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2021.09.13

実母による「政宗毒殺計画」その真相と伊達兄弟の謎を紐解く

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「先度者参遂会面本望候」
──この間そちらに行った際に、お会いできて満足でした

これは、戦国大名が出したとある手紙の一部分である。
書いたのは、仙台藩主「伊達政宗(だてまさむね)」。
日付は8月21日とだけ。元和8(1622)年と推測される(なお『政宗公実記』より元和9年とも)。

伊達政宗をご存知の方であれば、それがどうしたと、思われるだろうか。そもそも、政宗は大の手紙好き。その上、自筆率が非常に高いとあって、そこまで驚くこともない。これが織田信長や豊臣秀吉であれば、また違ってくるのだろう。自筆の書状が発見されただけでもニュースとなるくらいの希少価値high。

そうなんだ! 自筆書状を連発する政宗さま、料理好きだったそうだし、いろいろまめだなあ。クイズ!料理男子だった戦国武将はだ~れだ?ヒントは目立つの大好き、ド派手なあの人

それに比べ、伊達政宗はというと。
残存する自筆の書状が、既に1000通以上も確認済み。申し訳ないが、正直、目新しさに欠けるというか。これが、信じられないような内容の手紙であれば……ねえ。例えば、死んだとされる「弟」に関わる手紙だとか……。

そう、まさしく。
この手紙は政宗の「弟」がらみ。だから、今回の記事で取り上げたというワケである。

あれっ?
伊達政宗は長男。確か、弟は「小次郎」で、「兄の政宗に手討ちにされた」といわれているはずでは……。

今回は、そんな伊達政宗兄弟の謎に迫りたい。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣する直前のコト。当時の伊達家では、一体、何が起こっていたのか。政宗の母「義姫(よしひめ)」は毒殺を画策したのか。政宗の弟「小次郎」は、本当に死んだのか。

この手紙を紐解きながら、火サス並みの大展開を期待して。
それでは、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、「僧侶法服着用図」東京国立博物館所蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)となります
※この記事は、「伊達政宗」「豊臣秀吉」の表記で統一して書かれています

毒殺未遂後の「母」の出奔はウソ?

伊達家の正史である「貞山公治家記録」には、ある1つの事件が収められている。ちなみに、この正史は元禄16(1703)年に編纂。つまり、当時から100年以上経って記されたことになる。

む。正史の編纂、けっこう時間が経ってからのものなのですね。

さて、問題の事件が起こったのは、天正18年(1590)年4月5日。
当時、伊達家が揺れに揺れていた頃のことである。

揺れの原因の正体は、コチラの方。
主君である織田信長が「本能寺の変」にて自刃してからわずか3年余り。飛ぶ鳥を落とす勢いで、天正13(1585)年に関白となった「豊臣秀吉」である。そんな彼の熱い視線の先にあったのが「関東」と「奥州(東北)」。いうなれば、九州平定後、秀吉は「東日本」を含めての天下統一に手をかけたのであった。

一方で、当時、奥州制覇に向けて戦い三昧であった伊達政宗からすれば、非常にタイミングの悪い話。父の死後、実力だけでようやくここまで成り上がってきたというのに。横からサクッと、その立場を持っていかれそうになっているのだ。反発したいのも無理はない。

だからといって、九州の島津家のような失敗は許されない。秀吉の実力を見誤ったが最後、悲惨な結末が待っていることは自明の理。そうこうしているうちに、何やら動きが。天正18(1590)年、秀吉に臣従せずにいた関東の北条氏が標的に。秀吉が討伐へ動くというのである。徳川家康をはじめ、諸大名らを総動員して、圧倒的な兵力差を見せつけるつもりであろう。これが、世にいう「小田原攻め」である。

秀吉 月岡芳年 「教導立志基」 「三十三」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

もちろん、伊達家にも小田原参陣の要請が。
秀吉に徹底抗戦するか、臣従するか。家中の意見が割れる中、腹を決める政宗。と、ここで、問題の事件が起こる。

小田原攻めの参陣に向けて、母「義姫」から招かれた宴。そこで、政宗は腹痛を起こす。なんとか一命を取り留めたものの、母親がこの宴で自分の毒殺を企てたことが発覚。弟「小次郎」を伊達家の後継ぎにするためであったとか。

そこで、政宗は伊達家が分裂しないよう、やむなく弟「小次郎」と小次郎の傅役である「小原縫殿助(おばらぬいのすけ)」を手討ちに。首謀者である母「義姫」は、会津黒川城(福島県)からとっとと出奔。事件後すぐの天正18(1590)年4月7日のこと。こうして、彼女は、実家である最上家(山形県)へ逃げ帰ったというのである。

小田原攻めの参陣の際に、まさか、伊達家にこんな一大事が起こっていたなんて。ホントに信じられないような話だが、出典は伊達家の正史である。疑う理由がない。

しかし、のちに、母「義姫」の出奔の日が、別の資料で覆されることに。
なんと、政宗の人生の師である「虎哉宗乙(こさいそういつ)」禅師の手紙に、彼女の出奔がガッツリと書かれていたのである。

禅師の手紙によれば、出奔の日付は、文禄3(1594)年11月4日。
場所も黒川城ではなく、岩出山城(宮城県)から最上家へと帰ったようだ。ここで、「貞山公治家記録」の内容に誤りがあったことが明らかとなったのである。

正史で書かれている日付の約4年半後。場所も違う。何が起きていたんだろう?

