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2022.03.31

花は究極のエロス!?日本人の心を掴んだ大ヒット曲の法則を考える

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『世界に一つだけの花』(SMAP/槇原敬之)
『夜桜お七』(坂本冬美)
『サボテンの花』(チューリップ/財津和夫)
『フラワー』(KinKi Kids)

これらの歌には共通点があるのはお気づきだろうか。
いずれもタイトルに「花」関連ワードが含まれていること、大ヒットを獲得し、老若男女を問わず親しまれていることだ。楽曲がヒットした時代においてタイムリーに聞いたことがなくても、曲名を見てメロディーが頭に浮かんでくるといういう人は多いことだろう。

知る人ぞ知るこれらのJ-POPソングはなぜ多くの日本人の心を掴んだのだろうか。
その人気のカギを握るのが日本の和歌だ。

和歌と繋がるってどういうこと〜?

日本の詩歌の「あはれ」の構造

「花=女性」のイメージは万国共通だ。花が持つ美しさや優美さ、貞潔、官能などが女神の姿へと投影され、ギリシャ・ローマ神話では「愛と美」の象徴と化した。キリスト教が普及すると、聖母マリアは純潔のユリ、慈愛のバラ、謙譲のスミレといったように、女性の美徳が花によって表現された。

花が持つ意味はそれぞれの国・地域で変容していった。日本では女性の魅力を表現したり、恋する気持ちを示したりするのに花が援用されてきた。花見といえば奈良時代は梅、平安時代は桜であったわけだが、古くから人々の間では花に身を寄せ、31字の中に恋人への愛しさや会えない切なさなどを託して歌を詠むということが嗜みとされてきた。

例えば日本の国花に指定されており、日本のシンボルでもある「桜」。恋心の象徴であり、サクラの花の美しさを愛する女性に喩えたりもしてきた。そんな桜にはこんな伝説があるのはご存知だろうか。允恭(いんぎょう)天皇は恋する女性である衣通姫(そとおりひめ)に会いに行く途中に桜の木のそばを通り、その清楚な花の美しさに姫への愛おしさを重ね、このような歌を詠んだと伝えられている。

花ぐはし 桜の愛で 同愛でば 早くは愛でず 我が愛づる子ら
(『日本書紀』3巻より)

(現代語訳)サクラの花のように美しいあなた、皇后(別の女性)を迎える前にもっと早くにいすればよかったなあ、と恋心を募らせる。

『踏舞会 上野桜花観 遊ノ図』(楊洲周延/1887年)-メトロポリタン美術館

明治時代の軍国主義体制では、桜は国家のために死にゆく精神のシンボルであった。「潔く死ぬことは美しいことである」という国家のための死を美化したプロパガンダのために桜が使われた。『万葉集』の時代とは意味合いが異なるとはいえ、そこには国家への忠誠と愛という別の種類の愛があり、「花」「愛」間の構図が受け継がれていることは言うまでもない。

花はロマン?いや、究極のエロスだ!

植物は人間をはじめとする動物とは異なり、基本的に種が落ちた場所に根を張りつつ、その場所から動かない。その点を考慮し、種を保存し、生殖・繁殖するために存在していると主張する生物学者もいるほどだ。書家の石川九楊(いしかわきゅうよう)氏は生物学者のその主張を引用し、植物の本能について以下のように纏めている。

動かないものが自分自身をコピーし再生させる、つまり生殖という活動をしなければならない植物には、様々な知恵がそこに働く。植物というのはすぐれた知恵者である。自分は動かないが、その代わりに風を使いあるいは虫を使うなどいろいろな誘い方をしながら受精、受粉し自分自身を増やしていく。自己の子孫を増やしていく営みを続けているのである。それが植物の生殖である。

(石川九楊『「花」の構造:日本文化の基層』)

そもそも花というのはその構造からしてエロティックだ。オシベ(オス)とメシベ(メス)が(間接的に)交わる部分が剥き出しになっているのだから。人間で喩えるならば、下半身が真っ裸の状態を指している。女性が愛する人を思いながら、花びらを顔に近づけて匂いを嗅ぐさまは何ともロマンチック……と思うかもしれない。植物の中でも花の部分は人間で言うところの下半身であり、〇〇〇の匂いを嗅ぐという淫猥(いんわい)な雰囲気と結びついた裏の顔を秘めている。

オシベとメシベの“交尾”の場である柱頭が露出している。-写真AC

オシベは成熟すると花粉を放出し、やがてその花粉がメシベの柱頭に付着する。これを人間に喩えると、交尾が直接的なものであるか、間接的であるかで異なるものの、男性が女性と目合(まぐあ)い、女性の膣内で射精することと同じである。

精液や膣などの言葉を使うのは露骨すぎるからと、それらをオブラートに包んで、代わりに花で表現しようというのが日本の伝統である。逆に言えば、「花」ひとつで肉欲を暗示した表現が出来上がるわけで。そういった視点を持つことによって、例えば花見に対する見方がガラリと変わるだろうし、ディープな日本文化体験が得られること間違いない。

花の捉え方がめちゃめちゃ変わった!

