寛永2(1625)年1月。
江戸にて、3日間だけ鳴物などが禁止されたことがある。
活気ある風情もこの期間はご法度。一瞬にして、静寂の中に封じ込められたようだ。なんでもこの措置は、3代将軍「徳川家光」の特旨によるものだとか。
なぜ?
一体、何が起きたというのだ?
じつは、これには、ある1人の武将が大きく関係しているという。
その人物とは……。
江戸幕府の礎を築いた「徳川家康」の忠臣。晩年には、家康の第9子で、尾張徳川家の祖、「徳川義直(よしなお)」付家老となった男。
その名も、「成瀬正成(なるせまさなり)」。通称「小吉」。
それにしても、不可解だ。
たった1人の男の存在で、あの「お江戸」が静まるだなんて。何をすれば、こんな事態になるというのか。非常に気になるところ。
その答えが、コチラ。
「正成が死する事家光公の上聞に達し即日より三日の間江戸鳴物停止仰付らる義直卿慟哭……」
(成瀬美雄編『成瀬正成公伝』より一部抜粋)
驚くなかれ。
なんと、江戸の静寂の原因は、成瀬正成の死。
彼が死去したために、このような措置が取られたというのである。まさしく、江戸全体で成瀬正成の死を悼むという意味合いなのだろう。
今回は、この「成瀬正成」を取り上げたい。
徳川家光が命じた措置といい、徳川義直の哀れな慟哭といい。そこまで惜しまれるほどの「成瀬正成」とは、どのような男だったのか。
豊臣秀吉、そして徳川家康。この2人の天下人から必要とされた男の人生。
それでは、早速、ご紹介していこう。
根来衆を率いた若き指揮官
今回の書き出しは、先に「彼の死」からご紹介する展開になってしまったが。改めて、仕切り直しで。まずは、生まれたところから順に追っていこう。
永禄10(1567)年頃(永禄11年とも)。三河国(愛知県)にて、成瀬正一(まさかず)の長男として生まれた正成。父である正一は、徳川家から一時期出奔。武田家に仕えたのちに、徳川家へ戻るという珍しい経歴の持ち主。一方で、正成はというと。幼き頃より徳川家康の小姓として仕え、その後も徳川家一筋。忠臣の道を歩むことに。
そんな正成の初陣は、天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」。豊臣秀吉に対して、織田信長の二男である「信雄(のぶかつ)」と徳川家康の連合軍が激突した戦いである。ここで、正成は初陣ながらも首級を挙げ、その武功が認められている。なんでも、家康から脇差が与えられたとか。
もちろん、これだけでは終わらない。
じつは、この戦いでの正成の活躍が、彼の人生の最初の転機へと繋がるのである。
翌年の天正13(1585)年。家康より、ある命が下る。
その内容はというと。
なんと、成瀬正成に「根来衆(ねごろしゅう)」の50人が預けられたのである。
「根来衆」と呼ばれてはいるが、もとは根来寺の僧兵である。彼らは武術に優れ、鉄砲を取り入れるのも早かった。ゆえに、武装集団として強大な勢力を持つようになったのだが。彼らも、やはり天下人となる豊臣秀吉の前では屈するしかなかったようだ。秀吉の紀州攻めにより根来寺を焼き討ちされ、残念ながら滅ぼされる運命を辿るのである。
ただ、逃げ延びた根来衆の一部は、徳川家康に仕えることに。そんな彼らを束ねることになったのが、若き成瀬正成であった。じつに18歳(17歳とも)ながらで、家康からの大抜擢。こうして、家康時代では最年少となる指揮官が誕生したのである。
その後も順調に武功を重ねる正成。
家康にとって大一番となる慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」では、先ほどの根来組100人を従え、旗本の先鋒を務めることに。戦後は「堺奉行」を経て、慶長12(1607)年、駿府城(静岡県)に移った家康に付き従い、正成も同じく駿府で政務に携わっている。
恐らくだが。
正成は、このまま家康に仕えて一生が終わると思っていただろう。
