クイズ!「表向き」という言葉がありますが、その反対はどっち向きでしょう。
表の反対は裏と思いきや、答えは「奥向き」。武家屋敷が政治の場である「表」と、家族が暮らす「奥」とに分かれていたことに由来します。
「大奥(おおおく)」は江戸城の本丸御殿の奥にあった、将軍の妻子が住むところ。そこは仕事を終えた将軍がほっと息つく憩いの場? いえいえ、徳川幕府を支えた女たちの戦場でもありました。そんな大奥について詳しく解説します。
大奥とは、将軍の後宮だった
天下人となった徳川家康の子孫による世襲制で、15代将軍まで265年間続いた江戸幕府。お世継ぎの確保は幕府の存続に関わる重大事項です。だから将軍は一夫多妻が当たり前。大奥には正妻である御台所(みだいどころ)のほかに、愛妾である側室(そくしつ)も住んでいたのです。ちなみにただ将軍の手が付いたというだけで特別扱いされることはなく、子どもを授かってやっと側室として扱われたのだそう。
帝の后や妃ら、寵愛する女性たちが暮らす場所を後宮(こうきゅう)と呼びますが、大奥とはつまり将軍の後宮。11代将軍の徳川家斉(いえなり)は御台所を含めて17人の女性との間に、合わせて50人以上の子どもを設けています。さすがにこれは歴代将軍の中でもダントツの多さ。実は大奥ができた当時の2代将軍徳川秀忠(ひでただ)は、御台所に気をつかって公には側室を持たなかったといわれています。
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大奥の成り立ち、きっかけは家光の男色好き
江戸城は元々、戦国武将の太田道灌(おおたどうかん)による築城です。それを将軍の居城として改修するのに時間がかかり、実際に住み始めたのが2代将軍秀忠の時代から。本丸御殿の奥に女性だけの居住空間を作ったのは、秀忠の御台所だったお江与(えよ)の方が最初です。
お江与の方のまたの呼び名は江(ごう)。織田信長の姪にあたる戦国の姫で、大河ドラマの主役になったことを覚えている方もいるのでは。
秀忠はお江与の方の嫉妬を恐れたのか、手を付けて妊娠させた女性を城から出して出産させ、生まれた子を家臣に預けています。のちの会津藩主保科正之は秀忠の四男で、会津松平家の祖となりました。
では、将軍の後継ぎが途切れないようにという目的で女性たちが大奥に集められたのがいつからかというと、3代将軍徳川家光(いえみつ)の時代です。さぞかし女好きな将軍だったのかと思いきや、実は家光は男色好きで有名でした。明治以前の日本はどちらかというと性愛におおらかで、男性同士の色事も武士のたしなみといわれたほど。でも、このままではお世継ぎが生まれないと心配した乳母の春日局(かすがのつぼね)が、家光の気に入りそうな女性を集めたのが美女三千人といわれた大奥の始まりです。
ちなみに家光は女嫌いというわけでもなかったようで、その後何人もの側室を持ち6人の子どもを設けました。裕福な相手と結婚することを意味する「玉の輿」という言葉は、八百屋の娘から家光の側室になって後に5代将軍となる綱吉(つなよし)を生んだお玉の方に由来するもの。
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美女三千人の真実は、働き者の女性たち
ところで、大奥には本当に美女が三千人も集められていたのでしょうか。将軍が女性を選び放題のハーレムだったのでしょうか?
実は「大奥美女三千人」というのは中国の「後宮佳麗三千人」という言葉にならって、大勢の女性がいたことを例えた表現にすぎないという説があります。奥女中と呼ばれる奉公人が400人前後で、上級の奥女中が個人的に雇っていた部屋子という使用人などをプラスしても、大奥に住んでいたのは700~800人くらいだったと考えるのが妥当なよう。
もちろん必要な使用人の数は側室や子どもの数によっても変わるので、時代によってもっと多かったり少なかったりしたでしょう。例えば享保の改革を行った8代将軍の徳川吉宗(よしむね)は、大奥のなかでも美しい女性だけを集めさせ「やめてもよい嫁ぎ先があるだろう」と一風変わったリストラをしています。また本丸御殿のほかに、二の丸や西の丸に次期将軍や先代将軍の御台所が大奥を構えることもあったといいます。
ひとつ確かなのは、大奥に奉公していた女性全員が将軍の側室を目指していたわけではないということ。奥女中には将軍と御台所の暮らしを支えるという実務があり、様々な役職に分かれて仕事を担っていました。
大奥の最高権力者は美女ではなく老女
奥女中のトップは「上臈御年寄(じょうろうおとしより)」。家光以降、公家から迎えることが多かった御台所に付き添ってきた女性たちで、御台所の話し相手などを務めました。
それに次ぐ「御年寄」またの呼び名を老女は、幕府の家臣団でいえば老中に匹敵する地位。実質的な大奥の指揮・監督者にあたります。年齢は30~40代が多かったそうですから老女だなんてと思いますが、今とは感覚が違ったのでしょうね。
そして将軍や御台所の身の回りの世話をするのが「御中臈(おちゅうろう)」。寝室で将軍の相手を務める御伽(おとぎ)役は将軍付きの御中臈の中から選ばれるのがしきたりです。
将軍の指名がないときには御伽役を選ぶのも御年寄の仕事のひとつ。大奥で出世するには「一引き、二運、三女」といって有力な御年寄に引き立てられることや運よくポストに空きがでるといったことのほうが、美人であることよりも重要だったのだとか。
奥女中は基本的に、口をつぐんで一生奉公