日本の詩歌の「あはれ」はJ-POPや歌謡曲にも受け継がれている

タイトルに「花」関連ワードを含むJ-POPや歌謡曲、演歌には、概ね恋人への愛しさや会えない切なさを歌ったものが多い。これも恋人への愛しさや会えない切なさを花に託すという『万葉集』の時代からの伝統が日本人のDNAに刻まれているためであろう。古いものでは都はるみの『アンコ椿は恋の花』から、最新のものだとあいみょんの『マリーゴールド』まで、タイトルに「花」関連ワードを含む恋愛の歌であり、なおかつ大ヒットを記録した、老若男女を問わずより多くの日本人に愛されるJ-POPおよび歌謡曲の一部をリストアップした。(数字は楽曲がリリースされた年を指す)。

アンコ椿は恋の花(都はるみ/1964年)、ひなげしの花(アグネス・チャン/1972年)、サボテンの花(チューリップ/1975年)、秋桜(山口百恵/1977年)、夢想花(円広志/1978年)、赤いスイートピー(松田聖子/1982年)、野に咲く花のように(ダ・カーポ/1983年)、秘密の花園(松田聖子/1983年)、情熱の薔薇(THE BLUE HEARTS/1990年)、木蘭の涙(スターダスト☆レビュー/1993年)、夜桜お七(坂本冬美/1994年)、スカーレット(スピッツ/1997年)、すみれSeptember Love(SHAZNA/1997年)、楓(スピッツ/1998年)、フラワー(KinKi Kids/1999年)、桜坂(福山雅治/2000年)、SAKURAドロップス(宇多田ヒカル/2002年)、ダンデライオン(BUMP OFCHICKEN/2002年)、花唄(TOKIO/2002年)、さくら(森山直太朗/2003年)、桜(河口恭吾/2003年)、世界に一つだけの花(SMAP/2003年)、桃ノ花ビラ(大塚愛/2003年)、花(ORANGE RANGE/2004年)、ハナミズキ(一青窈/2004年)、ミモザ(ゴスペラーズ/2004年)、月光花(Janne Da Arc/2005年)、ここにしか咲かない花(コブクロ/2005年)、さくら(ケツメイシ/2005年)、桜(コブクロ/2005年)、桜(リュ・シウォン/2005年)、桜色舞うころ(中島美嘉/2005年)、サクラ咲ケ(嵐/2005年)、恋のつぼみ(倖田來未/2006年)、ソメイヨシノ(ENDLICHERI☆ENDLICHERI/2006年)、サクラ色(アンジェラ・アキ/2007年)、睡蓮花(湘南乃風/2007年)、蕾(コブクロ/2007年)、愛をこめて花束を(Superfly/2008年)、花の匂い(Mr.Children/2008年)、桜(FUNKY MONKEY BABYS/2009年)、Sakura(レミオロメン、2009年)、ひまわり(遊助/2009年)、シアワセ色の花(東方神起/2011年)、花束(back number/2011年)、桜の森(星野源/2014年)、スミレ(秦基博/2016年)、花束を君に(宇多田ヒカル/2016年)、himawari(Mr.Children/2017年)、マリーゴールド(あいみょん/2018年)

ここで、例としてケツメイシの『さくら』を考えるとしよう。

歌詞の中では気になるあの人の仕草だとか、動いた時に漂う淡い香りだとか、感覚的な恋愛体験が綴られている。もし仮にイントロ部分がこうした感覚的な体験のみで占めていたとしたら、受け手は「キモイ」というネガティブな印象を受けるかもしれない。感覚的な恋愛体験を振り返りつつも、歌詞の中に適度に「さくら」を配置することで感情の中和作用によりネガティブな感情が打ち消され、結果的に歌詞全体が聞いて心地よいものに仕上がっている。少なくとも日本の詩歌における花の役割はそんなところにあるのだろう。

花だけじゃないゾ!果実の歌もまたいとあはれなり

膣内に精液が放出されると、精液に含まれる精子は子宮頚管の中を泳ぎながら遡上(そじょう)し、子宮に辿り着く。そして、卵巣から出た卵子との出会いをもって、妊娠(=受精)が成立する。