しかし、じつは、ここにきて、彼の人生に第2の転機が訪れるのである。
それが、家康の第9子である「徳川義直(よしなお)」の家老となるコト。当初は、駿府での政務と、義直の守役を兼務していたが、正式に家老に。尾張徳川家の祖となる「義直」を支え、家康が死去したのちの元和3(1617)年には、尾張(愛知県)に移って3万石を与えられている。
江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書『徳川実紀』には、その時の様子が記されている。
「正成を義直卿(徳川義直)にお付けなさるときには、正成のこれまでの武功や才能をいくつも数え上げ、『このような理由をもって輔導の職に進ませる』とした」
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝5』より一部抜粋)
己の武功や才能など、いわば「長所」を家康から列挙されるだなんて。確かに断れるワケがない。成瀬正成は、それほど家康からの信頼が厚い家臣だったといえる。
豊臣秀吉からのオファーにどうする?正成
さて、成瀬正成が、徳川家康からの信頼を一身に受けたコトは分かったが。その理由が何かは今一つ。
だって、家康の下には、忠実な家臣が山ほどいる。それこそ挙げればキリがない。だから、そこまで成瀬正成が珍しいかといわれれば。断言はできないはずだ。
じつは、家康が正成を絶対的に信頼するには、それなりの理由がある。
もちろん、日頃の行いや実直さなど、性格面でも信頼できるのは間違いない。ただ、この成瀬正成を語る上で、欠かしてはいけないエピソードが他に存在するのである。
それが、もう1人の天下人、豊臣秀吉との絡み。
織田信長が「本能寺の変」で自刃したのち、天下人に躍り出たのが豊臣秀吉。天下統一を果たした彼を頂点に、多くの大名らが臣従していた時代の話である。
当時は、かの徳川家康も臣従していた大名の1人。
そんな徳川家の「馬揃え」が行われたときのこと。「馬揃え」とは、所有する軍馬を集め、その優劣や調練の状況などを披露する、いわば軍事パレードのようなもの。秀吉は、大坂城よりこの「馬揃え」を見物することに。
徳川家の家臣からすれば、待ちに待った晴れ舞台である。それぞれが選んだ自慢の良馬を豪華な馬具で飾り立て、馬揃えに出る。もちろん、あの成瀬正成も。その様子が『徳川実紀』に記されている。一部を抜粋しよう。
「(秀吉が)『数多い中に、黒色の馬に赤い手綱をかけて乗っている者は何者だ』と尋ねられたところ、(家康が)『あれは成瀬小吉(成瀬正成)という者です』と、お答えになった」
(同上より一部抜粋)
ふむ。何やら、嫌な予感。
いやいや、成瀬正成が人目を引くほどの者だとは、分かったのだが。名前を知った秀吉が、その後、何もアクションを起こさないワケがないと思うのは、私だけだろうか。
おっと。来たよ。
さらに続きがあるじゃない。
「(秀吉が)『それ(成瀬)にはどれほどの知行をとらせているのか』と質問された。君(家康が)『一〇〇〇石を与えております』とおっしゃれば、太閤(秀吉)は、『彼は(家臣に)欲しい武者ぶりだ。私ならば、五万石はとらせるのだが』と言って(家臣に召し抱えることを)所望された」
(同上より一部抜粋)
やっぱりね。言わんこっちゃない。1000石に対して、5万石のオファー。50倍のサラリーを提示するところがスゴイ。というか、秀吉よ。「家臣に欲しい武者ぶり」とか言ってるあんたが「無茶ぶり」。ホントに、なんでもカネで買えると思っているところが、また、秀吉らしい。
ただ、ここで、私が文句を言っても仕方がない。
だって、一番困るのは、ご指名を受けた張本人、「成瀬正成」なのだから。
──そなたは、天下人から所望されておる
主君である徳川家康から知らされた衝撃の事実。
どうする? 正成。
運命の岐路に立たされた彼は……。
