卑弥呼(ひみこ)は3世紀頃の日本に実在したとされる女王。しかし、その存在は多くの謎に包まれています。卑弥呼が何をした人なのか、死因、時代背景などを解説します。
『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼の素顔
「その国ではもともと男を王としていたが、倭国で争乱が起こり攻め合うこと数年、(諸国が協議をして)共に一人の女王を立てた」と、乱世を治める救世主さながらに『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に登場する卑弥呼。
『魏志倭人伝』というのは通称で、2~3世紀の後漢末、三国時代の中国の歴史をまとめた『三国志』の中にある、『魏志』東夷伝(とういでん) 倭人の条のことを指しています。
倭人というのは、当時の日本に住んでいた人々のことです。
3世紀頃の日本はいくつもの小さな国々に分かれていて、卑弥呼はその中の約30カ国をまとめた連合国の女王でした。連合国の中心となる都がおかれていたのが、邪馬台国(やまたいこく)です。
卑弥呼は目に見えない神や霊と交信する「鬼道(きどう)」の能力に優れていて、女王になってからはめったに人前に出ることがありませんでした。1,000人もの女性が卑弥呼に仕えていましたが、日々の食事を運んだり、言葉を聞いたりできるのは一人の男性のみ。
女王になったときには「すでに年、長大」つまり成人に達していたと考えられますが、10代前半には成人とみなされた時代のこと、20代だったのか30~40代になっていたのか、はっきりとした年齢は分かりません。夫は持たず、実質的な政務は卑弥呼の弟が担っていました。
『魏志倭人伝』のこうした記述からは、巫女のような女王・卑弥呼の姿が見えてきます。
卑弥呼が生きた時代と、倭人の暮らし
卑弥呼が生きていたのは、弥生時代の終わり~古墳時代が始まる頃です。
人々が稲作をして暮らすようになって、やがて豊かな者とそうでない者とに分かれ、階級ができていった時代。
仏教伝来とともに、日本で漢字が使われるようになったのが6世紀頃。3世紀頃の日本には、歴史を書き残すようなしっかりとした文字はまだなかったと思われます。一方、中国では皇帝の言動や外交の記録などが細やかに残されていました。
「楽浪郡(らくろうぐん/朝鮮半島北西部)の海の向こうに倭人が住むところがあり、百あまりの国に分かれている」と『漢書』地理志は伝えています。
『魏志倭人伝』は文字数でいえば2,000字ほどの漢文なのですが、情報量はかなりのもの。
「倭の人々は長寿で、80~100歳まで生きる者もいる」
「誰かが亡くなると、家族は嘆き悲しみ、その他の人は踊りを捧げて供養をする」
「一夫多妻制で、身分の高い者には4~5人の妻が、一般の者にも2~3人の妻がいる」
「衣服は縫い目のないもので、女は布に穴を開けた貫頭衣のようなものを着ている」
「男は顔や体に入れ墨をしている。海にもぐって漁をする者たちは、入れ墨によって人を襲う大きな魚や海の魔物から身を守ることができると考えている」
「動物の骨を焼いて、ものごとの吉凶を占う習慣がある」
……などなど、興味深い倭の人々の暮らしぶりを教えてくれます。
「親魏倭王」卑弥呼の外交手腕
卑弥呼は239年*、魏の皇帝に貢ぎ物を携えた使者を送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を得ています。
ここに、卑弥呼の優れた外交センスを見ることができます。
もともと倭は、朝鮮半島の楽浪郡やその南側にある帯方郡(たいほうぐん)を経由して中国の王朝に使者を送っていましたが、魏・蜀・呉の3国が覇権を争っていた時代には、その付近は一役人から身を起こして地元の豪族たちを従えるまでになった、公孫(こうそん)氏という一族によって支配されていたのです。
魏が公孫氏と戦って楽浪郡や帯方郡を支配下に置いたのが238年のこと。卑弥呼は魏へ直接使者を送ることができる、このチャンスを逃しませんでした。魏も、近隣の国々が対立国である呉と手を結ぶことを警戒していたのでしょう、倭からの使者を歓迎し、卑弥呼に親魏倭王の証となる金印紫綬を授けること、貢ぎ物への返礼品として銅鏡100枚などを贈ることを約束したのです。
卑弥呼の狙いは、大国の魏に認められた王として国内での地位を盤石なものにすることでした。なぜなら、卑弥呼が率いる連合国は当時、南の狗奴(くな/くぬ)国と長い対立関係にあったからです。
卑弥呼は続く243年と247年にも魏へと使者を送って、狗奴国との戦いの厳しさを報告。魏は使者に軍旗を授けて、味方となることを示しています。
謎の死、謎の墓と後継ぎの女王
しかし、狗奴国との戦いの結果を『魏志倭人伝』は伝えていません。記されているのは卑弥呼が亡くなったことと、直径が100歩(ぶ、長さの換算には諸説あり)もある大きな墓が築かれたことです。戦死だったのか、病死だったのか、それとも老衰によるものだったのか、死因は不明。日本には卑弥呼の墓ではないかといわれる古墳がいくつかあるものの、決定的な場所は現在まで見つかっていません。
卑弥呼の後継ぎとなったのは、13歳の壱与(いよ)という少女でした。卑弥呼の死後、いったんは男の王が立ったものの、人々が従わず国が乱れたために、再び女王が擁立されたのです。なお、壱与という名前については台与(とよ)が正しいとする説もあります。
卑弥呼=神功皇后説とは?