同様に、植物の膣こと、メシベの柱頭に付着した花粉は、植物の内部にある胚珠へ向かって花粉管を伸ばす。まるで精子が子宮頚管の中を通って子宮を目指すかのように。そして、胚珠内で花粉管の内容物を放出して受精が成立すると、胚珠は種子へと変わり、やがて花の部分は果実となる。

こうして考えてみると、花と果実は関連性を持つ。その証拠に、「さくらんぼ」「リンゴ」といった果実をタイトルに含むJ-POPや歌謡曲の歌詞もまた、エロティックな妄想を掻き立てる構成に仕上がっている。以下、果実をタイトルに含むJ-POPおよび歌謡曲の一例である。

リンゴの唄(並木路子/1946年)、檸檬(さだまさし/1978年)、イチゴの誘惑(竹内まりや/1981年)、真夏の果実(サザンオールスターズ/1990年)、チェリー(スピッツ/1996年)、桃(槇原敬之/2001年)、サボテン(ポルノグラフィティ/2000年)、さくらんぼ(大塚愛/2003年)、雲は白りんごは赤(aiko/2006年)、PEACH(大塚愛/2007年)、いちご(ゆず/2009年)、Lemon(米津玄師/2018年)

ここで、2003年に発売された大塚愛の『さくらんぼ』を考えるとしよう。

懐かしい〜!20年前か!

この楽曲を一言で表すと、愛する人への思いがギュッと詰まった歌だ。さくらんぼには自分の愛する人への気持ちが示されており、その点においては花に思いを託して歌を詠みあげるという『万葉集』の時代からの伝統の継承が窺われる。例えば好意を抱いていない異性から「君とつながっていたい」だの言われると、ネガティブな感情が湧き出る。この歌詞を見てそういった印象を受けないのは、さくらんぼが感情のうえでの緩衝の役目を果たしているからであろう。

さくらんぼは自分と愛する人との心理的距離を縮め、「密着したい」という貪欲かつエロティックな妄想を掻き立てる。古代の人たちもきっと花の和歌を詠む時に、このような妄想を楽しんでいたことだろう。

日本茶や着物、能といった日本的な要素の強いものに惹かれるのと同じように、歌に込められた古の伝統に自ずと惹かれた結果、大衆の熱狂とともに売り上げは70万枚を超えという大ヒットを記録した。

戦後の『リンゴの唄』の大ヒットがベビーブームをもたらした

戦後間もない頃に大ヒットを飛ばした曲のひとつに、並木路子(なみきみちこ)の『リンゴの唄』がある。そのタイトルには「リンゴ」を含んでおり、カテゴリー的には恋愛ソングに括られる。GHQによる検閲を経て、1945年10月に上映された映画『そよかぜ』の主題歌および挿入歌として発表された曲である。

『そよかぜ』といえば、並木自身も主演として参加。並木演じるアイドル歌手志望の少女がバンドのメンバーに励まされつつデビューするまでを描いた物語である。『リンゴの唄』を口ずさみ、スキップしながらリンゴ畑を駆け抜ける並木の姿はなんとも印象的だ。

8月15日に戦争が終結し、大衆の心が癒えていない時に流れてきた『リンゴの唄』。歌詞には「リンゴ」のワードがたびたび登場しており、そこには「あはれ」の構造が存在する。

歌い手は並木路子という女性であり、ここで赤いリンゴが象徴するのは少女であろう。そこに愛が存在するのは間違いないが、受け手は老若男女を問わずさまざまであり、受け手側がどう解釈しようが自由だ。例えば赤いリンゴを愛する異性の〇〇〇に見立て、そっと口づけをした。お天道様が上から見守っている。そんな光景を想像しながら、ただただ愛する人との妄想恋愛を楽しむのにうってつけのシチュエーションがこの歌詞の中では設定されている。

写真AC

戦争で身体的にも精神的にも疲弊しきっていた時に、この曲が流れた。自らを恋愛物語の主人公に据え、固有のストーリーを紡ぎ出していく方法は、ポジティブな感覚の増幅や自己回復にもつながり得るとして、近年医療やカウンセリングの場でも注目を集めている。

『リンゴの唄』における「あはれ」の構造に感化された結果、自己肯定感や自己効力感がもたらされ、悲嘆に暮れた戦後から立ち直ることができた。と同時に、「あはれ」が持つもうひとつの側面が大衆の本能を呼び覚まし、ベビーブームを巻き起こした。日本の伝統的な詩歌はいわば“心のバイアグラ”だったのだ。

『リンゴの唄』が社会に大きな影響を与えているなんて考えもしなかった!