となると、つい、あの記述は一体何だったのかと思ってしまう。

そもそも、実際に「事件」は起こったのか。
大胆な考え方をすれば、それ自体が怪しくなってくる。見ようによっては、そんな見方もできるのである。

だったら「弟」はいずこへ?

さて、もう1つの方向から、今回の伊達家兄弟の騒動をみていこう。

じつは、冒頭でご紹介した書状には、別の呼び名がある。
その名も「伊達政宗白萩(しらはぎ)文書」

なぜ、白萩か。
それは、この手紙の続きにヒントがあるからだ。ここで、その一部をご紹介しよう。

「この間、そちらへ行ったときにはお会いできて満足でした。
頼みたいことがあるのですが、あの時、お庭の白萩がひときわ見事だったので少し分けてもらいたいのです。
先日は言い出せなくて、そのまま帰ってきて今まで過ごしてしまいました。
頂戴できればありがたく、うれしいです」
(郷土の古文書「その2 伊達政宗の白萩所望状」より一部抜粋)

この書状の宛先は、真言宗の古刹「大悲願寺(だいひがんじ)」。
白萩で有名な東京都あきる野市のお寺である。

なんで、また。東京なのだ。
どうやら、政宗が何度か、このお寺を訪ねていたというのである。

「伊達黄門政宗公像」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

当時の大悲願寺の住職はというと。
第13代住職「海誉上人(かいよしょうにん)」。この文書も彼に宛てたもの。庭に咲いている白萩があまりに見事だったので、株を少し分けて欲しいとのお願いが書かれており、別段、不審な点はない。

ただ、政宗が訪れた際には、彼の弟子でのちに第15代住職となる「法印秀雄(ほういんしゅうゆう)」もその場にいたとか。

この「秀雄」こそ、伊達政宗の弟だというのである。

殺されたはずの弟が、その後にお寺の住職になった……生きていた……?

大悲願寺に伝わる『金色山過去帳』には、こんな記述も。

「法印秀雄、俗生は伊達大膳大夫輝宗(政宗の父)の二男、陸奥守政宗の舎弟也」
(『伊達政宗の素顔 筆まめ戦国大名の生涯』 佐藤憲一著より一部抜粋)

先ほどご紹介した「白萩文書」の包み紙にも、同様の記述があるという。加えて、幼名が「鶴若」だったとか。

ちなみに、伊達家の系図に「秀雄」という名前は出てこない。
伊達政宗の父である「輝宗」と母「義姫」の間には子が4人。男の子どもは、「政宗」と「小次郎」のみ。妹ら2人は夭折している。

となると、この「秀雄」って誰? という疑問が湧いてくる。
確かに、伊達輝宗の落胤という可能性も否定はできないであろう。ただ、それならば。同じように、手討ちにされたことになっている「小次郎」だという可能性も否定できないのだ。

この「法印秀雄」と弟「小次郎」は、果たして同一人物か否か。
真相を知るのは、彼らのみ。
伊達政宗最大の謎は、未だ解けないのである。

最後に。
元々、不可解な事件ではある。

伊達政宗は、小田原攻めに遅れた。
その言い訳の1つとして、今回の事件が使われたことも考えれば。また、違う伊達家の様子が見えてくるような気がしてならない。

なかでも、最も合点がいかないのは、母「義姫」との関係だ。毒殺未遂事件以降にも、彼女と政宗は手紙のやり取りを行っていた。その数は7通以上。なんなら、愛情溢れる内容のものまで確認できるのだから。外野からすれば、いかんせん理解し難い状況である。

そもそも毒殺しようとした張本人と、関係修復は可能なのだろうか。母「義姫」の出奔の時期も、事件直後ではない点を併せて考えれば……。

ここからは、私個人の見解だが。
最初から「事件」などなかったと。
そして、小次郎も手討ちされなかった。そんな結末も1つの可能性として浮かび上がってくるのではないだろうか。

そうだったということにして、家を守る。必死の方便だったのかもしれませんね。

当時、政宗に子はいなかった。待望の嫡男は未だ生まれていない状況である。つまり、政宗には後継ぎがおらず。加えて、政宗の弟は小次郎だけ。そんな環境であるにもかかわらず、いつ何時、討ち取られるか分からない戦国の世に、果たして、後継ぎ候補をむざむざと消すであろうか。

それならば。
いざという時に還俗できるよう、今は寺へと預ける。そんな選択肢が現実的だと思えてしまう。実際に、「じつは出家してました」という戦国武将も珍しくない。後継ぎの担保という意味でも、小次郎は寺へと送られた。そんな解釈が諸々の事実にピタリと当てはまるのだ。

だからというワケではないが。
もし、「小次郎」が「秀雄」として生きていたならば。
「白萩を分けてほしい」という政宗の気持ちが、なんとなくだが分かるのである。

戦場で一緒に戦うことはできなかった。
立つ場所は異なるけれど。
せめて、庭の白萩を、一緒に眺めたい。

そんな兄弟愛を感じてしまうのである。

参考文献
『伊達政宗の素顔 筆まめ戦国大名の生涯』 佐藤憲一著 株式会社吉川弘文館 2020年9月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。