大奥に奉公できるのは、基本的には身元の確かな旗本の娘たちです。秘密保持が絶対の奥女中は一生奉公が原則とされ、休みをとって家に帰ることも自由にはできません。手紙のやりとりさえ祖父母や親兄弟など近しい親族に限られています。
それでも掃除などを担う「御三の間」から奉公を始め、将軍や御台所の着物を縫う「呉服の間」や日誌をつける「御右筆」など自分にあった役職について地道に勤めあげる女性たちが大勢いました。
長年働くと年金も出たので、経済的な事情などで働かなくてはならなかった武家の女性にとって、大奥は安定した勤め先だったのでしょう。
将軍の私生活は禁断のゴシップ
「御三の間」よりさらに下には「御末(おすえ)」や「御犬子供」といって、主に奥女中たちが寝起きするエリアで働く雑用係がいました。
町人や農民の娘たちが旗本を仮親にして勤めることが多く、出世はせずに下働きだけして数年で退職します。彼女たちのねらいは、大奥に勤めていたという箔をつけて良いところへお嫁にいくこと。
ところで江戸時代の人々にとっては、将軍の私生活というのは禁断のゴシップです。当時ベストセラーになった源氏物語のパロディ『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』が、将軍の大奥での暮らしぶりを揶揄しているとして絶版処分になったこともあるほど。
くれぐれも奥女中たちから情報がもれることがないように、『大奥法度(はっと)』というルールでは面会や文通の相手まで厳しく制限されていました。さらに『大奥女中誓詞(せいし)』に血判を押して、「大奥で見聞きしたことは一切外部にもらしません」と誓いを立てたうえでの奉公です。
それでも大奥の内情がこうやって現代に伝えられ、ドラマや映画にもなっているのですから、人の口に戸は立てられないとは本当ですね。
さて、そんな秘せられた将軍の私生活はというと……、実は意外と不自由なものだったようです。
側室とのエッチは見張り付き!?大奥仰天ルール
江戸城の本丸御殿は南側から政務の場である「表」と将軍の居間などがある「中奥」、そして「大奥」とに分かれていました。表と中奥の境目は曖昧ですが、大奥はきっちりと仕切られていて出入りできるのは数ヵ所の御錠口(おじょうぐち)だけ。そして閉ざされた女の園は、独特のしきたりによって運営されていたのです。
入れる男は一人だけ
大奥は基本的に将軍以外の男子禁制。これはDNA鑑定などがない時代「お世継ぎが実は将軍の子どもではなかった」という事態を防ぐためのルールだったのでしょう。大奥で働く女中の親族であっても、面会ができる男子は9歳までと決められていました。
門限は夜の6時
夜の闇に紛れて逢引きをしないようにということでしょうか。大奥は夜6時以降の出入りが禁止。将軍であっても気軽に出入りはできず、大奥に泊まるときはあらかじめ「今日は誰々と寝る」と予告をしておかなくてはならなかったといいますから、ちょっと厳しすぎる気もしませんか。
厳しいルールの反動か、御台所の代わりに寺院に参拝する代参にかこつけて外出した奥女中が羽目を外し、僧侶や役者と密通して騒動になることもありました。大奥最大のスキャンダルといわれる「絵島生島(えじまいくしま)事件」もそのひとつ。
将軍のお相手は30歳まで
どんなに将軍に気に入られていても、30歳になったら寝室での相手を辞退する御褥御免(おしとねごめん)もお約束。確かに子どもを授かれば、当時としては高齢出産のリスクがあったのかもしれません。元々は体の弱い御台所を気遣ってのルールだったようですが、側室も御中臈も右にならえ。そして将軍のお相手を引退した御中臈には驚きの役目があったのです。
寝室の見張り役は昔の女
将軍が御台所以外の女性と寝るときは、布団を挟むように2人の御添寝(おそいね)役が背を向けて横になっていました。これは将軍のお気に入りとなった女性が、寝室でとんでもないおねだりをしないよう見張るためだったとか。御添寝役は一晩中眠らずに聞き耳をたてて、翌朝に寝室でのできごとを御年寄に報告するのが仕事です。しかもこの役、将軍のお相手を引退した女性が務めることもあったそう。
お世継ぎ問題がいくら幕府の重大事項だからといって、大奥では将軍にすら自由がありません。こんなにしがらみが多くて、そもそもその気になれるもの?
幕末のレジェンドへとつながる、大奥のジレンマ
歴代の将軍が公家から迎えた御台所は、体の弱い女性が多かったといいます。将軍と御台所との間に子どもが生まれているのは、2代将軍秀忠とお江与の方のみ。だからこそ大奥には側室となる女性たちが必要でした。
けれども側室が好き勝手をしたり、権力を持ちすぎたりしても困る……。
女たちの思惑が絡み合って、大奥は複雑な場所となっていったのでしょう。お世継ぎが生まれにくく育ちにくい後宮というジレンマに陥ります。
そして時に徳川家康の子孫にあたる御三家からも将軍を迎えながら、幕末の伝説的な二人の御台所、薩摩出身の天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)と皇女和宮(かずのみや)の時代まで続いていくのです。
それにしても、話題のつきない大奥!
隠された場所ほどのぞきたくなる、それが人の心理というものですよね。
参考書籍:
大奥列伝(世界文化社)
大奥101の謎(河出書房新社)
別冊歴史読本 江戸城大奥ガイドブック(新人物往来社)
大奥列伝 ヒロインたちの「しきたり」と「おきて」 単行本(ソフトカバー)
アイキャッチ画像:千代田の大奥 お召かへ 楊洲周延(国立国会図書館デジタルコレクションより)