「『年来心を尽くして、(家康の)御為には一命も捧げようと思っておりましたのに、今このように彼方(秀吉方)に遣わされるのならば、腹を切るよりほかはありません』と申して、覚悟した様子で涙をはらはらと流した」
(同上より一部抜粋)
なんと、切腹覚悟で。家康に涙で抗議をしたのである。
これには、さすがの家康も困り果てる。
家康からすれば、ここまで尽くしてくれる家臣を手放したくないのが本音。ただ、秀吉のところへ行けば5万石の身分が待っている。それに、家康自身のメンツも立つ。この相反する気持ちに折り合いをつけるのは難しかったに違いない。
それでも、家康は苦渋の決断をする。
──小吉(正成)よ。道理を曲げて従ってくれ
こうして説得を試みるのだが。正成もなかなか引き受ける気配がない様子。家康も、幼少の頃より正成を見てきたのだ。ここで彼が簡単に折れるワケがないと、どこかで感じ取っていたのだろう。
とうとう、家康は、それ以上の説得を断念。
秀吉に、ありのままを話すことに。
──切腹も覚悟で、拒んでおります
この答えに、天下人の秀吉もあんぐり。
残念だが、これを黙って受け入れるしかない。だって、自分のオファーを断ったからといって、才能ある武将を切腹させるなど、それこそ本末転倒。ただ、秀吉も、ある程度の予想はしていたようだ。
「いかにも、彼の様子ではそのようなこともあるだろう。内府(家康)は良い人物を数多くお持ちで、うらやましいことだ。精一杯目をかけて手厚く召し使われよ」
(同上より一部抜粋)
──心のままにせよ
そんな秀吉からの許しを受けて。
家康、そして正成は、共に事なきを得たのであった。
最後に。
『徳川実紀』では、成瀬正成のことを「冗談などをいう者」と表現している。
先ほどの豊臣秀吉からのオファーを頑固なまでに拒否した正成だから、堅物かと思いきや。案外、楽しい人物であることが分かる。
秀吉に従えば、徳川家よりも格段とアップした待遇が保証されていた。望む以上の「富」や「地位」を手にすることができたはず。それでも、彼は一切従うことはなかった。いや、迷いすらしなかったのである。逆に、切腹覚悟で、自分の命を賭けて、信念を押し通したのだ。
──主君は家康だけ
そんな思いがあったのだろう。
だから、死ぬ間際。
徳川家康が眠る「日光」へ行くのだと。そんなうわ言を、繰り返したという。何度止めても、きかなかったのも頷ける。
結局、家臣らは困り果てながらも、成瀬正成の気持ちに応えるため、実際に病床を担ぎ、日光に行くフリをした。「某の場所を通過」と、順々に言いながら、その場で担いで回ったという。なんとか、日光までの道中を再現してみせたのである。そして、ようやく日光へと近付いて……。
──日光御橋
この家臣の言葉に、正成はここで下ろせと命じたのだとか。
病床を下ろすところで。
正成は目を見開き、四方を見てから、永眠。
寛永2(1625)年1月17日。
享年58(59)。
そして、正成の希望通りに。遺体は、日光東照宮の家康廟の傍らに葬られたという。
徳川家康への忠義を最後まで貫いた成瀬正成。
じつは、秀吉からのオファーを拒んだ正成について。
家康は、2代将軍「秀忠」に、今回の一件を説明したあとで、このような言葉を残している。
──後々までも、正成を懇意に召し使うように
ひょっとしたら、「秀忠」から「家光」へと、この言葉が伝わっていたのかもしれない。
江戸全体で示した哀悼の意。
成瀬正成には、この意味が伝わったであろうか。
伝わらなければ。
傍で眠る主君が、教えてくれるだろうか。
参考文献
『現代語訳徳川実紀 家康公伝5』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2012年2月
『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団』 山下昌也著 学研プラス 2011年8月
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