最近の曲は「あはれ」が足りない?

年間の音楽チャートを覗けば、特定の系統のグループが年間ランキングを独占している昨今、ヒット曲が大衆性を失ったとも言われる。実際のところ、2004年におけるORANGE RANGEの『花』のリリースを最後に、「あはれ」の構造を有する楽曲のリリースが途絶えつつある。それどころか、ORANGE RANGEの『花』以降で、爆発的ヒットとなった楽曲について考えた場合、星野源の『』を除けば思い当たるものがない。

率直に言うと、星野源の『恋』は大塚愛の『さくらんぼ』をはじめそれ以前の時代にヒットした「花」関連の楽曲に比べると、エロティックな妄想を掻き立てる構図を欠いている。それもそのはず。花や果実のワードが全く見当たらないのだから。歌詞全体としては恋模様を描いたものとなっている。が、その歌詞が叙情的というか、愛する人への思いを花に託すという日本の伝統から外れたものとなっているのだ。

確かに、多くの人たちを魅了した楽曲であるのかもしれない。ただ、この楽曲が大ヒットした経緯を考えてみても、楽曲が起用されたドラマのエンディングで流れていた恋ダンスに惹かれ、そのダンスを真似しようとYouTubeを何度も再生したところバズって大ヒットにつながったというだけで、その歌詞自体にはあまり注目が集まらなかったという印象だ。

それから、ゲスの極み乙女。の『ロマンスがありあまる』『両成敗でいいじゃない』『私以外私じゃないの』。いずれも心に印象強く残っているという人は多いのではないだろうか。ボーカルと某女性タレントとの不倫が発覚後、ワードショーで耳にタコができるくらい流れていたのであって。

ところが歌詞に目を向けると、これらの楽曲はすべて星野源の『恋』と同様、「あはれ」の構造を欠いている。恋心を花に託し、オブラートに包んで伝えるという、日本文化の伝統とも言える仕掛けがなされていない。多くの人々の心に残っているとはいえ、不倫報道に便乗したメディア側の戦略の結果であって、より自然ななりゆきで歌詞に惹かれたという人はさほど多くはないのではないだろうか。

J-POPが売れなくなった、大衆性を失ったと言われる背景には、こういったことが一因として関係しているのではないかと筆者は思うわけである。

文字に気持ちを託すことがすべてじゃない!?「あはれ」の表現方法の多様化へ

2007年に放送されたTBS系列ドラマ『花より男子2(リターンズ)』。漫画家の神尾葉子(かみおようこ)先生による原作をベースに、日本を代表する道明寺財閥の跡取りである道明寺司と一般中流家庭出身の牧野つくしとの格差恋愛を描いたドラマであり、その主題歌に起用されたのが嵐の18作目シングル『Love so sweet』である。

『Love so sweet』はまさに恋愛ソングの王道である。しかしながら、その歌詞の中で「花」関連ワードが出てくるのは、2番歌詞のBメロ部分のみである。ケツメイシの『さくら』やORANGE RANGEの『花』と比べても、明らかに「花」関連ワードの登場回数が少ない。(そもそも『Love so sweet』というタイトルに「花」関連ワードが入っていないというのもあるが…..)。

その代わりというのも何だが、プロモーション・ビデオ(PV)に目を向けると、3D化された無数のハートがふわふわと浮遊し、嵐のメンバーがショーウィンドウの中でまるでマネキンのように静止している場面では植物への見立てが働いており、その横には桜の木がある。少なくともPVの中には技術的に凝らした精巧な「あはれ」がある。

はるか遠い昔、自分の思いを伝えるための手段といえば和歌くらいで、恋人への愛しさや会えない切なさを文面いっぱいに託さなければならなかった。ところが、現代は自分の思いを伝えるために筆を執る必要はなく、例えば絵文字やスタンプなどで気軽に気持ちを表現できるようになった。さらに、VR(仮想現実)やAR(仮想現実)といった自らの気持ちを表現するのに有用なさまざまな高度な技術も登場しつつある。

これも時代の流れであって、最新のテクノロジーにとって代わられながらも、詩歌における日本古来の「あはれ」の構造は受け継がれていくのではないだろうか。

今後どう受け継がれていくのか楽しみ〜!!

(参考文献)
『「花」の構造:日本文化の基層』石川九楊 ミネルヴァ書房 2016年
『神話と伝説にみる花のシンボル事典』杉原梨江子 説話社 2017年
『花のうた紀行』馬場あき子 新書館 2004年
『無意識を活かす現代の心理療法の実践と展開:メタファー/リソース/トランス』吉本雄史他編 星話書店 2004年

書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『アートラジオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。