卑弥呼の名前は日本で編纂された『古事記』や『日本書紀』の中には登場しません。しかし、『日本書紀』の中には神功(じんぐう)皇后が摂政として政治を行っていた時代に、倭から魏に使者を送ったという『魏志倭人伝』からの引用と思われる記述があります。そのため、神功皇后の伝説には、卑弥呼ならびに壱与という女王の姿が投影されていると考えることができるのです。
神功皇后は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后であり、第15代応神(おうじん)天皇の母とされる人物。仲哀天皇が九州の熊襲(くまそ)一族を討つために遠征し、その先で戦いに敗れて急死していることから、熊襲国を卑弥呼が戦った狗奴国と重ねる見方もあります。
女王の都、邪馬台国はどこに?
謎多き女王・卑弥呼。関連する最大の謎といえば、「邪馬台国があった場所はどこか」です。『魏志倭人伝』の中には「帯方郡から女王国まで一万二千余里」といった、手がかりとなる記述がいくつかあります。行程の一部を書き出してみましょう。
「海を渡ること千余里、対馬(つしま)国に至る」
長崎県対馬
「また南へ海を渡ること千余里、一大国(一支国)に至る」
長崎県壱岐(いき)
「また海を渡ること千余里、末蘆(まつろ)国に至る」
佐賀県唐津市付近、松浦(まつら)という古い地名がある
「東南へ陸行すること五百里、伊都(いと)国に至る」
福岡県糸島市
「奴(な)国まで東南に百里」
福岡県福岡市・春日市付近、近くの志賀島から「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印が出土
……とこの辺りまでは、現在の地名などと照らし合わせて推測ができるのですが、邪馬台国への道のりはまだまだ続きます。
「東の不弥(ふみ)国まで百里」
「南の投馬(とうま)国まで水行で二十日」
「女王の都がある邪馬台国まで南へ水行で十日、陸行で一月」
里(り)というのは長さを表す単位です。日本では明治時代に1里を4㎞と定めましたが、実は国や時代によって定義がまちまちで、魏の時代の1里がどのくらいだったのかがはっきりとしません。さらに「水行で何日」といった表現になると、1日にどのくらいの距離を進むことができたのかという問題があります。
また、最後の「邪馬台国まで南へ水行で十日、陸行で一月」は、「水行の場合には十日かかり、陸行の場合には一月かかる」とも読めるし「水行で十日、そこからさらに陸行で一月」とも読めます。
方角から考えると、邪馬台国は九州よりも北にはありません。一方で、不弥国から投馬国、投馬国から邪馬台国への日数を考えると、九州から出てもおかしくありません。「やまたいこく」という音が、大和国(やまとのくに)に通じることから、奈良県を中心とした畿内地方にあったという説が、邪馬台国九州説と並び有力となっています。
邪馬台国の場所については、これまでに多くの調査や研究が行われてきましたが、解明にはいたっていません。
土の中に眠っている遺跡や遺物からその謎が解ける日が、いつか来るのでしょうか。
卑弥呼でおなじみ「邪馬台国」はどこにあった? 古代日本史ミステリー
参考書籍:
NHKにんげん日本史 卑弥呼(理論社)
古代史研究の最前線 邪馬台国(洋泉社)
卑弥呼の時代(吉川弘文館)
日本大百科全書(小学館)
世界大百科事典(平凡社)
国史大辞典(吉川弘文館)
日本人名大辞典(講談社)
誰でも読める 日本史年表(吉川弘文館)