して生産量が限られていたという事情もあり、朝鮮人参の価格は高騰。3本で1貫700文で売られていた時期もあったという。ちなみに、江戸では米4斗(60キロ)分に相当する値段であったのだとか。

写真AC

幕府が朝鮮との貿易を通じて期待していたもののひとつが朝鮮人参であり、日本の銀を売ることを交換条件に貿易を展開した。時には朝鮮との貿易のためだけに、80パーセントの良質銀を銀座で鋳造してもらうこともあった。こうして、日本の貿易力は上昇し、日本はひとたび世界最大の銀本位国となった。

慶長12(1607)年の通信使の派遣に際しては密輸による売買と密通が厳重に戒められ、朝鮮にはない薬種や日本の銀、小間物をこっそり買ったり、国家の重要な情報を洩らしたり、あるいは朝鮮の書籍を個人で売ったりすることが禁止された。にもかかわらず、その後も密輸は後を絶たなかった。

超レア食材だったんだ!でもなんでそんなに珍重されたの?

朝鮮医学への関心が高まり、朝鮮通信使に医師も同行

李氏朝鮮時代には現代に通じるハングルが初めて導入されたわけだが、これまでの朝鮮語とは発音を含め言語体系が全く異なるものであり、当時の日本人にはまだその新たな言語に対する理解がなかったのだろう。朝鮮通信使を交えた文化交流は基本的に漢文による筆談という形式がとられ、詩文贈答も行われた。朝鮮通信使は当初、友好親善のために派遣されたが、後に学術交流のロールモデルにもなった。

大坂の書店へ足を運べば中国や朝鮮の翻訳書が数多く手に入る状況のなかで、日本の知識人の間では李氏朝鮮の儒学の最高峰とされる李退渓(りたいけい)に対する関心が自然と高まっていった。そして、林羅山(はやしらざん)を含む日本の多くの儒学者が参加した朝鮮通信使の会合では、李退渓や朱子学に関する質問も多く飛び交った。

さらに、朝鮮通信使との交流を深めていくなかで、李氏朝鮮時代の医学書である『東医宝鑑(とういほうかん)』をはじめ、朝鮮医学にも関心が向けられた。

そもそも日本と朝鮮における伝統医学はともに中国医学をベースに発展してきたが、江戸時代初頭の段階で両国の医学の水準には格段の差があった。日本の医学は戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した曲直瀬道三(まなせどうさん)によって体系化された「道三流医学」が主流を占めていたが、その医説は中国の陰陽五行説や運気論の影響を強く受けており、空理空論に流れる傾向にあった。ちなみに中国医学については、杉田玄白をはじめとする蘭学者やその関係者の間でも問題視されていた。

中国の治療法や学説を研究してみると、それは無理なこじつけが多く、しかも抜けたところがあるために、これをはっきりさせようとすると、ますます分らなくなり、これを正そうとするといよいよ間違ってしまい、日常使えるような治療法は一つもない。(中略)思うに蘭書の分りにくいところは十のうち七に過ぎない。だが中国の学説は、使えるものは十のうち一つあればよいほうである。

(杉田玄白著/酒井シヅ現代語訳『新装版 解体新書』の「凡例」より)

それに対し、朝鮮医学は中国医学を受け入れるにとどまらず、そこには独自の医論を展開するなど固有の医学の発展があった。日本の室町時代に相当する時代には中国医学一辺倒の状態から脱するとともに、医療制度が整備され、医学や薬学の奨励・普及が図られていた。さらに、朝鮮王朝の全期間において医学書の刊行は200種以上に及び、高麗末期には薬材関連の専門書を中心に多数編纂。その後に続いた李氏朝鮮時代には前期だけでも、『東医宝鑑』のほか、『胎産要録(たいさんようろく)』、『鍼灸擇日編集(しんきゅうたくじつへんしゅう)』、『瘡疹集(そうしんしゅう)』、『新纂救急簡易方(しんさんきゅうきゅうかんいほう)』、『救急易解方(きゅうきゅうえきかいほう)』、『医林撮要(いりんさつよう)』、『簡易辟瘟方(かんいびおんほう)』、『治腫秘方(ちしゅひほう)』など、数多くの医学書を刊行。つまり、日本の医学よりもはるかに進んでいたのだ。

朝鮮通信使に良医を入れることが求められたなか、正徳元(1711)年の8回目の朝鮮通信使には良医の奇斗文(きとぶん)も同行した。江戸時代の名医と称された美濃大垣(現在の岐阜県大垣市)出身の北尾春圃(きたおしゅんぽ)は、朝鮮人参に関する質問に始まり、朝鮮人参の代用品として沙参(しゃじん)はどうなのかだとか、腰痛には何が効くのだとかといった質問を投げかけた。また、当時30代の難病とされていた耳鳴りについて尋ねる場面もあった。奇斗文との話し合いの結果、沙参については朝鮮人参に勝る効果は期待できないという結論に至った。

沙参は根が朝鮮人参に似ているらしい。それで質問したんですね!

北尾春圃と奇斗文との問対の内容については正徳3(1713)年、『桑韓医談(そうかんいだん)』として出版された。写真は『桑韓医談』第2巻の一部。-京都大学附属図書館所蔵

徳川吉宗直下で朝鮮人参の国産化を推奨。人参御用も登場

吉宗が将軍に就任する前から、新井白石(あらいはくせき)らは輸入品の獲得のために貴重な鉱産資源を失わざるを得ない状況に対し危機感を募らせていた。吉宗が将軍に就任する1年前の正徳5(1715)年1月には、銀はもちろん、その代替品とされた銅の輸出にも制限が課せられた。日本の銀を売ることを前提とした貿易はダメ!でも、朝鮮人参の供給が需要に追いついていない現状を何とかせねばならないということで、吉宗によって考え出されたのが日本国内での朝鮮人参の地産地消であった。

吉宗が朝鮮医学に大変関心を示している様子を察知した対馬藩は、対馬国元の文庫内に保管されていた『東医宝鑑』25冊を江戸に献上。吉宗は一通り『東医宝鑑』に目を通したうえで、朝鮮薬材に関する調査を開始。その調査とは、『東医宝鑑』に記された多種類の動植物に関して、どれが日本にあるものなのか、日本にあって朝鮮にないもの、逆に朝鮮にあって日本にないものは何かを明確にするために行われたものであった。

享保6(1721)年、朝鮮人参の種子の輸入を開始。それから4年後の享保10(1725)年、日光にある幕府直営の農園での栽培に成功した。朝鮮人参の栽培は日本全国に広がり、江戸城のほか、小石川、新潟の佐渡島、仙台、土佐にも栽培拠点を構えていたとも言われている。

さらに、朝鮮人参を栽培するだけでなく、薬種に加工する研究も進められた。その研究を主導したのが本草学者であり医師の田村藍水(たむららんすい)であった。

朝鮮人参の栽培に関しては、種まきから収穫だけでも4~6年かかる。それゆえ、田村の研究が実を結ぶのに30年近く要した。田村は20歳の時に幕府から朝鮮人参の種20粒を受け取ったが、26年後の宝暦13(1763)年6月にようやく研究が認められ、幕府公認の人参御用に昇進。国産の朝鮮人参の普及のために尽力した。

幕府は朝鮮人参を専売することを目的に、同年8月、広東人参の売買を禁止するとともに、商業規模で朝鮮人参を製造するために江戸・神田に人参製法所を設置した。田村はその人参製法所の責任者に任命されたほか、その後朝鮮人参の栽培方法などについて纏めた『朝鮮人参耕作記』を刊行した。

明和元(1764)年に編纂された田村藍水の『朝鮮人参耕作記』の表紙。現代で言うブログに相当するその書には朝鮮人参の生育に適した場所、害虫対策、土つくりと雨覆い、日本産と朝鮮産との違いなどが図とともに説明されている。その後、写本も多く出回った。『朝鮮人参耕作記』(田村元雄※ 編)-国立国会図書館デジタルコレクション

※田村藍水の通称名。

おわりに

余談だが、江戸時代の朝鮮人参は現代のキムチと重ねて見ることができるようだ。スーパーには韓国産キムチもあれば、国産キムチもある。田村藍水によって朝鮮産の朝鮮人参と国産のものとの違いが示されたが、同様にキムチに関しても国産と韓国産とでは使用する材料や作り方に若干の違いがある。現代の私たちがネットで検索すれば、キムチを使ったレシピを掲載したブログなどが多数ヒットするが、これらはいわゆる江戸時代の『朝鮮人参耕作記』に相当するものだ。

スーパーでもキムチって見かけますね

何より朝鮮人参をきっかけに社会や政治が動いた。一方、現代のキムチは昭和61(1986)年に韓国からの輸入が本格化し、1990年代を境に日本国内において消費量が増えると国産キムチも現れた。その後日韓共催ワールドカップがあり、2000年半ばにはヨン様ブームが起きた。間違いなくキムチは日本社会や政治を大きく揺るがしたのだ。こうして見ると、キムチは現代の韓流ブームの象徴と化しており、その点江戸の朝鮮人参との共通項が窺われる。

確かに、江戸に“韓流ブーム”は存在したようだ。

(主要参考文献)
『新版 朝鮮通信使-江戸時代260年の平和と友好-』辛基秀 明石書店 2002年
『江戸時代朝鮮薬材調査の研究』田代和生 慶應義塾大学出版会 1999年
『新装版 解体新書』杉田玄白著/酒井シヅ訳 講談社学術文庫 1998年
「「朝鮮通信使」から見た日韓文化交流」文慶喆 『総合政策論集: 東北文化学園大学総合政策学部紀要18(1)』2019年

書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『藝大アートプラザラヂオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。